2026年4月18日
心はどの様に言い表せるのかと考えてみました。
日常生活に密着している言葉から見てみましょう。最初にどの様な形容詞がつくかです。
豊かな心、純粋な心、透明な心、繊細な心、思いやりのある心などが思い浮かびます。
「心は巧みなる絵師の如し」とも言われるように様々な心象にあふれています。心はイメージの宝庫というのか、数々のイメージ去来する場所なのです。
ドイツ語で心はSeele、ゼーレと言います。ライアー・ゼーレのゼーレです。これは小さな湖のことで水を湛えた湖面がイメージ的に浮かんできます。突風が荒れ狂う日は波立つこともあれば穏やかな日には鏡の様に周囲を映す湖です。水の要素と結びつけて捉えられているところがユニークです。英語ではハートで、心臓のことでヨガのチャクラの話に通じるようなところがあります。
美の世界に注目したいと思います。美は心に宿っているからです。美意識、美的センスは心があるから生まれるのです。何かを美しいと感じられるのは心があるからだということです。ちなみに真・善・美の「真」は知性によるもので、「善」は行動ですから意志のものです。
美の世界には確固とした倫理が存在しています。美意識からの倫理です。知的世界には知性で整理された倫理があり、善の世界にも行動を規制する倫理が存在します。キリスト教を日本に伝えた宣教師たちが、当時口々に日本の中に存在する高い倫理について語っています。キリスト教が未だ伝来していないのに倫理が存在していることを不思議がっていたのです。人間の生活に倫理を導入するのかにはいくつもの道があります。宗教が教える倫理ではなく、ましてや行動を規制する倫理でもない、独特の道を通って育てられた倫理が日本にはあったのです。それは美の感性から生まれ育まれた極めて繊細な倫理で、美の法則を尊ぶ精神によって培わされた感性からの倫理だったのです。宗教に対して曖昧な態度を取り、一方で軍国主義的なものに走りやすい体質を保ちつつ、倫理が深いところで維持されているのは、この感性による倫理、美による倫理によるのです。これは日本の歴史の中を太古の昔から途切れることなく深く底辺を貫いてきた倫理観なのです。
現実に話を戻しましよう。私は人の存在感は心の豊かさから生まれると思っています。
心の豊かさを感じる人と一緒に居る時ほど安らぎ、安らかさを感じることはありません。一芸に秀でた人たちからはいろいろなことが学べます。極められた質の高さには頭が下がります。私が知る由もないような世界のことを詳しく知っている人たちからも刺激を貰います。素晴らしい辞書、辞典を目にする時も、そこに込められている努力の深さに頭が下がります。行動力のある人には一目を置いています。精神界、霊界に通じた人たちの話はわからないことだらけですが興味深いものです。心の豊かさを感じる人というのは、そう言うのとは違って、私にとっては別格なものなのです。生産社会とは直接結びつかないものですが、心が枯れて仕舞えば社会は瞬く間に衰退してしまうものです。その時になって初めて気付くのが心です。人間社会は見えない心からの力から発せられているものなのです。
コロナ禍では社会生活が縮小され、人と人との間のつながりが絶たれるという状況が生まれました。オンラインなどで補足できるものもありましたが、人と人とが直接出会うことはなくなりました。心のつながりが絶たれてしまったのです。人間生活にあっては致命的なことでした。そのため社会が枯渇してしまったと言っていいのかもしれません。その後少しづつは回復しているのでしょうが、心が切断された悲劇から多くのことが学んで欲しいと願っています。人間の意識が心に焦点が向けられる様になるとこれからの社会を作る大きな力になる様な気がしてなりません。
2026年4月6日
好きな言葉なは何かなんて普通は聞かないものです。言葉は好き嫌いの対象ではなく機能を第一に考えるからです。正しく使われているかどうかが言葉では問われていることです。
しかし文学という世界での言葉は少し違うものの様です。極論すると、言葉が生きているかどうかとなります。
ということで好きな言葉、大切にしている言葉のことをお話ししたくなります。付き合ってください。
好きな言葉は心です。心理学が対象にしている心ではありません。応用心理学、行動心理学などの専門家たちがいう心は、私にとっての心とは大分違います。心の機能、つまり心理についてという風に扱われるものではないのです。私にとっての心は感じる心か感じない心かです。心はまず何よりも先ず感じなければならないと思っています。心を説明しようとする際に共感と反感とに分ける人がいます。その流れでいうと感じることはどこに位置するのでしょうか。共感と反感の真ん中、つまり中庸、共感でもあり反感でもあるという調和したところということになるのかもしれません。感じるというのは、ただぼんやりと感じているだけでなくとても知的なものでもあり、衝動的なものというよりも意志の力に満ちているものでもあります。
豊かな心というのは、たくさんものを知っていることは違うとはみんな知っているはずです。物知りは物知りでしかないのです。たくさんの知識があるということ、それはそれで立派なことですし、生きてゆく上でも社会的にも有益なことと言えますが、それは畢竟機能という点からの考え方です。心がそんなふうに機能していたら心は病んでしまいます。ひたすら感じることを使命としていると考えたらいいのではないかと思います。純粋に感じるだけの世界にいる時が人間は一番人間的なのではないかと思うのです。ただ感じるというのは今日的なセンサー反応とは違います。センサーは外からの刺激に反応しているだけで、私が言う感じる心とは別物です。センサーは条件反射的の世界です。これも感じるというのとは関係のない様です。
ホモ・サピエンスというのは私たちのことです。知性人、つまり知的に発達した種族となります。人間は自分達を知的存在と定義したのです。オランダの人類学者のホイジンガは人間を遊ぶ存在と考え、ホモ・ルーデンスと名付けました。心を持つ存在ということになれば、一番ふさわしいのがホモ・センスということになるのかもしれません。
心が感じていると他の人と共有したくなります。自分の心の中にだけにとどめておけないものなのでしょう。心で感じたことを言葉に託そうとします。そのように発せられた一番最初の言葉はと考えると、ワクワクしてしまいます。歴史的に見ると言葉はそもそも歌われたものだった様です。
歌と詩とはそもそも同じものだったのかもしれません。詩の歴史は言葉の歴史と同じくらい古いものです。しかし調べてみると古くは殆どが叙事詩という歴史や英雄談という権力の道具として使われたものでした。もちろんその頃と言えども人の心は感じていたのでしょうが、それを言葉にする術がなかったのです。心を言葉にするというのは、心が感じたことを言葉にするのですから、心を自分を持ち客観視できるようにならないと生まれないものです。単に主観的に感じているだけでは思いつきに止まってしまうものです。そこに止まってしまえば他の人が読んでも面白くないものです。心の客観化というのが心を詩で読むというためには必要なプロセスだったのです。自分という意識が生まれたのです。
感じる心、豊かな心というのは、知性的な面と同時に主観的・衝動的でもあるわけです。特に抒情詩というのは特別で、主観的に感じるものを知的に変換でる魔力、錬金術から生まれた言葉の集まりなのです。
物質的に証明できる世界に留まっている物質主機と、霊的な超感覚的な世界に惹かれるスピリチュアルなエソテリックとは対立するものです。世界観的にどちらかという選択が迫られるのですが、心はその間にあって両者の橋渡しをする役を担っているものです。人間は心を深めてゆくことで、物質の世界と霊的な世界とを深く理解する様になり、両者を結ぶことができるようになるだと思うのです。
心とは、心なんてと言って吐き捨てられる様なものではなく、心を持つことで人間は人間らしく生きて行ける様な気がします。
心が病むことが人間にとって最大の不幸だと考えているので、自分の心を信じることから、繊細に感じる心が育ってゆく様に思います。
2026年4月5日
神さまが全能と聞くと、「これは大変だ」と思うのです。
神様を能力で測るなんてできるのかって思うからです。できるとすれば人間の傲慢でしかないと思うのです。
私のイメージの中の神様は全能どころかむしろ無力な存在です。
何かができるとかできないとかいう考え方そのものがそもそも神離れしていると見ていいものです。
もし「俺はなんでもできる」なんて豪語する人が目の前に現れたら、私は呆れてものも言えなく呆然としているはずです。どこからそんなことを思いつくのかがわからないからです。権力欲の様なものも感じてしまいます。呆然とした後きっとがっかりがやって来ると思います。能力や権力を誇示するなんて私にはどう見ても悪魔的だからです。そんなものを誇示するのは悪魔の所業の一つに過ぎないと思っているからです。
私が「本当に神様は全能なのですか」と聞くと大抵の人は答えに困っています。キリスト教の社会では子供の頃からむそのように教えられている一方で、成人した人なら全能という言葉の持つ意味をあらためて考え直してしまうからです。
宗教は教祖がいて教義があって救いがないと成立しないと言われています。仮にある宗教が「うちの教祖様は無力です」と言ったら信者が集まらないでしょう。やはり宗教という立場からすると、特に現生利益を売りにする宗教でであれば全能というのは最大のキャッチフレーズなのかもしれません。
どの様な理由で私が神様が無力な存在に見えるのかというと、能力主義とか権力主義とか驕りや傲慢といったものを全て手放している存在に見えるからです。神様という存在はそういうものからは測ることができない存在だと思っているからです。神様ってなんの役にも立たない存在なのかもしれません。私にとってはそれでいいのです。それが一番神様らしいというのか、神の証の様に感じています。
「困った時の神頼み」のようなことは私もやっています。その困った気持ちをどこかに向けないと治らないからで、その時には気持ちを神様に向けて心を落ち着かせます。でも見返りは何も期待していないのです。神様がそのために何かをしてくれるとは思っていないと思います。
少し解釈を変えて、全能を「全ての能力超えた存在」とするのなら、「そうです、神は全能です」と言えます。不思議とそれは私が無力と感じているものに限りなく近いからです。神様というのは能力や権力で勝負してはこないのです。無力な神様は私たちにも無力になりなさいと言っているのかもしれません。そうしたら私たちも全能になれるのかもしれません。