未完成交響曲、シーベルト

2018年1月16日

ここ二回程超スローテンポに触れてみました。

今日はシューベルトの未完成交響曲で三度目の超スローテンポということになります。

この交響曲がスローとどういう関係があるのかと首をかしげ.る方もいるでしょうから、少しだけそのことに触れておくと、この曲はスローの精神で書かれているということなんです。それでここにとりあげるのも悪くないかなと思った次第です。力を入れすぎると長くなりそうなのでできるだコンパクトにまとめたつもりです。最後まで読んでいただけたら恐らく色々なことがわかっていただけると思います。

 

この交響曲は西洋音楽の中の突然変異です。こんな変わり種はこの曲が書かれるまでかなったし、これからはどうなるかわかりませんが、西洋音楽の中に異変が起きない限り生まれないでしょう。未完成に終わったことが理由ではありません、そんな曲なんかは掃いて捨てるほどあります。そうではないなくこの曲には西洋的感性、思考にそぐわない体質があって、行き先を見失いそうな無重力な不安定さの中で調和がとれているからです。音楽が何かを表現しようとしているうちは、第二の未完成は期待出来ないのです。

 

少し横道に逸れますが、シューベルトが歌曲の王と呼ばれていることは皆さんもよくご存知だと思います。正真正銘の歌曲王です。数え方によって随分変わってきますが、作られた歌は公には600曲ほどということです。でもそんなことはどうでもよくて、ドイツの今日の歌曲の状況をお話しすると、なぜ彼が本当の歌曲王なのかが見えてくると思います。実はドイツでは歌曲なんてすっかり忘れ去られて、コンサートをやりたくても人集めができなくて困っています。ブラームスもシューマンもシュトラウスもヴォルフも歌曲の夕べは閑古鳥が鳴いています。でもシューベルトの歌は聞きに来る人がいるんです。摩訶不思議な人気です。

もう一つ歌曲王にまつわることでいうと、シューベルトの歌曲はメロディーの美しさはいうまでもないことですが、伴奏が素晴らしいのです。メロディーも湧くように生まれたのでしょうが、そのメロディーを包むような伴奏を忘れてはシューベルトの歌曲は語れないのです。歌曲の王、伴奏の王それがシューベルトです。

特に歌は伴奏が目立ちすぎると歌が生えないですし、単調でも飽きてしまうというもので、高度な音楽的センスが要求されています。シューベルトの音楽は伴奏の精神、つまり無私であって自己主張をしない精神に支えられているのです。

 

未完成は演奏される回数は多いし、好きですという声もよく聞きます。ドラマ性がある訳ではないし、曲がなにか特別な、例えば人類愛だとか、宗教的にキリストの受難だとか昇天を表現しているという訳でもないのに、とても好かれています。好きとしか言えない何かで人が聞きに来るのです。歌曲もよくにいてい、歌詞が二流の詩人からだと文学者たちは指摘しそっぽを向きます。だから聞くに値しないとインテリ層の人たちからも相手にされないのに、実際には聞きに来る人がいるのです。高尚な説教が聞きたいわけではなく、歌で日常から非日常へと飛び出したいのです。そして心をリアルに感じるシューベルトのメロディー、それを包む伴奏にひたりたいのです。みんなそんなことが好なんです。

 

ちなみに好きですという人にどんなところが気に入っているのか聞いてみると

「音楽が角張っていなくて、海のうねりのようで、穏やかな音楽の流れ」

「自己主張がないよね」

という返事がある友人から返ってきました。

他に返事があったのですが、この返事ほど興味深いものがなかったのでカットします。

わたしは

「この曲は何か言いたいことがあるのだろうか」

と思いながら聴いています。

まだはっきりしたものがつかめていません。

音楽会では、

「今日はどんな演奏が聞けるのかぁ」

とワクワクしながら始まりを待っています。

 

この曲、わたしの個人的な感想ですが、どの楽団が、誰の指揮で演奏してもそこそこに聴けるものになるので安心です。大きく外れることがないと同時に極め付けのようなものがないのもこの曲の特徴です。高等学校の音楽クラブが演奏した未完成でも楽しめるし、超一流のオーケストラでも楽しめるしと、不思議といえば不思議な代物です。ほかの交響曲では起こりえないことが起こっているのです。

もう一つ個人的な感想です。

わたしはこの曲を聞いている時、いつも人の後ろ姿をみるのです。ほとんど毎回です。ある時は夕陽に向かって黙々と歩いている人、ある時は森の中をゆっくりと散歩している人、ある時は浜辺を歩いている人とその日の雰囲気や気分でいろいろですが、ある時は職人さんの仕事をしている後ろ姿が見えてびっくりしました。いつも決まって人の後ろ姿なんです。やや大きめな背中も共通した特徴です。

 

この後ろ姿は超スローな演奏を聞いている時にも時々現れますから、未完成も超スローの部類の音楽ではないかと思ってここにとりあげたのです。今までは演奏の超スローでしたが、今回は作品としての超スローでした。

超スローテンポでフルートを吹く

2018年1月15日

先日You Tubeで息の長いフルートの演奏に出会いました。フルートは息の流れで音を作りますから、ライアーとは違い超スローの特性がリアルに体験できます。聞いたあと目の前の靄が吹き払われていました。フルートの音がこんなに心をときめかせてくれるなんて珍しいことで、多くの方に是非この演奏を聞いていただきたいので紹介します。

Glick-Melody from Orpheus for flute and organ. wmv

 

邦楽では龍笛、能管、篠笛そして尺八などで呼吸の長い演奏に出会う機会があります、ところが洋楽、西洋音楽ではなかなかというよりほとんど出会えません。そんな中での出会いでしたから喜びは一層でした。

初めて聞いたときにはフルートでもできるんだとただただ感心して聞いていましたが、聞き終わってしばらくしたら深い感動がこみ上げてきました。フルートで超スローなテンポを取るのは技術の問題もさることながら、音楽感性と何よりも勇気の問題でもあることに気付いたのはしばらくしてからのことでした。

モスクワでの演奏会となっていますからロシアの演奏家でしょう。演奏していたのはグルックのオペラからの、よくメロディーと題されて演奏されているものです。

 

西洋音楽の世界でもたまにはスローな演奏には出会えます。しかし超という字がつくときは大抵反対の超絶技巧や超スピーディーです。西洋音楽の世界で超スローが稀なのはちょっと不思議です。超スローはタブーかもしれません。まあそんなこともないのでしょうが、それを良しとする文化的な基盤がない、これだけは言えそうです。

 

私が尊敬してやまないピアニスト、スヴァストラフ・リヒテルはそんな中で例外的にスローの意味と真っ向から取り組んだ人でした。彼にしても初めからそのような演奏スタイルではなく、若き日には超絶技巧を駆使し、世界中を飛び回ってバリバリの音楽会をしていました。70年代に入ってからシューベルトを本格的に弾くようになって彼の中に異変が生じます。私はシューベルトがターニングポイントだと思っています。単なるスローではなく超スローでシューベルトのピアノソナタを弾き始めたのです。当時はレコードの時代で、針を落として音が出てきたとき、回転数を間違えたかと思ったほどのゆっくりさでした。目が点になるというか耳が釘付けになったのを覚えています。

リヒテルの超スロー演奏はただのんびりゆっくりというのとは話がちがいます。音そのものが変わってしまうのです。ピアノの音は明るいオーラに包まれ空間に広がって行きます。しかも今聞こえている音の向こうからもう一つ音が聞こえてくるのです。レコードで聞いても体験できるほどでした。超スローな演奏は演奏時間の問題で片付けられるものではなく、もっと深い、今の演奏常識からは想像もつかない次元の世界への道なのです。

 

リヒテルのことは以前にも書いていますし、また近いうちに書くつもりでいるので、ここではフルートで超スローなデンポを聞かせてくれたMitryaykinaさん(なんと発音していいのかわかりません)に話を戻したいと思います。

ゆっくりだと感じるのは出だしのところくらいで、その後は彼女の演奏に引き込まれてしまいます。伴奏はフルートのテンポがゆっくり過ぎてピアノでは難しいのでしょう、オルガンでした。演奏が終わると大喝采ではなく、一人の男性の声でブラボーが聞こえます。そしてその後暖かな拍手が鳴り響いていました。ロシアでは受け容れられるテンポのようでした。

リヒテルもこの女性もロシア人です。これは偶然ではなく、ロシアの血の中にスローテンポを肯定するものがあるのだと言うことです。ロシアにある東洋の血なのかもしれません。ということは、少し大風呂敷を広げると、ロシアは東洋の超スローの精神を西洋に繋げる役割を担っているということになるわけです。ヨーロッパの人たちにとってロシアは、日本から見るのとは違って、ヨーロッパと東洋の両方を持ち合わせている民族と映ります。そのロシアの血を持った二人の音楽家が、タブーを破って?超スローな演奏に真っ向から取り組んでくれたのです。

もちろん邦楽の超スローとは違います。呼吸の流れも滑らかに流れるヨーロッパスタイルです。ところが、彼女の演奏に初めて接したとき、グルックを尺八で吹いている様な印象を受けたほどでした。

この演奏は、すばらしい、珍しいという次元のものではなく、西洋と東洋の橋渡しを果たした文化的遺産だと思っています。

 

しかしなぜ超スローは東洋に見られるのに西洋にないのでしょう。この問題にいつかゆっくり取り組んでみるつもりです。今はただ、そこに精神的背景、意識の問題が潜んでいることを指摘するに留めておきます。

 

超スローでライアーを弾いているとき、今という垂直な時間軸は静かに、周囲にほとんど気付かれないように移動しています。止まっているように聞こえると言う人もいるかもしれません。しかし時間も音も移行しています。一つの音から次の音へと動きます。時間軸の移行です。音楽の静けさはここから生まれるのです。

リヒテルのピアノに聞いたオーラに包まれた音、もう一つの音は、音と音との間から聞こえてきていたのです。普段はどこかに隠れている音で超スローの演奏の時にしか聞こえない別次元の音なのです。

ライアーのテンポについて

2018年1月13日

ライアー弾き始め

そんな感じでみなさまにごあいさつ申し上げます。

 

その前に少し長いですが前置きを読んでください。

 

先日ある作家さんとお話をしていて、私がドイツ語ができることをとても羨ましがられてしまいました。その方の言葉は

「仲さんはドイツ語でゲーテやヘッセやリルケが読めるんですよね」

と言うもので、私は戸惑いながら

「はい」

と、とりあえず答え、その後

「でも本を読めるとは言っても、スラスラ日本語で読む様に読める訳ではありませんよ」

とお答えしましたが、

「私もドイツ語で読んで見たいです」

としつこく繰り返されるので

「読むというのは速度が命の時もあります」

と言って終わりにしました。

 

速度と言うのは大事で、一定の速度で読まないとインスピレーションが降りて来ないものです。

英文学者で小説家でもある伊藤整がある時、

「わたしは英語を生業にしていますが、外国のもの(小説のことだとおもいます)は、英語のものもいつも日本語で読んでいます」

と言っています。私の勝手な想像ですが、インスピレーションが理解を助けていると言いたいのでしょう。

コースで食事をしている時に出てくる料理の間が開きすぎたら料理する楽しみが半減するようなものです。

 

しかし一方でゆっくり読む事が素晴らしい体験を生むことも私は知っています。

四年ほど前から、先日ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロさんの「日の名残り」を英語の勉強の教材として読んでいます。一週間に一時間の授業で、一回の授業で読む量はせいぜい10行多い時で15行くらいのペースで、四年をかけて34ページを読んだところです。

この本は、イシグロさんの本の中でも特に英語の表現を駆使しているもので、私が学びたかった英語にはうってつけの教材です。ただ用をたす為の英語ではなく、状況の描写、その時の人々の微妙な心の動きが的確に、表情豊かに表現されています。

この本で英語を学ぶと決めた時、先立って日本語で読みました。その時は1日で読んでしまったのです。確かにインスピレーションで読んだようです。しかしそれだけのスピード読むと本全体が一つのまとまったビジョンを持つ一方で、文章を味わうことは減り、その分ストーリーを掴むことばかりになってしまいがちです。昔からの速読は得意でしたが、いつも本に申し訳ないと感じている自分も感じながら読んでいたものでした。

原文を、一字一句を超スローテンポで読む日が始まった当時、文章の難しさに眩暈がしたものです。単語で悩むのではなく、文章の流れが掴みきれないのです。外国語は習うより慣れろですから繰り返し同じ文章を読み、ある時は書き写しながら学んでゆきました。それでも何度読んでもわからない文章は絶えることなくありました。そんな日々が重なって、だんだん手応えができた頃、日本語で読んだ時の感触とは別にこの本の味わい深いところが文章の間から見えてきました。

戦前、イギリスの伝統に育まれたダーリング卿に仕えた執事と、戦後、世代が代わって新たに主人となったアメリカの資産家との間のやりとりなどは、微に入り細に入り、ある時はしつこいくらいに書かれていて、二人の心のうちが手に取るように見えてくるのです。何度もイシグロさんの英語力に脱帽しました。特に息を止めて読んでしまうのは、自分を一切出さない執事と言う職業を、プロ意識で貫く執事のスティーブンスの隠れた心の内を文章にするところです。非常にゆっくりと回りくどく執事の心の内に入っていくのですが、そこで生まれる緊張感はイギリスの昔の貴族階級の生活を彷彿とさせ圧巻です。英語と言う言葉の複雑に絡み合う文章表現の特殊な力を発見したと同時に、英語という言葉が文学に向くものだという発見もしました。執事のような特殊な状況は英語が得意としているのだと思っています。好奇心でドイツ語訳で読んで見ましたが、執事という職業のないドイツの文化の中で執事の内面は表現しきれないもののようで、実にトンチンカンなものになっていて、緊張感どころか、退屈でつまらないものだったので、数ページで投げ出してしまいました。ドイツの友人に勧めた時も、反応は鈍く、何処が面白いのだと言うものでした。ドイツ国内でのこの本への評価は本を通してではなく、映画を通してでした。

 

この本を超スローテンポで読んだことは大きな収穫でした。超スローテンポで読んだからこそわかった魅力があります。行間です。この本はゆっく読むに限ります。ゆっくり読むと行間から英語の言霊とイシグロ氏の中に生きている言霊が交互に感じられ一層味わい深いものになります。もしもっと英語ができるようになりたいという焦りから、読む量に惑わされ速く読んでしまっていたら、この本の行間に散りばめられた、感情の言葉にならないところに気づくことはなかったに違いありません。

 

 

実はここまでは前置きで、ここからが本題です。

私はライアーを非常にゆっくり弾きます。これ以上ゆっくり弾いては聞いてくれる人がいなくなってしまうのではないかと思えるほどのスローテンポです。これには理由があるのです。ライアーと言う楽器がそもそも持っているテンポというものがあると感じているからです。

ライアーには独自の「絶対テンポ」と呼ぶべきものがあると、ある夜一人で弾いている時に感じたのです。せっかくの余韻を次に来る音で消している演奏に出会うことは多いです。ライアーは他の楽器と不器用な楽器です。その点で比べたら比べ物にならないほどゆっくり弾いて欲しい楽器です。ライアーを通常の楽器で弾くようなテンポを想定して弾いたら、端折ってしまい、音が熟すことなく、極端な言い方かもしれませんが、おもちゃのような音を出す楽器になってしまいます。そう弾かれては、最近の若いお嬢さんたちが鼻にひっかけた薄っぺらな声でしゃべるようなもので、伝わるべきものも伝わらないのです。速く弾いてしまってはライアーという楽器を弾く必然性がないと断言したいほどです。ライアーを綺麗な音のする楽器として弾かれている方が多いですが、ライアーはもっと肝っ玉の据わった、太っ腹の楽器です。その持ち味を音にするにはゆっくりとたっぷりと力強く弾くほか無いと感じ、私はライアーに向かっています。

 

ここ二年ほど体調の都合でライアーから遠ざかっていましたが、また弾きたくなっています。

日の名残りの原文を超スローテンポで読みながら学んだ、物事にはそれにふさわしいテンポがあると言う教訓を生かして、更にスローテンポに磨きをかけ、太っ腹に弾き始めたいと思っています。