シューベルトの未完成交響曲

2017年5月26日

ジューベルトといえば未完成交響曲を思い出す人が多いでしょう。未完成交響曲は長いのでこれからは「未完成」と言います
いままでは最後から2番目の交響曲となっていましたが、最近の研究によると、いままでの定説が覆され、未完成がシューベルトの最後の交響曲と言うことになったようです。

この曲が未完成の交響曲とみなされているのは、通常四楽章からなる交響曲が二楽章までしか作られていないからです(三楽章の出だしの部分が残っているのでシューベルト自身も二楽章で完成とは見ていなかったようです)。

いままでなんども聴いているのでほとんどの部分を知っている曲ですが、聞くたびに初めて聞く音楽のようにワクワクするのです。
不思議な音楽だと常々思うのです。
珍しいという以上に、どこを見渡しても見つからない音楽史上唯一の音楽ではないだろうかといいたいほどです。
何がそんなに不思議なのか、その辺を書いて見たいと思います。

シューベルトは自分の考えとか心情、エモーションといったものを音楽でを吐露する音楽家ではありませんでした。ここがシューベルトといわゆるロマン派というジャンルの作曲家たちと一線を引くところです。シューベルトという作曲家は音楽史の指定すると後にも属さない人といっていいと思います。あえて言えば、モーツァルト、ベートーヴェンを飛び越えてハイドンの唯一の後継者ということです。

私の勝手な想像ですが、シューベルトは例外的に未完成と呼ばれている交響曲で自分の心の中を音楽にしようとしたのかもしれないのです。もちろんこんなことは初めてで最後です。自叙伝的なものではなく、あるがままの自分の姿、あり方を音に移し替えようとしたのかもしれない、そんな風に感じるのです。未完成に終わったのは、彼、こうしたやり方が得意でなかったからなのでしょう。
完成に至らなかったにしても、私には、未完成という作品はシューベルトの心が、心の奥深いところまでが音になったものなのです。聞くたびに、彼の心の奥深くまで光が当てられ、その姿が淡く浮かび上がって来るようなイメージが目の前に広がります。一万メートル以上の深海の底に淡い光が当たった様子を想像して見てください。この曲はシューベルトの心の隅々まで光が当たったもののように思えてならないのです。サーチライトで深海を取らしているのではなく、海全体を光が照らし出している、そんな感じです。深海も含めて海全体が光に溢れるのです。

未完成という音楽は、言い換えれば海を音にしたものなのかもしれません。

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