2025年8月13日
ドイツの諺に「音楽の命は音」「Ton macht Musik」というのがあります。音楽に限って使われるのではなく、日常の会話の中でよく耳にするものでろをよく知っているわけです。す。その時は「話す時に大事なのは言い方であって」と言う感じで使われます。言い方と言うところがミソです。人と話をしていると、大袈裟に言う人もいれば、ほらを吹く人もいます。内容だけを聞いていると騙されてしまうものです。詐欺師はここのところをよく知っているのです。言い方、声の調子などを聞き分けられれば、中身が本当かどうかはすぐに見えてきます。また政治的なプロパガンダは見事に嘘八百の声高な叫びですから、言い方からすると騒音のようなものです。ゴミという人もいます。
物静かに、落ち着いて話す人の話はつい聞いてしまうものです。「語るなら静かにか語れ」は私がいつも心していることですが、これが一番利き手に伝わっているようです。
もちろん音楽も音で決まります。演奏会などては初めの音を聞けばその日の音楽会がどういうものかわかってしまいます。落ち着いたしっとりした音はいつまでも聞いていたい豊かな音です。小さな音がいいと言っているのではないのです。小さな音なのに気に触る音というのがあります。小さくて退屈なのもあります。逆に大きな音なのに心に響く音というのもあります。音量の問題ではないのです。演奏者の意識の問題です。
ちなみにライアーの音は小さな音と認識されていますが、私の音は、実は大きな音なのです。ただ大きくは聞こえないだけです。歌の伴奏を頼まれた時に、仲さんの音はよく聞こえるので歌いやすいです、と毎回言われます。他の人はどうなのですかと聞くと、ほとんど聞こえないので困っています、と言う返事が返ってきます。ライアーは優しく弾くものという先入観があるようですが、間違っています。優しく弾いたら貧弱になるだけです。退屈な音楽になってしまうのです。優しく弾いて聞き手を納得できるような楽器を私は知りません。全身全霊で、思いを込めて堂々と弾かないと聞き手に伝わらないものです。ピアニッシモも堂々と弾くものなのです。
ここまでは一般的な話でもあるので、楽器をやらない人にも伝わる話だと思います。ところが実際に楽器に触れると、弾くという言葉の意味のレベルが変わります。深くなるのです。どう言うことかという、むやみやたらに弾いてはダメだという話になるのです。「弾かないで弾く」という妙技が登場するのです。実際に相当の離れ業ですから、一朝一夕に習得できるものではなく、まずはとにかくがむしゃらに弾き込むことから始まります。しかし音というのは弾いてもいい音にならないのです。この事に気づく時が来るのですが、ここで「弾かないで弾く」という流れに入れるかどうかの分かれ道が現れます。どのように入って行けるのかというと、一般論的には答えられないものです。演奏者一人ひとりが見つけるしかないものなのです。しかし目指すところは「弾かないで弾く」なので、目標としては共通なのですが、方法論的なものはいくつもあるので、個人に委ねられるものなのです。
音楽性、簡単にいうと才能の話になります。普通の人は作品を上手に弾くところまでて終わってしまいます。それだけでも大したものなのですが、その先があるのです。その次が「弾かないで弾く」という段階です。誰にも開かれているものではないのです。百メートル競争を例に取ると、九秒台で走るには才能が必要です。何年も練習すればそれなりに早くなるでしょうが、その人の持つ能力の限界があって、そこで終わりです。九秒台で走るには能力が備わっていないとダメなのです。音楽の場合もそれと同じで、才能に恵まれてないと、「弾かないで弾く」というレベルには到達しないのです。演奏の奥義です。
才能の一つは音をどう聞き分けられるのかということになります。物理的には、才能のあると人もそうでない人も同じように聞こえているのですが、音楽の音には物理的な音以上のものが備わっています。作曲者と演奏者の命です。ここからは音を聞くというスタンスではなく、音が何を言おうとしているのか、音の語るところを聞くというスタンスに変わります。楽譜の音を楽器で再現するだけのところから、音がどのように演奏してほしがっているかを聞き分けないと成り立たない世界に入ってゆきます。音と対話するのです。練習して弾けるようになった音と、音の深いところを聞き分けて奏でられた音では、音の深みが違うのです。聞く人が聞けばすぐに分かるものなのです。弾かないで弾かれている音は、研磨された宝石の石のような音で、弾かないで弾くことによって飲み作られる音なのです。練習から生まれた音はまだ原石のようなものです。原石から宝石になるまでは実に長い道のりです。人の命は短くて、芸の道は長しということです。
2025年8月11日
死んだ後自分と他人は逆転する、つまり「死後、自分と自分以外とはまるっきり逆転する」という言葉を読んだ時、死後の世界というものを初めて垣間見たような気がしました。
誰一人として嘘をつかないで人生を終える人などはいません。その嘘というのは、生前は自分から他人に対してつくものです。これが死後どうなるのかということだったのですが、そこで読んだことによると、自分がついた嘘が自分に向かって帰ってくるのだというのです。誰かが自分に向かって、自分がついたと同じ嘘をつくのだというのです。まるで手袋や靴下をひっくり返したようなもので、表だったサイドが裏側になり、裏だったサイドが表になるということです。
昨今は死後や前世というものが色々と言われていますが、私には何だか信じ難いものばかりで、そのまま鵜呑みに出るようなものではなかったのですが、この「自分と周囲が逆転する」という記述を読んでからは、今生ていることと死んだ後はどうなるのかを思考の対象にできるようになったのです。それまでは死後も生前のままの意識で生きてゆくように言われていたので、それでは死の意味がよくわからないと感じていたのですが、「自分と外が逆転する」という考え方に触れて初めて死の意味がわかったような気がしたのです。同時に今生きていることの意味が見えてきたのです。
このことを語る人が少ないのは何故なのでしょう。宗教家やスピリチュアル系の人たちは死後も同じ意識がそのまま続くようなお話しをなさるのがほとんとです。臨死体験も生前の意識がそのまま死後の状態を生き続け、そこで見たものを携えてもう一度体に戻ってきたときに報告しています。また前世の記憶のようなものがあると言われるときにも、生前と今生きている意識のあり方には違いを感じないのです。
誕生することと死ぬということとは人生の流れの中で大きな区切りです。何かそこで決定的なことなのかと考えることで初めて、今、この体て、この環境を生きているということにワクワクするのです。生きているということにますます魅力を感じるのです。
自分としてこの人生をどのように生きてきたのかは、生存中の自分ではわからないものだと考えています。よく自叙伝のようなものを目にしますが、自分で自分の生きた人生を説明したり解釈したりしているのですが、読んでいて鳥肌が立つようなことがあります。空々しいからです。他人が書いた伝記のようなものも、書き手の解釈によって色々と異なりますから、人生というのはなかなか深い謎のようなものだと思っています。
この人生を自分としてどのように生きたのかが、死後周囲から自分に向かってくるさまざまなものを通じで知ることになるのです。きっとそこでは反省のような感触が生まれているのではないかと想像しています。死ぬ前に生きていた自分がどんな人間だったのかそこで初めて見えてくるのではなのでしょうか。そうしたら人様に読んでいただけるような自叙伝が書けるかもしれません。
2025年8月2日
日本人としてドイツに生きていると、この問題、東洋と西洋は政治的、文化的という以上に日常レベルのもので、犬も歩けば棒に当たるようなものですから四六時中形を変え見え隠れしています。極論すれは二人の人間の間にいつも問題があるようなものです。歩み寄りによる解決があるだけで、綺麗に割り切れるような整理された解決というのはなく、ある意味永遠に謎として君臨している課題だといえます。
歩み寄りといえば聞こえはいいですが、簡単なことではないので、多くの場合綺麗事で終わってしまうことの方が多いかもしれません。お互いに敬う姿勢、信頼感情がないところでは、弱者と強者という関係が生まれ、それが権力となって力任せが横行してしまうものです。戦争というものが未だに絶えることがないのはそういうことと関係しているのかもしれません。
この点に関しては、理解を過信してしまうところが一番の問題です。相手を理解したというのは、実は過信で相手を自分の範囲の中で解釈したわけで、コメントに過ぎないのですから、歩み寄りとは似ても似つかないものです。歩み寄るには相手を敬い信頼しないと始まりません。敬うというといささか大袈裟になってしまうので、相手を好きになるか、相手を羨むとかいう信頼感情が大切になってきます。理解するというのは、ある意味整理するということですから突き詰めると知的な作業で、そこには相手との距離が生まれてしまい、その距離感が障害になってしまうのです。その障害を取り除かなければならないのです。取り除くためには感情的な力が働かないと難しいようです。今の時代は人間があまりに知性を過信していますし、知的に整理する能力が発達してしまったが故に、相手との距離を縮めることができなくなってしまったのではないのでしょうか。
17世紀、18世紀に西洋に起こった主知主義と呼ばれる、知的であることが最上であるという考えが未だに尾を引いているのではないかとも思います。そこから抜け出せないだけでなく、さらに追い討ちをかけるように、現代はコンピューター、AIという道具まで発見して、主知主義を徹底させようとしているようにしか見えないのです。
ただ私にはこうした現象が主知主義の末期症状として映るのです。知性というのは現時点である種の飽和状態になっていて、もうしばらくすると解体してしまうのではないかとすら思ってしまうのです。人間が個性尊重とか、個人主義とか、自我とか、自己主張と言って自己中心になってしまい、人間同士お互いに距離を置くようになり、孤立してしまい、最後は孤独になり鬱病にかかってしまったように、知性は最後は価値の崩壊を招くことで物事が判断できなくなって混沌とした社会を作ってしまうのではないか、そんな気がするのです。もしかすると今すでに混沌の前兆が見えているのかもしれません。世界情勢を見ると何をどう判断したらいいのか、誰にもわからなくなってきています。これは政治的テクニックで解決できるものではなく、人間の根本に関わる問題で、知性中心から敬いと信頼を持った感性へという流れが生まれないと解決できないものだと思っています。
東洋と西洋は、知性が活躍した時代は分かり合えないという言い方がされましたが、将来感性が台頭してくることで、今までとは違う関係が作られることを祈っています。
ゴッホというオランダの画家が日本の浮世を初めて見たときのことを思うと、ただ感動したとか、影響を受けたという次元の話ではなく、浮世絵と一つになってしまったと言えるほどの感銘を受けた姿が彷彿としてきます。浮世絵を理解したのではないのです。それは学者、評論家の仕事です。彼は「俺を北斎と呼べ」というくらい、浮世絵と一つになってしまったのです。幼い子どもが周囲の世界と一つになることで初めて世界を学べるようなものです。それは模倣と言われていますが、模倣の根底にあるものは信頼です。今目の前にある世界への信頼です。今目の前にある世界と一つになりたいという意志が働いているのです。その意志と信頼感情とは切り離せないものなのかもしれません。