2024年10月23日
YouTubeで最近の若手の演奏家がどんな演奏をしているのかと覗いてみることがあります。もちろんいい演奏もあれば、面白くもなんともない演奏もあります。年寄りの寝言と聞いていただいてもいいのですが、予想以上に「この人とやっつけ仕事をしている」と感じる演奏が多いことです。あるは「これみよがしの演奏と言うのか自惚れ」も気になります。
私の持つそうした印象は、、音楽以前のこともあります。音楽をする人たちの一面的な人間教育はいつも問題になりますが、音楽的には楽譜で音楽を勉強したことの弊害と結びつくものだと考えています。やっつけ仕事という言い方は少し乱暴かもしれませんが、感情の伴っていない機械的な演奏、大袈裟なパフォーマンスというのも気になるところです。そうした演奏に共通した特徴は、聞いていて疲れることです。いろいろな疲れ方があるのですが、一様に疲れると言うことでは共通しています。
楽譜と言うのは実にありがたいものです。楽譜があることで作品が後世に残るわけですし、何百年も前の作品を今日演奏できるのも楽譜に残されたからで、楽譜のありがたさは百も承知しているのですが、楽譜を演奏すれば音楽になるという考えで音楽をすることになれば本間転倒です。楽譜はあくまでも便宜上のものと知っておく必要があります。文章の時には行間を読むという言い方がされますが、音楽にも似たことは起こっているはずです。音符と音符の間というのか、五線の間というのかは知りませんが、あのお玉杓子の間にあるものが音楽にとっては一番大切なところなのです。楽譜のように見えるものではなく、見えないところを読み取りそれを音にできるかどうかで良い演奏かよくない演奏かが別れてしまいます。
老婆心から加えて言うと、若い人たちは、技術的な練習をすることに専念して、他の人の音楽良い演奏形の良い演奏をちゃんと聞いてきていないのではないか、そんな印象があります。音楽の基本は聞くことから始まるので、聞くと言う練習をたっぷりしないと良い演奏につながらないと思います。
気になるもう一つはテンポです。今は時代がスピード化しているので、何でも早くと言うのは時代的傾向なのでしょうが、音楽がそれに付き合う必要ないと思います。若い人たちは往々にしてテンポが早いです。スピード感のある演奏の方が技巧的にインパクトがあるからなのかもしれません。ゆっくりは下手で速く弾けないと見られてしまいかねませんが実際は違います。演奏に携わると、ゆっくりしたテンポは必ずしも技術的に劣っているからでないことは明らかです。かえって充実したゆっくりのテンポは素人には難しいものです。そこにその人の音楽の力量を伺うことができます。早いテンポで弾くのは練習を重ねればいいだけと言うこともあります。
全体の印象を言うと、音楽から潤いが失われていると言うことです。音楽が人間性に満たされていないのです。音楽以前に音楽の素、要である音をしっかり聞いていないという、もの寂しさも感じます。これから音楽はますますスカスカになってゆき、空っぽになってしまうのでしょうか。おそらくそのことに気づいている人もたくさんいるのだと思います。しかし音楽が商業的になってゆくと、この傾向はますます増長してしまうでしょう。音楽活動が商品的価値を持たなければならないことは理解できますが、商品である以前に、もっと大きな役割が与えられているのではないか、そんな気がするのです。
この文章を書きながら、音楽というのは実に繊細なものなのだと言うこと改めて感じました。他の芸術にない独特の繊細さを持ったものの様です。
2024年10月22日
今日も言葉のことにこだわってみます。
文章は文法によって支えられていものですが、詩の言葉は違います。
日本の和歌は三十一文字で俳句は十七文字です。万葉などに見られる長歌は定型はないですが五七調で書かれているものです。詩の場合は、詩形と言われるものが散文の文法に相当するようです。イギリスにはソネットという十四行という形があり、ダンテの神曲は一行が十一シルベルで綴られていますから、歌うように言葉が流れます。
言葉を書く時、つまり書き言葉というものには詩文、散文を問わずとりあえず制約があるということです。言葉によって、また時代によって制約の仕方は異なりますが、書き言葉にする時には、自由に思いのままに喋るのとは違ってその制約の中で、つまり不自由の中で精神を活動するのです。私は言葉のレベルが違うと思っています。
フランスには美文を保護する意識が高く、フラン語的名文、理想の文章というようなものがはっきりと示されています。私たちが「最後の授業」として知っているアルフォンス・ドデーという作家の文章はフランで語の名文に数えられているものです。この物語は「月曜物語」という十八世紀のフランスとドイツの戦争の時のことを綴った小説の第一章にあたります。もちろん翻訳されてしまってはフランス語の文章の味わいは消えてしまいますが、フランス語はこう書くのだという意識があるということを知っていただきたくて書いています。同じことはイタリアでもあって、理想的なイタリア語の文章というものをイタリア人もやはり考えています。もちろん英語にもあるものです。
ノーベル文学賞を何年か前に取ったカズオ・イシグロが受賞の何年か前のインタヴューで「今の若いイギリスの作家たちは、英語で美しい文章を書くというよりも、他の言葉に翻訳しやすいような言葉を使う傾向が強い」と指摘して「それは言語としての英語の衰退である」という感想を述べています。彼の受賞作品である「日の名残り」の英語は英語のエッセンスで綴られた凝縮したもので、イギリス人にもある意味難解なものになっているほどと言われるレベルの高い英語です。外国人として読む時には悪戦苦闘を強いられます。
こういう傾向は何も英語だけに限らず、グローバルという世界が一つになったらいいという考えのもとでは、容易に起こりうることで、おそらく日本にもそういう手の作家がいるような気がします。
日本語は理想的な日本語というのがないと言ってもいいのかもしれません。特に翻訳がされるようになり新しい語彙が加わり、西洋語の文体に振り回されることになりと、日本語は今までとは別の言葉として新生する必要があったわけです。しかし地下水のように脈々とながれている日本語、大和言葉のエネルギーは消えていないと思っています。新生してすでに百五十年以上が経ちます。その間のうねりは、二葉亭四迷から始まって今日に至るまで、さまざまな工夫がなされて今に至っています。
日本語の文章を考える趨勢がこれから生まれ、新しい意識のもとで日本語が磨かれてゆくのだろうと楽観しています。日本語には西洋語に見られるような文法がないというのが、どのような利点として活用されるのか楽しみです。
2024年10月22日
喋り言葉はすぐに乱れる言葉で、よく年寄りが「今の若いものの言葉はなっていない」とよく言われます。百年も経てば随分と変わってしまっているだろうと想像できます。百年も経てばなんとか理解はできても肌で感じるようには理解できなくなっているものだと想像します。ということは、百年前にしゃべられていた言葉は、同じ日本語でも今とは相当違うものだろうということです。
それに引き換え、同じ喋り言葉という扱いを受ける言葉に方言があります。この方言ですが、百年どころかもっと長い寿命があります。見えないけれどしっかりした枠があるからなのでしょう。
今はラジオ、テレビ、ネットの普及でどこもかしこもが「いわゆる」標準語を喋るようになっていますから、若い人たちは、たとえ津軽地方にしても、年配の人たちのように方言を使う若者は少なくなって、ほとんどが標準語になっています。とはいえアクセントは根強く、単語は標準語でも、標準語しか話せない私のような人間には、どこの出身かがわかってしまうものです。
年配の人たちの中にはアクセントだけでなく、単語も、喋り方、言い回しなどもしっかり方言で喋る人がまだいて、おそらくその人たちの方言は普通の喋り言葉と違って、もしかすると何百年前とほとんど同じではないかと思うほどです。
方言のこの、いい意味での頑固さはどこから来るのかというと、流行という一時的な流れとは正反対の、伝統を守るという深い潜在意識によるものだと思います。もちろん流行する言い回しにもよく似た傾向は見られます。例えば「半端ない」とか「ヤバイ」とか「メガイケメン」という言い方はすくに普及し、若い人たちはその言い方をすることで時代の一員になるという仕組みです。方言も、一族の一員であるという潜在意識に支えられているとは思うのですが、方言は時代に左右されないという特徴があります。この頑固さは実に不思議としか言えないものです。
方言の根強さは日本だけのことではなく、私が知る限りではドイツ、スイスなどにも残っています。特にスイスは方言を大切にしています。中でもドイツ語圏の方言は特筆するものがあります。今でもしっかり地域に定着しているだけでなく、就学までは方言で教育するという方針が公的教育の中でも実践されているほどなのです。もちろん方言は地域性のあるものですから、スイスの中でも方言によっては他の方言の人にはわからないものがあるほどです。一山越えると全く別の方言を喋っていると滋養起用です。それに比べればドイツの方言は百倍くらい薄められているような感じですから、標準語に毒されてしまったと言えるかもしれません。
スイスの場合地理的に険しい山があり、そこには当然深い谷が存在しますから、文化生活はそれによって分断されているからという理由づけもできるのでしょうが、今日のメディアの電波はそんなものを飛び越えて伝達されわけですから、本当の理由は別のところにあるといっていいようです。
私は言葉が頭脳、つまり知性によって毒されていないからだと思っています。感情的というかまだ中世的、あるいはもっというと本能的と言えるものが言葉の中に生きているのだと思うのです。それはヴァイタリティーに富む言葉とも言えるもので、その失われることのない方言の中で子どもが育つというのは、その土地に根を張って生きているということにもつながると思うのです。子どもが必要としている、周りに守られていると感じことでえる安心感は方言によって作られ、それによって方言を守るという意識が生まれ、人々は方言を好んで喋るのだと言えるように思うのです。ここにスイスのような方言が現代文明の流れの中にも根強く残っている理由を見つけられるような気がしてならないのです。
スイスの人たちは自信満々に方言を使います。気持ちの中では標準ドイツ語など使う理由はどこにもない、と言わんばかりです。もちろん時代はグローバルの時代ですから、職業によっては、方言だけでは無理なこともあり、標準語は学校では必須ですが、家に帰ったり、友達と話をする時には、方言なのです。
私は東京で生まれ、育ったので、方言を持っていません。憧れますが、成人してから覚えた方言は本物とは違うものです。私が正確なドイツ語を使えるとしても、それはネイティブなドイツ人からすれは、つまらないお勉強したドイツ語にすぎないようなものです。
方言には根っこがあり、土地の中で育ち、その土地に深く根ざしてゆきますが、普通の喋り言葉にはそうした根っこがないような気がしてならないのです。そのためそこから文化が生まれるということは考えられないようです。百年はおろか、二、三十年で消えてなくなってしまう喋り言葉も随分あるようです。
私は方言のような地域に根を張った言葉に憧れます。
方言はもしかしたら母国語などよりも大切な言葉なのかもしれません。
言葉は文法という規則を確立することによって、長い時代を生き続けることができますが、方言は文法を持たずに何百年と使い続けられるのですから、そこに潜在する力はとても神秘的です。