子安美知子さんを偲んで

2017年7月29日

七月二日に子安美知子さんが肺炎で亡くなられました。はちじゅうさんさいでした。
心からご冥福をお祈りいたします。

子安さんを世に知らしめたのはお嬢さんの文さんが通われたドイツのミュンヘンにあるシュタイナー学校の様子を報告した「ミュンヘンの小学生」でした。この本はベストセラーになり、瞬く間にシュタイナー教育なるものを日本中に広める一役を担うことになったものです。
シュタイナーのことは建築家の間や、神秘主義に興味を持つ人たちのあいだでは、知る人ぞ知るという程度ですが、語られていた人物ではあったのですが、この本によってシュタイナーは一躍有名人の中に名を連ね、一般の人の間ですら教育者として話題になるところまで広がっていったのでした。

子安さんのこの本によってシュタイナー教育は瞬く間に日本中の教育に関心のある人の間で語られるようになったわけですが、一方で教育が問題化していた当時、とくに学内暴力、不登校という現象が明るみになっていた当時の教育の世界に、シュタイナー教育が子供達にとって理想郷のような印象を植え付けてしまったことも確かで、その両面をここで付け加えておきたいと思います。それは子安さんだけに責任があるのではなく、日本人の中に潜在する、理性的であるより情緒的な解釈を好む傾向、そして熱しやすい(同時に冷めやすい)民族的な癖がそうさせたのでした。
子安さんは、個人的な四十年のお付き合いから言わせていただくと、とても篤い方だと感じています。知性と情熱がおたがいに引き合い、しかもそれらが渦をなし行動に移すことができる稀有な方と言ったら分かっていただけるでしょうか。おっちょこちょいで、時には勇み足を踏んだりするのですが、自分の非を認める素直さも持ち備えていらっしゃいました。
筆がたち、口も達者、しかも学問的知性に満ちているので、書かれること語られることはとても瑞々しく華やかで読み手聞き手をしっかりと掴んで虜にしてしまいます。魅力というよりははるかに吸引力のある「何か」が子安さんの書かれるものの中にオーラとしてあって、「ミュンヘンの小学生」の場合も、読むものはミュンヘンの学校やシュタイナー教育そのものにひきつけられるというよりは子安さんのオーラに包まれて引き込まれていったと言いたくなるのですが、私の思い込みでしょうか。
子安さんの書かれたものは知的な裏付けがあるとはいえ、読者には情緒的に訴える方が遥かに大で、そのため彼女の文章に触発された読者は、知識として、例えばシュタイナー教育のことなど自分の中にだけ留めておくというよりは、友人とそのことを分かち合いたくなり、その衝動がいつしか人の輪を作る力になったといっていいのではないか、そう考えるのです。数え切れないほどの人の話が生まれたはずです。その結果、ついにはシュタイナー学校を作る動きが「ミュンヘンの小学生」から生まれたということだと思います。
子安さんの最後の仕事となったのは、シュタイナー学校が誕生した時、そこに何らかの形で関わった人たちの思いをまとめることでした。「ミュンヘンの小学生」が起爆剤となって、シュタイナー教育は嫌が上にも広まってしまい、そこから学校作りにまで発展したわけですから、好奇心というよりは責任感から彼女の手で当時の有様をまとめたかったのでしょう。「日本でシュタイナー学校が始まった日」というタイトルでまとめられた本は、生前に本としての形を整えられました。子安さんは満足していらっしゃったのではないかと思います。そこに寄せられた52人からの文章を編集しながら、「ミュンヘンの小学生」から始まった子安美知子という稀有な人生を噛み締めておられたのではないかと想像します。
そして、「これで良かったんだ」と心の中で呟かれていたのではないのでしょうか。

子安美知子さん。あなたから頂いたプレゼントがたくさんあります。その一つ一つは私の人生の宝物となっています。感謝しています。その中にミヒャエル・エンデさんとの出会いがあります。ある日あなたから電話があって、「ミヒャエル・エンデさんに会ってお話をして欲しいの。エンデさんが胃がん手術をした後、仲さんが病気の時に治療に使った、や ど り き 療 法 をするので、実際に使って健康になった人の話が聞きたいというの」ということでした。子安さんからの依頼はいつも突然だったように記憶していくす。早速次の日に、フィルダー病院にエンデさんをお見舞いしましたが、薬の話はどうでもよくなっていて、五分くらい私の話を聞かれた後、二時間ほどほとんど一方的に文学のことを、特にシェークスピアのことをお話してくださいました。退院された後も奥様の真理子さんとあなたとを交えて、シュトゥットガルトとミュンヘンで、四人で会いましたよね。その時、あなたは必ず「ここはドイツだから私のことは子安さんではなく、美知子と呼んでください」と釘をさすように言われたのを懐かしく思い出します。
子安さん。いや美知子と呼ばせてください、今はあなたの何にでも一生懸命に、全力で向かう爽快な姿をあっぱれと感じています。合掌。

2107年秋の講演会の予定

2017年7月3日

秋の講演会を企画される皆様へ

いかがお過ごしでしょうか。
七月に入り夏の日差しが増して来ました。
ドイツの方は一週間おきに猛暑と寒気とが交代しています。

そろそろ秋の日程調節を始めなければならない時期になりました。
予定を組みたいと思いますので、皆様の希望される日をお知らせいただけたら幸いです。

今年は十一月一日を皮切りに、まる一ヶ月を予定しています。
これから皆様から希望の日が寄せられると思いますので、順次皆様とコンタクトを取りながら決めて行きたいと思っております。
今年も、何卒よろしくお願いいたします。

仲正雄

シューベルトの未完成交響曲

2017年5月26日

ジューベルトといえば未完成交響曲を思い出す人が多いでしょう。未完成交響曲は長いのでこれからは「未完成」と言います
いままでは最後から2番目の交響曲となっていましたが、最近の研究によると、いままでの定説が覆され、未完成がシューベルトの最後の交響曲と言うことになったようです。

この曲が未完成の交響曲とみなされているのは、通常四楽章からなる交響曲が二楽章までしか作られていないからです(三楽章の出だしの部分が残っているのでシューベルト自身も二楽章で完成とは見ていなかったようです)。

いままでなんども聴いているのでほとんどの部分を知っている曲ですが、聞くたびに初めて聞く音楽のようにワクワクするのです。
不思議な音楽だと常々思うのです。
珍しいという以上に、どこを見渡しても見つからない音楽史上唯一の音楽ではないだろうかといいたいほどです。
何がそんなに不思議なのか、その辺を書いて見たいと思います。

シューベルトは自分の考えとか心情、エモーションといったものを音楽でを吐露する音楽家ではありませんでした。ここがシューベルトといわゆるロマン派というジャンルの作曲家たちと一線を引くところです。シューベルトという作曲家は音楽史の指定すると後にも属さない人といっていいと思います。あえて言えば、モーツァルト、ベートーヴェンを飛び越えてハイドンの唯一の後継者ということです。

私の勝手な想像ですが、シューベルトは例外的に未完成と呼ばれている交響曲で自分の心の中を音楽にしようとしたのかもしれないのです。もちろんこんなことは初めてで最後です。自叙伝的なものではなく、あるがままの自分の姿、あり方を音に移し替えようとしたのかもしれない、そんな風に感じるのです。未完成に終わったのは、彼、こうしたやり方が得意でなかったからなのでしょう。
完成に至らなかったにしても、私には、未完成という作品はシューベルトの心が、心の奥深いところまでが音になったものなのです。聞くたびに、彼の心の奥深くまで光が当てられ、その姿が淡く浮かび上がって来るようなイメージが目の前に広がります。一万メートル以上の深海の底に淡い光が当たった様子を想像して見てください。この曲はシューベルトの心の隅々まで光が当たったもののように思えてならないのです。サーチライトで深海を取らしているのではなく、海全体を光が照らし出している、そんな感じです。深海も含めて海全体が光に溢れるのです。

未完成という音楽は、言い換えれば海を音にしたものなのかもしれません。