2023年9月15日
記憶力というと普通は覚えておく能力で、たくさん知っていると言うのが目安となります。しかし記憶というものは、覚える・忘れる・思い出すと三ステップからなるものですから、覚えておくだけを取り上げても意味がないものです。実際に覚えておくことに突出したサガン症候群というものもあります。
しかしシュタイナーの世界に入ると、記憶のなかの「忘れる能力」と深く付き合うことになります。忘れるというのは立派な能力だというのです。覚えておくという、いわば固めてしまう方向ではなく、忘れるという溶ける方に注目しているのです。教育もその点から見られています。
実は忘れると言うのは人間に特有のもので、動物の場合、長く覚えているということが注目されますが、見方を変えれば忘れられずに固まって長く残っているのだとも言えるのです。忘れた量などとは言わないもので、数値的に表せなという特徴があります。どれだけ覚えたかは測れても、どれだけ忘れたかは測れないものです。「シュタイナー教育は忘れることを教える教育です」などと言って質問者を煙に巻いたりしたこともあります。記憶の三つ目の思い出すというのは、この忘れるというプロセス抜きには考えられないものだとすると、忘れるというのは隅におけないものと言えそうです。
覚えておくというのが固めるというものと親近性を持っているとすると、忘れるはほぐして行くというプロセスです。リラックスとも言えます。講演で、「今お話ししたことはしっかり覚えてお帰りください」なんて聴衆に言おうものならその一瞬、体をこわばらせるかもしれません。一方「今聞かれたことは忘れられても構いません。いずれ必要な時に出てくるものです」といえばゆったりと引き続き話を聞かれるのではないのでしょうか。
今でもよく分かっていないのは、せっかく覚えたものを忘れている時のことです。そのものはどこに行ってしまったのかということです。消えてなくなっているようです。コンピューターでは保存しておく訳ですが、人間にもそのような保存場所というのがあって、プールでき、そこに溜めておいているのでしょうか。そのプールは肉体的には存在していないようなのです。解剖しても見つかりません。
そうすると肉体外ということになり、シユタイナーはエーテル体を持ち出します。エーテル体は別名記憶体なのです。しかし今の医学では解剖してもエーテル体は出てこないので、ないものとなっていますから、記憶がどこにプールされているのかは言い当てられないのです。エーテル体なんて眉唾だと思うか、そうかそういうものがあるのかで道が分かれます。ないという道を選ぶとすぐに行き止まりです。あるとすると話は続きます。
プールされている場所?がエーテル体だとしてもやはりプールされているには変わりがありません。話を次の「思い出すという能力」に持ってゆきたいので、エーテルにプールされている様子はまたの機会にゆずり、思い出すという能力です。
昔から思い出すというのがとても不思議で、どこからどのようにして出た来るのか知りたくて仕方ありませんでした。深い話は置いておいて、現象的に見ると、思い出している時をスローモーションで見たとすると、とても嬉しそうにしている姿が見えてきます。思い出すというのは、嬉しくて嬉しくて仕方がないものなのです。笑顔ではち切れんばかりです。身体中が光り輝いています。そして思い出すというのは元気の源でもあるのです。歳をとってくると昔のことを思い出して話をするものです。しかも周囲から迷惑がられるほどしつこく繰り返します。しかし当の本人にしてみると、思い出しながら話をしているとことが嬉しくて仕方がないのです。
日常でも、どこに置いたのか忘れてしまった鍵やお財布のことを思い出した時には、身体中が輝いているものです。思い出させている能力は「意志」の力です。この意志も心理学、医学、脳生理学などがお手上げのものです。
エーテルだと意志だとかいうものがシュタイナーの教育ではキーポイントになります。それだけを取り上げれば難しいものとなりますが、しかしシュタイナーが示唆した授業法の中にたくさんのピントがあると考えています。ただ授業法をレシピにしてしまうと、遠い目標であるエーテルや意志のことが置きざれにされしまうこともありますから要注意です。シュタイナー教育の道のりはまだまだ続いているのです。、
2023年9月12日
シュタイナーが嫌ったのはレシピでした。レシピとはそもそも処方箋のことで、それがいつから料理の世界に進出したのかは知りません。
レシピの便利さは確かにあって、フランス料理が世界の料理になったのは、しっかりしたレシピを作ったことからでスカラ、レシピの働きを認めるのにやぶさかではないのですが、レシピ通りに作るのではなく、参考にして独自のものを作る方がスリルがあって面白いのではないかと思います。ミシュランの星なども料理の世界にとっては情報社会には便利なものでしょうが、料理の本質からは当座勝ってしまうのではないかと懸念します。
レシピに洗脳されていることをしっかりと自覚して、レシピの呪縛から身を守るようにしたいものです。
シュタイナーのレシピ嫌いは、正直いうと詳しくはわかっていません。「人智学はレシピ通りになんかできないもの」、と言っている程度です。しかし私にはこの示唆はとても含みのあるものでしたから、その一節を読んだ後は肝に銘じています。人智学をレシピ通りにやると「人智学ぽく」なるだけのような気がします。しかし実際になぜレシピを嫌ったのかは想像するしかないのです。
ではレシピではなく何が大切だと言うのかというと、一人一人です。人間を一括りにしてはいけないと言うことです。人間の成長を見ると三歳までの幼児の在り方、九歳の危機、十九歳の頃の別の危機というものや、七年周期のようなものがありますが、それらをレシピとして括ってしまうと、個々の人間は見えなくなってしまうのではないかと思うのです。成長に見られるそれらの経過点は教育にあって参考にすればいいだけで、主体は飽くまで個人であると言うことです。驚異と一人一人の子どもの間に通っているものです。個人を見る目を養わずに、レシピばかり集めて人間を語るようになったら、飛躍があるかもしれませんが、政治的には民主主義から全体主義、専制主義にとって変わった様なものです。人間とはあくまで個人が主体なのだと言うことが言いたかったのではないのでしょうか。
シュタイナーはきっと、自由への教育と言いながらレシピだらけの教育に陥らないように気をつけろと言いたいのです。レシピはどんな場合にあっても背景にあれば十分で、大切なのは教師がどこまで深く一人一人の子どもを見ているのかと言うことです。これを徹底することで、子どもを自由な存在に育てることができるのです。
2023年9月11日
シュタイナーは難しいともっぱら評判です。
言葉と言うのか、翻訳が原因です。ただ単語が難しいのであれば、調べれば理解に近づけるので、言葉、単語の問題ではなく、単語の向こうの意味している世界が見えて来ないということもあります。エーテル体とかアストラル体はそもそもの意味はと問われても何のことかチンプンカンプンで、辞書を調べても埒が開かず途方に暮れるだけです。霊が必ず出てきますが、スピリチュアルとは違って掴みどころがないのです。読んだことが本当なのか嘘なのかすら自分では検証できないことばかりなのです。
これでは本を読んでいるという充実感は得られません。したがってシユタイナーは難しいとなってシュタイナー離れということになってしまうのです。
シュタイナーは難しいことを言おうとしたわけではないのです。抽象的なことを言ったわけではなく、現実を違った観点から見せたかったのです。私たちの日常生活で起こることを違った観点から見せたかったのです。
実はそれが一番難しいことなのです。習慣、常識として身についているものがあります。この膜を剥ぐのは大変なことなのです。例えば外国で生活するようになると、新しいことを受け入れることよりも、それまでの一切通用しない習慣、常識から見放されてしまうことです。誰が悪いのではなく、外国というのは別の文化観、世界観に裏付けされている所なので、育ったところの文化や習慣や常識は一旦捨てないとそこでの生活には馴染めないものなのです。まさに「死して生まれよ」です。よく言うホームシックはある種の死と言えるものです。
同じようにシユタイナーの世界に入るためには、今までの習慣や常識を外す手続きを取らなければならないのです。外した時、自分では無くなったような気がするものです。これは日常生活はもちろんですが、たとえば学問の中で常識となっているもの、ある宗教の中で常識になっているの全てに関わってくるので、違う世界観を受け入れ、それに馴染むと言うのは大変な覚悟が必要で、外国生活の場合などはホームシックのようなことで帰国を余儀なくされることになります。シュタイナーの前での挫折は半ばホームシックのようなものです。
シュタイナーは難しいことはないのですが、簡単ではないことも事実です。一番大変なのはおそらく、習慣と常識という膜を剥がすプロセスです。ここがすんなりできれば、そのあとは意外と簡単なものです。
まずはコメント抜きに受け入れることです。初めから批判を盾にしていると、何も入ってきません。ただなんでもがむしゃらに覚えたり、信じてしまうと言うのは危険です。常に「本当かな」と言う軽い気持ちで距離を持って接するようにしておくことは大事です。
外国語で本を読んでいる時、わからない言葉をその都度辞書で調べながら読んでゆくと、途切れ途切れになってしまいます。そうなるとその本に書かれていることを読んだことにはなりません。ただしゆっくりと時間をかけて読む覚悟があれば、それなりの深い体験ができるとは思いますが。
言葉の意味がその時は分からなくても読み進んでゆくと、なんとなく文脈の中からわからなかった単語の意味がインスピレーションされたりするものなのです。シュタイナーにもそんなところがあり、わからないと諦めるのではなく、そこにしがみついていると自ずと解かれて行くようなことが起こります。これは証明できないことなのですが、経験的には確信しています。
シュタイナーはわかりやすくならないものです。しかしわかりにくいという先入観や、思い込みを外せれば、難しいという決めつけが無意味なことがわかります。わからないものはわからないままで置いておくことも一策です。