お陰様で、という時

2025年11月26日

ご両親様はお元気ですか、と聞かれた時に「お陰様で」と答えたりします。聞いた方に特別にお世話になったわけでもないのに、お陰様でという言い方が、日本人同士の会話では自然に出て来ます。なんのお陰なのでしょうか、誰に聞いても簡単に答えが返ってくるとは思えません。

実はこのお陰様的な捉え方は日本語だけてのものではないと言ったら、多くの方が驚かれるのではないかと思います。ドイツこでは二百年くらい前までは、名残としてまだ残ってました。もちろん時代を遡ればもっと濃厚に、「お陰様で」の頻度は広がってゆきます。もちろんドイツ語以外の言葉にもあったものです。唯物的な考え方に染まる前までは人間はお陰様が当たり前だったのだと言えるのです。

どうしてそういうことが言えるのか不思議がる方もいらっしゃると思います。私は言葉を探ってみてそのことを感心しています。言葉を探りながら人間の行動を探ってみるのですが、お陰様の形跡がはっきりと見えてくるのです。

人間というのは何かをきっかけにそもそも行動を起こすものです。内的な衝動が一方にあり、もう一つは外に見る目的です。

それを言葉の上に被せてみるのです。人間の行動というのは、文法的には動詞として捉えることができます。例えば、何かを運ぶ、何かを作る、誰かにあげる、誰かを助けるというふうに行動にはない的しようどうと向かうところが表されているのです。その動詞には直接目的語と間接目的語があってなどと聞くと、学校の英語の文法の時間を思い出してしまうかも知れませんが、今日は少し違う話をしたいと思いますのでよろしくお付き合いください。

私が「お母さんに誕生日プレゼントをあげる」という時、お母さんは間接目的語で、クリスマスプレゼントが直接目的語となります。なぜものの方が直接で人の方が間接なのかと疑問に思うわけです。人よりものの方が大事だからなんてブラックな答えが出てきそうですが、それはさて置き、ここまでは普通の文法書に書かれている説明です。

ドイツ語では二百年くらい前まで、もう一つ行動の目的を説明する仕組みがありました。ドイツ語を勉強された方は二格という言い方で聞いたことがあるかも知れません。ある独特な行動原理、行動の仕組みを二格で目的格をとると言っていたのです。ちなみにドイツ語では間接目的語を三格、対格という言い方もします。直接目的語を四格と言います。全部で三つの目的格を持っているのです。

さてこの二格ですが、今ではすっかり姿を消してしまいました。最近まで名残のあったものなのですが、現代ドイツ語の中ではただ一つの例外が残っているだけです。亡くなった人のことを偲ぶときにだけ、この二格が登場します。なぜ二格なのかというと「亡くなった方を偲ぶ」という動作に起因しています。亡くなっている人を目の前に存在するものとして、普通の目的語扱いにはできないからです。亡くなっているのでこの世的には、つまり物質的には見えない存在なので、直接目的語としては扱えないのは理が通っています。物質としてでは存在していなくても心の中には確実に存在しているので偲ぶ対象にはなるのです。では目の前ではないとしたら、一体どこに偲ぶ目的を定めたらいいのでしょうか。

ここでシュタイナーのオイリュトミーを参考にしたいと思います。オイリュトミー的に目的格を動作で詳しく示しているのです。直接目的語は前に向かって示されます。間接目的語は斜め向かいに示されます。例えば、クリスマスプレゼントをお母さんにという時は、クリスマスプレゼントを前に示し、お母さんにという間接目的語は右斜め前に「どうぞ」という仕草のように示します。では亡くなっている人はどこで示されるのかというと後ろの頭上です。両手を頭の上で交錯させるのですが、その時交差点を頭上の後ろの方に持ってゆき、体も後ろに反らせます。二格が目的とする対象は頭上の後ろの方にあるのです。私は個人的に霊の世界に繋がる仕草だと思っています。というより、偲ぶ対象は頭上の後ろの方から私たちに向かってやってくるものなのです。二格のことはドイツ語でGenetiv(ゲネティブ)と言います。同じ語源を持つ言葉として、天才があります。天才のことをいうGenie(ジェニー)、旧約聖書で人類の生い立ちを説明している創世記のGenesis(ゲネシス)トイイ、語源を同じくする言葉で、天から与えられたもの、天からの贈り物ということです。天才的な発想というのは人間が頭を絞って考え出したものではなく、直感的に天から降ってきたものなのです。

さて古いドイツ語ではどいう行動が二格の目的をとったのか見てみましょう。考えるという言葉は二格で表される時には「思い出している」というふうになりますか、今日風に「君のことを考えている」というのではなく「君のことを思い出している」という意味合いに変化してしまいます。心の中のことなのです。あるいは「今日の式典を速やかに始められた」というのも「お陰様で無事式典が挙行されるに至りました」という具合になります。「食べる」のも「飲む」のも昔は二格でしたから、直接目的語で「何かを食べる」ではなく「食べ物をいただく」となり「何かを飲む」も「飲み物をいただく」という具合になり、目の前のものをパクパク食べるのではなく、まさに天から降ってくるものをいただくとなります。まさに日本的な「いただきます」というものであり、旧約聖書のマナの食べ物「天から食事が降ってくる」というのに近いものです。また死ぬというのも現代的には「何かが原因で死ぬ」となりますが、「かつて人間は二格で死んでいた」のですから「天の定めに従って命を全うする」という感じで捉えられていたのです。他にも喜ぶ、満足するなどはみんな「お陰様で」だったのです。自分だけの力で成し遂げたのではないという姿勢がはっきり伺えるのです。

現代人は傲慢なのです。なんでも自分の力でやったと思いたいのです。でも本当は、今でも、お陰様でということは忘れ去られているのかも知れませんが、脈々と通奏低音のように生き続け、響き続けているのだと思います。「お陰様で」は聞こえる人には聞こえているのです。

嘘の正しさ

2025年11月24日

嘘でしか言えない本当かある、というのは長い間の私の口癖でした。私の言うことなどまずは自分で疑ってから聞いてください、ということの遠回しの言い方でした。しかし少々意地の悪いい言い方だったかもしれません。

講演会のようなところでは、聞いた話をいつも、いい話を聞いたと正しいものとして受け取られます。私にはそれは危ないものとして写っていたのです。多くの講師の方達り中には正しいと信じきってお話しされていらっしゃる方もいましたから、なおさら「これではいけない」と、嘘でしか言えない本当があると少しおちょくってみたのです。

社会でうまくやって行くには、その時代が「正しい」と思い込まされていることをアピールしたり、その内容を行動したりすることが一番なのです。そうしていれば周囲からはよく見られ、立派な実践者として敬われること間違いないでしょう。賛同者も増えて、その人たちとその正しいことをアピールし続ければいいのです。事実そうして生きている人は多いものです。一番多く見受けられるのが、政治的な活動をしている政治家で、その人たちの発言は、今の時代の中で正しいとされていることをうまく自分の意見としてまとめることの様です。そういうことに長けている人が政治家を目指しているとも言えます。正しいことをしていれば周囲から批判の対象になることはなく、しかも内容が立派なので良い人、立派な人として敬われることになるのです。怖いのはこれを巧みに活用することです。

これは立派な詐欺行為です。しかし政治の渦の中に巻き込まれてしまうと、それが悪いことだと感じる神経がなくなってしまう様です。それが詐欺的行為だと言う感覚が擦り切れてしまうのか、元々持っていないのかは人によって様々なのでしょうが、政治の世界ではこの戦略が必要の様です。

正しいことというのは不思議に時代と共に変わります。元を正せば、正しいというのは思い込みでしかないのかも知れません。ここをはっきりとわきまえていれば、世の中に出回っている正しいことに惑わされずにすみます。さらに正しいというのがいかに作術できで馬鹿げていることなのかもわかってきます。

もう一つ。正しいということを言いすぎている人たちは、裏にまやかしいものを隠していることが多いということです。正しいはカモフラージュするにはもってこいなのです。そのため世の中は正しいことで満ち溢れているのかも知れません。まずは正しいというものに振り回されることをいち早く卒業することです。

嘘でしか言えない本当、というのは、親鸞聖人の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を心しての言葉なのですが、自分を善人だと思い込んでいる人間が立派に往生するのなら、自分を悪人と見做して良心の呵責を感じ反省している人間が往生できないわけがない、ということです。

正しいことを言っていると思い込んでいる人たちをいち早く見抜いてください、そこから世の中が良くなる道が見出せると思います。

正しいことなど言わなくていいのではないか、そう思います。

ライアーの音と日本語

2025年11月22日

 

ライアーの音を聞くと何かを思い出すといってくれた人がいます。とても嬉しい感想です。思い出すのですから過去に遡るのですが、遠くの思い出なのにはっきりと何かが見えてくるのだそうです。そこでライアーの音がしていたと言うのではなく、ライアーの音に誘発されていい記憶が蘇ったと言うことの様でした。

実際にライアーを弾いている者としても、ライアの音が記憶を刺激している様な感触があって、その時に浮かんだ思い出の様なものを音の中に込めて弾いていることがありました。

ライアーの音には人間の記憶を刺激する何かがあるということなのかもしれません。

ライアー演奏で得意としているのは、ゆったりと響く、ゆっくりな音です。そこには余韻が心地よく響いていて、会場にものびのびするような流れが広がっています。そんな時にライアーの音がゆっくりと周囲に響き渡るのですが、その流れが時間の流れと一つになるのかもしれません。

ライアーが空間の中に広がってゆく響きの様子はピアノの音が会場を満たし響くのとは全く違います。ピアノは直線的で立体的なイメージです。ライアーはどうかと言うと、水に石を投げた時に水輪が広がる様な感じでじわじわと広がってゆきます。聞いている人たちもどこから音が来るのかがわからないことがあります。

 

ライアーの音の強みは、一音だけで何かが言い切れていることです。ややっこしい言い方なので簡単にいうと、一音だけで充分だということです。一音が限りなく美しいと言うことです。もちろんメロディーも綺麗に弾けますし、和音も練習して指が均等に使えればたっぷり響きますが、インパクトがあり、印象的なのは一音の美しさです。特に指の腹でしなやかに弾かれて生まれた音で、弾かれた音が長い余韻と共に消えてゆくのは絶妙です。

俳句を詠んでいる時に一つの音を変えるだけで句全体の世界がガラリと変わってしまうような体験があります。芭蕉の、「古池や」を例えば「古池に」としてしまうと、景色が変わります。「や」と「に」だけのことなのに、ガラリと変わってしまうのです。昔からライアーは俳句の様なものだろうと思ってはいましたが、それはライアーが演奏できる音楽の規模からの感想でしたが、最近感じているライアーと日本語の親近性というのは、形ではなく日本語の言語霊、日本語の言霊とでもいったものに変わっています。一音が美しいライアーと、一音で世界を変えてしまえる日本語との近似性です。

 

話が少し変わりますが西洋音楽は西洋語との関連で生まれた音楽だと言うことを確認しておきたいと思います。ミュージック、musicはギリシャ語の「ムシケ」、言葉と音楽が未分化の状態、という言葉からきています。クラシック音楽の歴史を辿るとそのことがよく見えてきます。クラシック音楽の中核をなしているのは西洋文化なのですが、特に西洋の言葉だったのです。

日本語と西洋語を簡単に比べてみようと思います。比較するときによく母音と子音の比重から見たりするのですが、その時は西洋語は子音が強く日本語は母音が強いと言われます。表音文字である平仮名で見ると確かにそのように見えます。漢字で書くときにも母音が母、子音が子というふうになっています。そのため日本語は母音的と言われるのですが、当の日本人からするとそんなことはなくて、むしろ日本人は子音と母音のバランスに特徴があると考えているのかもしれません。母音と子音が一つに溶け合っているのです。実際にドイツの人で日本語ができる友人に、日本語を母音の言葉と思うかと聞いてみる、母音が優っているという印象は持っていない、ということでした。ただその方も、西洋語は子音が強いとは感じている様でした。

日本語の響きは丸い感じです。最近ではその様なものをエネルギーといっていますが、それは西洋語の角張った直線的なのに比べると随分と違うものです。言葉の機能面というのか、使われ方からいうと西洋語は社会生活を送るのにはとても便利にできていて、社会生活を営むのに向いているということです。法律を作ったり、機械の説明をしたり、社会構造、心理構造などを説明するのにはとてもよくできている言葉です。外国でデスカッションをしてみるとよくわかります。日本語しか使っていない人にはわかりにくいことなのだと思うのですが、ドイツ語と日本語の二つを使って生きている私には二つの言葉の向かっている方向性、ベクトルが全く逆だということは自明のことなのです。日本語は社会生活を潤滑にするにはあまり向いていない言葉です。よく言われるように情緒的な傾向が極めて強い言葉ですから、詩情豊かな言葉と言えると思います。客観性より主観性に傾いているのかもしれません。

 

ライアーは楽器としてみると西洋音楽のための楽器系列からははみ出した楽器です。ライアーという名称は古代ギリシャからのもので、その後の弦楽器一般をライアーというのは歴史的にも見られるのですが(ビーバーというバッハの少し前に活躍したボヘミアの作曲がが領主に捧げたヴァイオリンの楽譜に、四弦のライアーのためのに、と書いています)、楽器としてはギター属の楽器、ヴァイオリン属の楽器に移行してしまいましたから、今日ではその跡形も残っていないのです。それが二十世紀になって全く違う考えから作られた楽器にライアーという名前がつけられました。その楽器は今日セラピーのための楽器として少しは認知されているものの、伝統的な音楽をする楽器としては認めてもらえていないのが現状です。西洋音楽が求めているものとらいの本質にどこか違うものがあるからだと思います。向かっている方向が違うとも言えます。何が違うのかという点ですが、響きの質と、テクニックの問題と、演奏のスピードです。

西洋音楽というのは西洋の言葉から生まれたものです。したがって西洋語の特性を調べてみれば西洋音楽の持つ特性が見えてくると言うことになります。ドイツ語を含め西洋語の特徴は何かというと、空間的な言語、空間の中で響く言語だということです。空間的な広がりを持つ言葉です。生活空間、社会空間というものです。響きそのものも子音的で立体的で、空間に向かって広がります。言わんとしているものが、目指しているところのものが、空間の中に広がろうというものです。西洋語にはそのための力があります。これはそのまま音楽世界にもつながっていて、西洋で生まれたピアノという楽器は特に音の空間での広がりを意識した楽器だと思っています。ヴァイオリン属の楽器でもピアノほどではないにしても空間を意識した響きが感じられるのですが、ピアノほどではありません。こんな中でライアーは居心地が悪いのは当然です。音量が少ないということもありますが、音の性質上空間的に広がることを願っていないところがあるからです。ライアーはそのように響かせたくないのです。もちろん聞き手が外にいるので最低限空間を意識はしていますが、空間の中で無理やりに広がろうということではないのです。外に広がりながら実は内向する様なところがあるのです。聞き手を引き込むことがも目的のようです。聞き手が聞き耳をそば立てるのです。他の西洋の楽器のように早く弾くことはできません。その様に弾いて周りを圧倒することもできませんし、超絶技巧のようなアクロバットもできない、近代以前の楽器そのままといっていいものを残しているです。このもたもたした不器用なところが、今の空間的楽器が置き去りにしてしまったものなのですが、それが時代的な必然によるのか、あるいは時代的な流行なのかはわかりません。

もしかするとこの混沌とした社会の中で、近代社会、現代社会が置き去りにしたものが今必要とされていると考えることもできます。そうするとライアーという楽器は過去の遺物の様な体裁を持ちながら実は未来的には大きな役割を担っているのかもしれないと思えてくるのです。ライアーを弾いている時に感じる余韻は、言語的には行間に近い感触です。言葉にならなかったものを感じさせるが行間ですが、弾いた後の残音、余韻も行間によく似ています。日本文化の間をとるという感覚は、合理的な時間の解釈から言えば無駄に通じるものです。そんな邪魔なものは排除して構わないというのが現代ということですが、実はストレスの多くはそうした合理的な時間の使い方からきているものなのです。ということは、一見無駄に見える間の考え方はこれからますます必要なものになってゆきそうです。