演奏の癖とその克服のために

2025年9月4日

中古の楽器というと聞こえは悪いですが、特に弦楽器は車など違って、何百年前のバイオリンが数億円するという骨董的な価値を生み出すこともあるのです。名工が作ったものになると決まって高額で取引されます。

ピアノはそういうことがなく、古くなると安くなります。

ライアーの場合はどうかというと、やはり安くなります。ただいい状態で残ったものに関しては、下がり具合が少ない傾向にはありますが、バイオリンのような骨董的な付加価値がつくことはありません。

 

先日から人様のライアーをお預かりしています。楽器が悪くなったというのではなく、最近いい音が出なくなったので私に弾いてもらおうと思い立ったのだそうです。高い施術量を請求しますよと驚かしておきました。

前がどのような音で鳴っていて、今どのように変わったのかを尋ねても、具体的な話にはならず、昔の音に戻してもらいたいというだけなのですから、正直何をしたらいいのかわからないままお預かりすることになりました。

楽器というのは弾き手の癖が乗り移ります。ということでまずは弾いてみてどんな楽器なのかを耳で確かめることにしました。私の経験からしてもそのライアーの響きは硬いものでしたから、そのことをいうと、音が気に入らなくなってからはあまり弾かなくなっていましたということで、さもありなんと納得したのですが、弾き込んでゆくと他にも気になるところができました。弦のしなりがないのです。指で弦を弾くところ辺りは弦が柔らかく揺れるのですが、少し離れると弦が揺れていないのです。ただ素人の見た目には弦は弾かれたときに震えるものですから、揺れているように見えるのですが、私の感触からはたっぷり震えるというものではないのです。私のライアーと比較すると、私のは弦全部がしなやかに揺れますから、ゆったりした音が出ます。しかも弦全然が鳴るようになると音に落ち着きが生まれ、大きな音でも静かに響きます。お預かりした楽器の弦は弦の真ん中あたりの指が触れるところあたりしか鳴っていないのです。

ライアーは指で弾けばとりあえずは音が出ます。そこに安住して弱い指の力でポロンポロンと弾いていたようなのです。初めは新しい弦でしたから前の人の癖なども全くなかったので、新品の弦は均一に鳴っていたのだと思います。それが真ん中だけがなるように弾かれてゆくうちの、それが癖として定着してしまったのではないかと考えました。弾けば弾くほど癖が弦に染み付いてしまったようなのです。そして私のところに来るときには弦がその癖からの音しか出せなくなってしまったのです。つまりいい音が出なくなってしまったのです。

ライアーだけでなく、弦が張られている楽器は、弦全体が鳴るように弾かないと弦に良くない癖が乗り移ってしまいます。昔リヒテルというロシアのピアニストの演奏会で貴重な体験をしました。彼が弾き始めたときに、ピアノの弦が端から端まで鳴っていたのです。当たり前のようで当たり前ではないのです。それがわかるような音だったのです。それに感動しました。そしていい音で弾くというのは、小手先の技巧ではなく、弦に忠実に向かい合って弾くということから生まれるものだと気付かされたのでした。それ以来弦全体が震えるように弾くようにしています。

実はそのためには案外指の力が必要なのです。ですからライアーを弾くためにはまずは指の力を鍛えないといけないということのようです。私は中高と陸上競技部で三種競技をやっていました。走る、跳ぶ、投げるで競うものです。走るは百と二百メートル、跳ぶは走り幅跳び、そして投げるが砲丸投げでしたから、そのために腕立て伏せならぬ、指立て伏せをさせられました。指立て伏せを二十回、三十回して指を鍛えたものでした。全盛期は五十回くらいは平気でやっていました。同時に背筋も鍛えられました。そのときに鍛えられた指の力、背筋の力が、現在ライアーを弾くときに大いに役立っているのです。

例えば、若い女性がライアーを弾きたいですといらっしゃったとします。そのときに、「では指立て伏せからはじましょう」なんて言ったら、その場で嫌な顔をされて帰られてしまいますから、なかなか言えないことなのですが、指の力がないとやはり弦を弾き切れないので、厳しいかもしれませんが指立て伏せで指を鍛えないとというのはシビアな現実なのです。ところが、音楽をやりたいと来る人に体育会系の訓練をお願いするなんて、あまりに突飛押しもないことのように受け取られてしまうのでどうしても口憚ってしまうのです。

指立て伏せ以外に指を鍛える方法を知っていらっしゃる方がいましたらぜひ教えていただきたいのです。音楽に憧れるか弱い女性でも楽しくできるような練習方法をです。しかも長続きするような練習方法をです。お願いします。

オルゴールの話

2025年9月2日

オルゴールはいま日本が世界市場の80パーセント以上占めていますから、日本のお家芸かと思いきや、わたしたちが今日オルコールと呼ぶ形のものはスイスのジュネーブの時計職人、アントワーヌ・ファーブルさんによって1796年に作られたものなのです。円形の筒状をしたものに針を立てて、その針がピアノのように調律された金属の板に触れそれを弾くことで音が鳴る仕組みのものですが、これが今でも一番馴染みのあるオルゴールの形です。オルゴールは時計職人によって編み出されたものだったのです。さらにこのオルゴールの誕生にはゼンマイの発明が欠かせなかったのです。今日でもオルゴールは基本的にはネジを回してゼンマイを巻き上げる方式が引き継がれてします。

オルゴール誕生からほぼ百年の時間が流れ1886年になるとドイツで全く仕掛けの異なるデスクオルゴールなるものが発明されます。円盤状のディスクに針に代わるものを付けることで金属の板を弾いて音を出します。筒型のオルゴールは演奏できる曲の数が限られているのですがディスク型はデスクを変えれば今まで以上に様々な音楽が楽しめるというメリットがあり、オルゴールの世界に新しい時代が始まります。これは画期的な発明で瞬く間に世界中に広がりました。一つのオルゴールから何十曲、何百曲もの音楽が聴けるようになったのです。

ところがその十年後にエジソンが1877年に蓄音機を発明します。蓄音機とオルゴールは一見全く別のものなのですが、蓄音機の発明はオルゴールを押しやることになるのです。あれほど栄えたオルゴールは1920年頃には影を潜め、オルゴールそのもののも作られなくなってしまうのです。蓄音機の発想は音の波形を刻みそれを針で再生させるわけです。音源の豊富さはオルゴールとは比較にならないのです。録音技術が発達するとオーケストラの音まで録音して再生できるようになるます。オルゴールの調律された金属の板からの限られた音とは比較にならなかったのです。

デスクオルゴールは薄命な運命をたどりましたが、円筒形のオルゴールはその後も造られ続けて今日に至っています。ただ昔はオルゴール職人が腕を競ったため、驚くほど繊細な音質の高級なオルゴールが作られたのですが、それは流石に今日では極めてマイナーなものになってしまい、子ども向けのものや、宝石箱の箱を開けると回れ出すもの、人形のメリーゴーランドが周りながらオルゴールも同時に鳴るような大衆向けのオルゴールが主流になっています。もちろんその中でも優れたものからほとんどおもちゃと言っていいようなものまで相当の幅があり、音質的にも相当の幅があるようてす。

私の手元には縁があって、当時のスイスで作られた円筒形のとディスクオルゴールの二つがあり、オルゴールが全盛期にあった当時を偲ぶことが出派ます。どちらからも澄んだ張り詰めた音が楽しめます。広島の紙屋町にあった星ビルの五階にはゆったりとした喫茶室があり、そこにはアンチークの高級オルゴールがたくさん置かれていました。そこでお茶をしながら素晴らしいオルゴールの音を何度も堪能させていただきました。そこの専門の方がオルゴールの音の違いについて話してくださったことがありました。そのお話を私はワクワクして伺いました。その時のお話の内容は私のライアー演奏にも大きな影響があったのです。オルゴールというのは円筒形にしろデイスク状のものにしろ、基本的には針が調律された金属の板に触れ弾くという作業には変わりがないのです。ではその単純な作業からどのようにして音質のちがいが生まれるのかを話してくださったのです。その針と調律された金属の板が出会う瞬間が命だということでした。簡単にいうとその瞬間が短ければ短いほど音は緊迫感を持ち豊かになるということです。そして繊細な瞬間を作るためには針は固くなければならないわです。そして弾かれる金属の板は硬さとしなやかさを有していなければならないのだそうです。まるで日本刀の鋼の質に相当するような話です。

先ほどの瞬間が短ければ短いほどオルゴールからはフワッとした広がりのある音が生まれるのだそうです。ここが私のライアー演奏に影響したのです。それまでにも指から弦を話す瞬間を色々と空していました。しかしそれが本当にいい音作りにつながるのかは、主観的な観点からは納得していても、それは自分の好みに過ぎないと思うところもあって、確信できていなかったのです。ところがオルゴーからどのように良質の音を作るのかの説明を聞いたときに、ハッとしたので。探していた回答がそこにあったからです。それ以来弦を離す瞬間を短くするための努力がさらに磨かれていったのです。

ライアーを弾かれる方は、弦を引っ掻くのではなく、円形の筒の上の針が金属の板を弾くところをイメージされなが練習されてはいかがでしょうか。

楽譜の向こう

2025年8月31日

音楽と楽譜はまるで対をなすもののように言われていますが、楽譜を読めなくても音楽活動をしている人はたくさんいます。楽譜は音楽の絶対条件ではないということは知っておく必要があります。むしろ楽譜に振り回されているなんてこともあるのです。

ことクラシック音楽に関しては楽譜は欠かせないものです。この点がクラシック音楽の大きな特徴です。まずは楽譜の習得から始めます。しばらくすると正確に楽譜が読めるような訓練になります。この時点では楽譜は有益なもの、便宜上のものなのかもしれません。あるいは作品を後世に残すための手段としても楽譜は有効なものですが、例外ももちろんあります。楽譜で音楽を伝えなかった日本の雅楽はマンツーマンで先人から直接の手ほどきを得て一千年の年月を伝えてきているので、楽譜は後世に伝える唯一の手段ではないのです。むしろ楽譜は時代によって解釈が異なったりするので、正確に伝えてはいないと考えることもできます。

楽譜を見ながら練習して、楽譜がなくても演奏できるほど弾きこむと、今度は楽譜のない世界に入ります。ただ脳裏には楽譜が消え隠れしている場合もありますから、全くなくなったというわけではありません。それに指遣いで覚えていることも多いです。ともあれ楽譜離れという時期もあるのです。

楽譜なしで、つまり暗譜で弾けるようになると、楽譜にしがみついていた時とは音楽が変わります。自分流の解釈からの、自分らしさという誘惑が大きくなります。自分が解釈した演奏というものですが、実はこれが演奏の世界では大変な課題を持った落とし穴なのです。

暗譜で弾けるようになって初めて音楽が自分のものになったと言えるのかもしれませんが、そこには驕りのようなものが潜んでいる場合もあります。そうなってしまっては音楽は元も子もなくなってしまうのです。自惚れたエゴの塊のようなつまらない演奏がそこで待ち受けています。

イギリス人で、ピアノ伴奏の分野で世界中から高く評価されたジェラルド・ムーアは、あるコンサートでシューベルトの野薔薇の伴奏を楽譜を見ながら弾きました。この伴奏はピアノを初めて一年も練習すれば誰でも弾けるようになるくらい簡単なものです。彼はアンコールで歌う歌手と一緒に楽譜を持って舞台に登場したのです。そして楽譜を広げて楽譜を見ながら伴奏したのです。次の日の新聞評には、「ムーア氏は未だに野薔薇の伴奏程度のものも暗部していないのか」と揶揄するような文章が載りました。晩年にムーア氏が自らのエッセイでこのことに触れ「私はシューベルトの精神に触れながら演奏するために楽譜が必要なのです」と答えていました。

宗教の儀式では、その宗教の聖典を読むということがセレモニーの中でよくあります。どの宗教にも共通しているのは、その聖典を目の前にして文字を読みます。暗唱ではなくテキストを前にして文字を読むのです。聖職者なら暗記しているはずのものでも、聖書の文字を読み上げるのです。理由はテキストと読み手の間に邪神、邪心が迷い込まないためだと言われています。

ムーアが楽譜を見ながらシューベルトの精神に近づこうとしている姿をどのように理解したらいいのか考えるのですが、彼の在り方は宗教の儀式と同じことだと言えるように思うのです。演奏しているときに、邪心、自分の奢りのようなものが入り込まないように、どんな簡単なものでも楽譜を目の前にすることで、却って無心になれるということなのかもしれません。

楽譜を読めるように練習し、だんだんと楽譜に忠実に演奏できるようになり、その次に暗譜で弾けるほどに作品を自分のものにする。実はそれで終わりではなく、その次があったのです。また楽譜に戻ってきて、今度は楽譜を通して楽譜の向こうに控えている作曲家の精神に触れながら弾く。

楽譜というのは暗譜するまでの練習のためのものというだけのものではないのです。楽譜を覚え始めた時と暗譜して楽譜など必要でなくなってから再び楽譜に戻ってくる。誰もが通り流れですが、初めての楽譜と再び戻ってきた時の楽譜とは同じものではないのです。再び戻ってきて楽譜を見ている時というのは楽譜を通して得られるインスピレーションを享受しているのだと思います。

楽譜というのは楽譜以上のものを秘めているということのようです。楽譜以上がわかるかどうかがいい演奏かどうかの分かれ目なのかもしれません。