2023年3月31日
子どもが嘘をつき始めると、良くも悪くも成長を感じます。我が子も大人の仲間入りをしたという感じでもあり、むしろ微笑ましいものです。
子どもの嘘は、子どもが小さければ小さいほど悪意が感じられないため無邪気で可愛いもので、大人の嘘のもつ暴力的なものとは一味違います。
その違いを考えてみようと思います。
大人の嘘は目的ではなく手段なのです。嘘をつくことで目的を手に入れるので、嘘そのものよりも目的が先にあってそのための手段に嘘が使われると見ています。そこでの嘘の典型的なのは詐欺です。今社会を騒がせているオレオレ詐欺は嘘が目的ではなく、その先のお金が目的です。
子どもの嘘は、嘘をつくことが目的ですから嘘がつけたら仕事は完了します。嘘が目的であるうちは、嘘は人を傷つけるものではなく、笑い話の一興に過ぎないのです。
それでもなぜ嘘があるのかという疑問が残ります。
人間社会は嘘を公認している向きも感じられます。どうしてもそう言いたくなるのです。今日の社会を作っている基本には嘘が前提されている様にも感じます。そもそも組織というものが嘘に近いものに見えてきます。ということは私たちは、いつからかわかりませんが、嘘の渦の中に巻き込まれてしまった様なのです。
しかし嘘には、子どもの嘘のような手段でない無邪気なものもあります。嘘から出た誠という言い方もありますし、嘘も方便とも言います。これらは全て善意の嘘です。嘘という魔法をトランプ遊びのジョーカーのように楽しんでいるわけで、この状態のままでいられれば社会は嘘で豊かになるのでしょうが、そうは問屋が卸しません。悪意による嘘になると、そこでの嘘は毒を持ち社会破壊のための格好の道具ということになってしまいます。
心の持ちようで嘘というのは善でも悪でもなく、使い方次第でどちらにも転ぶもののようです。よく似ているのはお金です。お金と嘘は同じような道から人類に生まれたものなのかもしれません。
2023年3月31日
最近のAIの翻訳は目まぐるしく進化していて、翻訳家という職業がAIに乗っっとられるのは時間の問題の様な気がします。
先日友人のお子さんの結婚式に招かれた時に、記念にということで、参列者全員が小さな文章をしたためたのですが、私は日本語で書いてほしいということで、日本語で書きました。すると隣にいた新郎の友人がすぐにスマートフォンでスキャンしてドイツ語に翻訳したのです。
私が知っているコンピューターの翻訳は読んでもわからない様なものでしたから、そんなつもりで出来上がったドイツ語の翻訳を読んで、正直肝っ玉が潰れる思いでした。点数で言うと95点は確実です。ちょっとしたニュワンスだけが言葉足らずなだけで、かつてのコンピューターの翻訳とは比べ物にならない、完璧に近い翻訳に、嬉しかったり悲しかったりでした。
昔は機械が人間のしごとを奪っていったのですが、今は知的な仕事がターゲットになっていて、弁護士、医者がもうしばらくすると人間の手からAIに移行しそうです。
もちろAIが超えられないような能力の持ち主もいますが、そう言う人はほとんど氷山の一角の様なものですから、大部分の人が職を失うことになってしまいます。
最近のAIは小説も書くし、絵も描くし、音楽も作るとし随分な多才ぶりを発揮しています。小説は読んで面白いそうです。絵も上手に描けているしと末恐ろしいことばかりなのですが、基本的には「上手」という点ばかりが強調されているので、ある意味ではしばらくすると飽きてしまうかもしれないとは思っています。
通訳なんてAIで済んでしまうので、そろそろ人間のする仕事ではなくなってしまいます。
一時中断していた普遍人間学の翻訳を最近また始めました。
今までの翻訳を読んでみて、自分のも他の先生方のも、これはそのうちAIがやる様になるものだと思ったことがきっかけで、奮起して、「行間から読み解く翻訳」が必要な気がしたので、「行間から読み解く普遍人間学」と題して作業を始めました。
私にはこの方がずつとらくで、今までのような逐語訳では、ドイツと日本の文化の違いを無視しなければならず、苦しかったのですが、言葉ではない行間なので言葉尻に囚われないで済むので、伸び伸びと翻訳できて、「読める日本語」にいくらか近づける様な気がしています。そしてこれは絶対にAIができない翻訳技術だと自負しています。
2023年3月4日
詩に使われる言葉は日常の言葉といくぶん違い、耳慣れないものです。
日常生活で意味が通じないということはないのですが、何かが違います。生活感を伴わないといって仕舞えばそうなのですが、私にはそのずれがたまらなく面白いのです。
雨戸を開けたら深い霧で外が見ないような時に「霞ふかし」などという人がいたらどうでしょうか。何かずれていると周囲は思うはずです。「霧ふかし」は詩を詠む時にしか使われない、詩特有の言い回しと決められてしまっているからです。言い方を変えれば奥ゆかしい響きを持っていますが、日常空間からは幾分かは切り離されてしまいます。
言葉には日常語で使われる言葉と、日常的でない言葉があるということです。もっと言うと用を足す言葉と、存在を満たす言葉と言ってもいいのかもしれません。
日常生活に追われる現代社会では日常語がどうしても主体となるので、詩の言葉のような用を足す言葉は使われなくなりますから、詩の言葉はますます耳慣れない言葉ということになってしまいます。
しかし詩の言葉は、魂が必要としている力を宿しています。古くは言霊と言っていたものです。今日的には言葉のエネルギー、パワーでしょうか。
例えば食べ物が栄養学的に計算されて、生きるに十分なものだけを食べたらどういう食生活になるかを考えてみてください。食事というのは栄養だけからでは割り出せないように、言語生活も用を足すだけの言葉だけを並べてしゃべっていたのでは、魂的に栄養失調になってしまうに違いありません。
余談ですが自転車に乗っているときにぶつぶつと独り言をいっている人がいるとします。周囲はその人を病気ではないかという見方をします。しかしもし、その人が歌いながら自転車に乗っていたとしたら誰も不信感を抱かないはずです。なぜなのでしょうか。言葉でぶつぶつ独り言を言うというのは自分の世界に閉じこもっているのに対し、歌は自分を超えたものと関わっているからだと私は考えています。歌っている時、人間は自分を超えて、自分以上のものと共にあるのです。そして歌うときの言葉は大抵は詩の言葉に近いものです。
定型詩から自由詩になって、歌の歌詞が日常語を使うようになった気がします。特に最近の歌の歌詞は日常的な言葉が主流になっているようです。かつての島崎藤村の「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄する ヤシの実一つ」などは今日では時代遅れと感じられるのでしょうが、定型詩には詩的な言い回しがあり、更に行間を感じことを鑑みると、定型詩の言葉は日常語では言い尽くせない深みがあるように感じます。日常語からは意味を重んじるあまり行間を読むという習慣がなくなってしまったのです。