ライアーのテンポについて

2018年1月13日

ライアー弾き始め

そんな感じでみなさまにごあいさつ申し上げます。

 

その前に少し長いですが前置きを読んでください。

 

先日ある作家さんとお話をしていて、私がドイツ語ができることをとても羨ましがられてしまいました。その方の言葉は

「仲さんはドイツ語でゲーテやヘッセやリルケが読めるんですよね」

と言うもので、私は戸惑いながら

「はい」

と、とりあえず答え、その後

「でも本を読めるとは言っても、スラスラ日本語で読む様に読める訳ではありませんよ」

とお答えしましたが、

「私もドイツ語で読んで見たいです」

としつこく繰り返されるので

「読むというのは速度が命の時もあります」

と言って終わりにしました。

 

速度と言うのは大事で、一定の速度で読まないとインスピレーションが降りて来ないものです。

英文学者で小説家でもある伊藤整がある時、

「わたしは英語を生業にしていますが、外国のもの(小説のことだとおもいます)は、英語のものもいつも日本語で読んでいます」

と言っています。私の勝手な想像ですが、インスピレーションが理解を助けていると言いたいのでしょう。

コースで食事をしている時に出てくる料理の間が開きすぎたら料理する楽しみが半減するようなものです。

 

しかし一方でゆっくり読む事が素晴らしい体験を生むことも私は知っています。

四年ほど前から、先日ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロさんの「日の名残り」を英語の勉強の教材として読んでいます。一週間に一時間の授業で、一回の授業で読む量はせいぜい10行多い時で15行くらいのペースで、四年をかけて34ページを読んだところです。

この本は、イシグロさんの本の中でも特に英語の表現を駆使しているもので、私が学びたかった英語にはうってつけの教材です。ただ用をたす為の英語ではなく、状況の描写、その時の人々の微妙な心の動きが的確に、表情豊かに表現されています。

この本で英語を学ぶと決めた時、先立って日本語で読みました。その時は1日で読んでしまったのです。確かにインスピレーションで読んだようです。しかしそれだけのスピード読むと本全体が一つのまとまったビジョンを持つ一方で、文章を味わうことは減り、その分ストーリーを掴むことばかりになってしまいがちです。昔からの速読は得意でしたが、いつも本に申し訳ないと感じている自分も感じながら読んでいたものでした。

原文を、一字一句を超スローテンポで読む日が始まった当時、文章の難しさに眩暈がしたものです。単語で悩むのではなく、文章の流れが掴みきれないのです。外国語は習うより慣れろですから繰り返し同じ文章を読み、ある時は書き写しながら学んでゆきました。それでも何度読んでもわからない文章は絶えることなくありました。そんな日々が重なって、だんだん手応えができた頃、日本語で読んだ時の感触とは別にこの本の味わい深いところが文章の間から見えてきました。

戦前、イギリスの伝統に育まれたダーリング卿に仕えた執事と、戦後、世代が代わって新たに主人となったアメリカの資産家との間のやりとりなどは、微に入り細に入り、ある時はしつこいくらいに書かれていて、二人の心のうちが手に取るように見えてくるのです。何度もイシグロさんの英語力に脱帽しました。特に息を止めて読んでしまうのは、自分を一切出さない執事と言う職業を、プロ意識で貫く執事のスティーブンスの隠れた心の内を文章にするところです。非常にゆっくりと回りくどく執事の心の内に入っていくのですが、そこで生まれる緊張感はイギリスの昔の貴族階級の生活を彷彿とさせ圧巻です。英語と言う言葉の複雑に絡み合う文章表現の特殊な力を発見したと同時に、英語という言葉が文学に向くものだという発見もしました。執事のような特殊な状況は英語が得意としているのだと思っています。好奇心でドイツ語訳で読んで見ましたが、執事という職業のないドイツの文化の中で執事の内面は表現しきれないもののようで、実にトンチンカンなものになっていて、緊張感どころか、退屈でつまらないものだったので、数ページで投げ出してしまいました。ドイツの友人に勧めた時も、反応は鈍く、何処が面白いのだと言うものでした。ドイツ国内でのこの本への評価は本を通してではなく、映画を通してでした。

 

この本を超スローテンポで読んだことは大きな収穫でした。超スローテンポで読んだからこそわかった魅力があります。行間です。この本はゆっく読むに限ります。ゆっくり読むと行間から英語の言霊とイシグロ氏の中に生きている言霊が交互に感じられ一層味わい深いものになります。もしもっと英語ができるようになりたいという焦りから、読む量に惑わされ速く読んでしまっていたら、この本の行間に散りばめられた、感情の言葉にならないところに気づくことはなかったに違いありません。

 

 

実はここまでは前置きで、ここからが本題です。

私はライアーを非常にゆっくり弾きます。これ以上ゆっくり弾いては聞いてくれる人がいなくなってしまうのではないかと思えるほどのスローテンポです。これには理由があるのです。ライアーと言う楽器がそもそも持っているテンポというものがあると感じているからです。

ライアーには独自の「絶対テンポ」と呼ぶべきものがあると、ある夜一人で弾いている時に感じたのです。せっかくの余韻を次に来る音で消している演奏に出会うことは多いです。ライアーは他の楽器と不器用な楽器です。その点で比べたら比べ物にならないほどゆっくり弾いて欲しい楽器です。ライアーを通常の楽器で弾くようなテンポを想定して弾いたら、端折ってしまい、音が熟すことなく、極端な言い方かもしれませんが、おもちゃのような音を出す楽器になってしまいます。そう弾かれては、最近の若いお嬢さんたちが鼻にひっかけた薄っぺらな声でしゃべるようなもので、伝わるべきものも伝わらないのです。速く弾いてしまってはライアーという楽器を弾く必然性がないと断言したいほどです。ライアーを綺麗な音のする楽器として弾かれている方が多いですが、ライアーはもっと肝っ玉の据わった、太っ腹の楽器です。その持ち味を音にするにはゆっくりとたっぷりと力強く弾くほか無いと感じ、私はライアーに向かっています。

 

ここ二年ほど体調の都合でライアーから遠ざかっていましたが、また弾きたくなっています。

日の名残りの原文を超スローテンポで読みながら学んだ、物事にはそれにふさわしいテンポがあると言う教訓を生かして、更にスローテンポに磨きをかけ、太っ腹に弾き始めたいと思っています。

コメントをどうぞ