AIの声と命のある声

2026年10月17日

声のことを色々と考えていて、いつも気になるのがコンピューターが作る人工の声です。どうしても耳を傾ける事ができない不思議な、というより不愉快な声なのです。最近はYouTubeでずいぶんAIが作ったお話が目立つ様になって、勝手に画面に出てくるので正直迷惑しています。意図されているところがわざとらしく、取ってつけた様な話で深く心に響かないのです。なんでもないような日常の話の方がかえって心に残ったりするのとは真逆で、大袈裟な仕掛けを作り出して、ドラマチックな逆転劇を展開するのですが、つまらないことにこだわっている様に思えて、辟易しています。しかもそこでの日本語の間違いが低レベルでおかしいのにも苛立つのです。しかしもっとそこから逃げ出したくさせるのが、それを説明している声です。人工的に合成されたもので、声というよりも声に似せて作られた合成音です。そこからは何も感じないのです。
昔の話ですが、エレベーターにコンピュータで作った声が登場した時に、なんとも聞きにくいものだと思ったものですが、それからすると、一見人間の声らしくなっているので、技術の進化があったのでしよう。しかしその人工的な声がどんなに進化しても人間の声と同じになることはないのは当然です。
結論だけをいうと、人間の声というのは人工的に音から作られた声とは決定的に違うものだからです。全く違うのです。何が違うのかというと、人工の声、あるいは機械音というのはボリュームという基準で測れるものなのに、人間の声は音として測定するだけではないものがそこに生きているからです。何が生きているのかというと、私は生命力だと思っています。
生命力なんて見えもしないし、触ることもできないものなので眉唾物だと考える人もいると思います。物質ではないので説明のしようがないわけです。機械音ではないのですから、どんなに性能の良い音を作り出す機会が発明されても、物理的な音な測定できる音を出している限り、声の中の生命力に至ることはできないのです。しかし測れないのに人間はそれを聞いているのですから不思議です。
基本的にはどんな声にもその生命力は生きて働いているのですが、個人差があるもので、ほとんど生命力とは関係ない声の持ち主もいます。それを判断するのは難しいです。なぜなら主観的な判断だと言われてしまうからです。しかし聞きにくい声、長く聞いていられない声というのは確実にあります。それはそれがただ物質的な音とに覆われてしまったどちらかというと機会的な声だからなのです。命の乏しい声と言っても良いかもしれません。
声には命があるということは今の時代になって馬鹿馬鹿しい話に置き換えらられてしまいましたが、人類はもともと知っていたことなのです。声の力を知っていた時には、人間たちはペチャクチャと話をすることはなかったのです。声以前にテレパシーのようなものの中に意味内容も感じ取っていたからです。今日の説明の時代の感性からは考えられない、無口な時代の話です。
今まで何度かお話ししたことなので、繰り返しになりますが、アメリカのジャーナリストがオーストラリアの原住民のアポリジニの部落で取材した時の体験談を読むと、彼らがあまりに喋らなすぎるので、「なぜ喋らないのか」と聞いたら、「喋らなくてもわかるからだ」という返事が返ってきたと書いてあります。では「なぜ声があるのか」と聞くと、「祈るためと歌うためだ」といういう答えが帰ってきたそうです。
声の役割が違っていたと言ったら良いのか、彼らは声本来の力を知っているので声を無駄遣いしないで、祈りと歌ということに限って使っていることに深く共鳴します。
最近のAIストーリーは教訓話というのか説教じみたものがほとんどの様ですが、私が感じるのはそこにモラル、倫理の核心が欠けていることです。倫理というのはとても難しいもので、説教したり教訓話をしたからと言って伝わるものではないのです。倫理は下手に言葉にしたら消えてしまうものでもあります。その繊細さゆえに、正直にいうと人類はまだ倫理がなんなのかを見つけていないようなのです。
私たちの未来がどうなるのかと色々に言われていますが、人間がモラル、倫理を見つける事ができれば、人類はまだまだ生き延びて進化して行くに違いありません。そういう意味で今は瀬戸際に立っているとも言えます。

母親からの贈り物

2026年10月15日

タイトルのようなな言い方をすると、最近はすぐにめくじらを立てる人が多くて、会話が進まないことがあります。昔はお母さんが我が子のセーターを編んだり、ゴムの簡単なスボンなどを作って着せていたものでした。しかも私が小さい頃は日本はまだ貧しかったので、お母さんのミシンで継ぎはぎされたスボンは当たり前でした。ところが高度成長という時代の流れの中で様子が変わって行きました。基本的にはだんだん作らなくなっていったということです。洋服の生地を買って型紙を取ってミシンをかけて作るより買った方が安いし時間が取られずに済むという現実も大きく影響していたと思います。子どももだんだん贅沢になって、お母さんが作ってくれたものよりも、見栄え良く綺麗に仕上がっているズボンの方を喜ぶ様になっていきました。

ドイツに限らず、シュタイナー教育の中にいると物作りが大きなテーマです。しかもドイツという国はそもそもはものつくりを大切にしてきた国で、マイスター制度は今でも残っているのですが、ユーローという共同体組織によってドイツだけのマイスター制度を維持することの意味が薄れつつあります。しかもここに来て産業界に何万という単位の失業者を生み出してしまい、産業(大きな意味での物作り)の勢いに翳りが見えてきて、若い人たちが職業訓練を受ける場所すら失われつつあるのが現実で、物作りの精神を誇りに思いつつ、安いものが売れるという経済の仕組みの波に飲み込まれてしまっています。

物作りは衰退の一途を辿っています。逆にものを作らなくなった時代だからこそ、少なくとも教育の場でものを作ることの意味を教えることは大切になってきているのではないかと思っています。
特に私に取っての大きな問題は、理解とか認識ということで、そのことを考えるとき、対象になっている物や人とどの様に向き合うかは、物作りに大きく依存しているものだと考えています。頭だけの理解で片付けられるものではないのです。向き合っているものと深く出会うにはそのものの中に入って行く事が大きな助けになるものです。そこにものの意味が隠れているからです。ものと一つになるという体験から、物事に深く入り込み理解力が深まります。ただ知識だけで理解しているのとは雲泥の差があるのです。また一日だけの体験学習というよなものではなく、長い時間をかけてコツコツとものを作って行くことで初めてわかるものがあるのです。想像力というのはそこで培われるものの様です。

神話の世界を見ると、神様が人間を作る話があったり、国造りが行われたりと、人類の原点には「つくる」ことだと言わんばかりです。未来を考えると、作ることはロボットに任せておけばいいと考えるのか、人間はものを作ることが本来の姿たど物作りを大切にするのか、その辺は一度立ち止まって考えてみたいところです。
合理的というのは現代社会のお題目です。便利ということもそれを支えています。何もかもがどんどん便利になってゆくのが私が子どもの頃に感じたことでした。その頃は洗濯機、冷蔵庫そしてテレビが便利の三種の神器でした。今は便利がますます助長している様に感じるのですが、この先さらに便利になったら一体全体どんな社会になるのでしょうか。ロボットたちが生産に勤しみ、そこで生み出されるお金で人間はベイシックカムと言うシステムにより、生活費が配給されて、何もしないで、本を読んだり、テレビを見たり散歩に出かけたりということで済む様になるのでしょうか。それがいい人生だと言えるのでしょうか。
実は便利には危険な落とし穴が隠れています。便利とともに人間の中には退化してゆくものがあるからです。退化したものは人間から離れて行き、戻ってくることはないのです。

AIは怖くない

2026年10月13日

AIが進んだと自負する国などは、AIが生身の先生に代わって授業することが進歩の証と考えている向きもある様です。その国の人たちは、人間がやっていることのどれだけがAIに移行しているかで、国の優劣を決めていたりするのです。私にはとんでもないことです。ところがそこに警鐘を鳴らし、コンピューターの過剰な教育界への進出に歯止めをかけている国もあります。

AIが必要とされるところは、基本的には合理化という考えが主流になっているところです。
人間は、特にホモサピエンスの人種は便利さという幻想を追い求めてきました。そのために多種多様な機械が発明されたわけですが、コンピュータもその一つであるには違いないのです。ところが、今までの機械は肉体的な負担を軽減するということでしたが、AIまで来たところで、肉体というよりは知的活動に合理化の波が入り込んできて、まず記憶の分野でAIは大活躍をしています。場合によっては津波状態で、想像を絶する膨大な記憶がAIに取り込まれて、今までの経験からの知識が集大成されていて、何にでも答えてくれるという便利な世の中になったと考える人もいます。確かに便利は便利です。
最近は絵を描いたり、音楽を作ったり、文章を書いてお話を作ったりする様になったため、そうした作品が世の中に出回っています。作曲などはこちらから希望を入力すると、十秒足らずで作品が出来上がってくるそうです。

AI依存度などいうことが言えるのかどうかわかりませんが、おそらく数字では示しにくいものだと思うので、わかりませんが、想像するに意外と低いのではないかという気がします。進んでいるところは進んでいるのでしょうが、私が理由として挙げたいのは、日本はまだ職人の技が評価されているからで、AIにとって一番高いハードルが人間が手を使ってやっていることをロボットに移行させることだからです。しかしそれも時間の問題に過ぎないのかもしれません。それを考えると、社会に蔓延している、AIが人間を超える日が来るといった恐怖感も理解できます。

人間の進化の過程は、さまざまな能力を外に排出してきたとシュタイナーは考えています。したがって、今人間の中に残っている能力はわずかで、最後の砦だった知的能力が今脅かされて、コンピューターに全てを持って行かれてしまうのではないかと危惧しているわけですが、最後は合理的なものを全部吐き出してしまい、人間の中には非合理的なものだけが残るのではないかとも考えられます。

世界中が、走れ走れとジョキングが大流行りで、ドイツのメディアでも日本を取り上げて、皇居の周りを走る人たちの姿を報告しています。当のドイツでも、ご自慢のドイツの森はジョキングをする人たちで溢れています。しかしいつの日かAIが走れ走れとジョキングを始めるかというと、そんなことはないのです。ジョキングは本当の意味で、人間の最後の砦と言える貴重なものなのです。
一日中コンピューターのディスプレイと睨めっこをして、退社後家に帰り夕食前に一走りという感じで車で近くの森に行き、スタートします。大抵小一時間は走っている様です。二十年くらい前からジョキング族が目立ち始めた様な気がします。ジョキングの流行が始まった当時はまだ自分の健康管理の意識の高い人たちがジョキングをしていたのですが、今は猫も杓子もという感じで、国民総ジョキング化といった勢いです。その裏にあるのは国民総コンピューター化があります。
AIというのを、人間はAIを作ったことで、さらに「人間的な、あまりに人間的なところ」が浮き彫りになったと考えてはどうでしょうか。AIが先生になるのではなく、生身の先生と一緒に、AIにできないことは何かを考えるというのはいかがなものでしょう。
恐ろしいのはAIではなく、人間が合理化に走り過ぎてしまったことが恐ろしいのです。