シンガーソングライターとしてのシューベルト

2024年9月7日

シューベルトの死後に書かれた友人の手紙の中に、シューベルティアーデと言うシューベルトを中心にした友人たちによるプライベートな音楽会の初期に、シューベルト自身で彼が作曲した曲を自分自身でピアノを伴奏し歌っていたということが記されています。その後、シューベルトの歌がだんだんと世の中に認められるようになり、ウィーンのオペラ劇場で歌っていた歌手までが、シューベルトの歌を歌いにシューベルティアーデを訪れるようになったのですが、その手紙の中では上手な人はたくさんいたけれども、シューベルトが歌ったシューベルトの歌が一番美しかったと懐かしがっているのです。

初めてその手紙を読んだときには、そうだったのか位にしか感じなかったのですが、何十年もシューベルトの歌を聴きながら、私もできることならシューベルトが歌う自身の歌を聞きたかったと、だんだんと思うようになったのです。

シューベルトはこうしてみると、時代の先端を行ったシンガーソングライターと位置づけることができるのかもしれません。シューベルトは今で言うウィーン少年合唱団にいたので、歌の訓練なども受けていたのでしょう。きっと彼の歌にふさわしい声で彼の歌を彼が感じたように歌ったのだと思います。これがシューベルトのオリジナルと言っていいのかもしれません。

今日でもオリジナルではなく、カバーと言う言い方で、他の人が他の人の持ち歌を歌うことがよくあります。ビートルズのイエスタデイなどは何人ぐらいの人に歌われているのかわからないほどです。エディット・ピアフの愛の讃歌も同じで、たくさんの人がしかもそれぞれの言葉に訳して歌っています。私の知り合いでフランク・シナトラのファンと言う人がいて、フランク・シナトラの歌を聴きにアメリカまで行った位の人で、その人のもとで彼が持っていたレコードでフランク・シナトラが歌うMy Wesを聞いたことがあります。この歌も前の2つの曲ぐらいたくさんのカバーがあるようですが、初めてフランク・シナトラが歌うMy Wayを聞いたときにはなんだか本物は違うと言う印象が、何の迷いもなく私を襲ってきました。淡々と歌ってるんです。サビと言ったらいいのか途中から盛り上がるところがあるんですが、そこも特にドラマチックに盛り上げるのではなく、しんみりと盛り上げている感じでした。カバーで聞くと、そこのところは大体はドラマチックな盛り上がりを強調しているようなところがあって、それしか知らなかった時は、そういう曲なのだと思っていましたが、フランクシナトラのオリジナルを聞いて深く納得したのでした。

こうした経験からシューベルトの歌う歌というのを考えてみると、無性に聞きたくなってきます。今日に至るまで、何百と言う歌い手によって、シューベルトの歌は歌われてきたわけですが、それらをカバーと言う概念に当てはめてみれば、シューベルトのカバーをしていると言うことになるのでしょうか。

今日のクラシック音楽では既に100年100年300年といった年月を隔てて作られた曲が演奏されるわけですが、こうした形が生まれたのは、メンデルスゾーンが、バッハの教会音楽を演奏したところから始まるのだと言われています。それまでは作曲家が自分で指揮をしたりしたものが、演奏会で上演されたわけです。シンガーソングライターでは無いですが、作曲家自身が自分で作った曲を演奏したと言って良いのだと思います。それが今日ではいろいろな人がいろいろな解釈と言う名のもとに演奏したり歌ったりしているわけですが、オリジナルにはきっとオリジナルにしかないなんか特別な使命のようなものがあったような気がします。ジャズの世界でも、最近はずいぶんオリジナルをカバーしたようなもの、しかもそれをなるたけ正確にカバーしたものが演奏されているのだと言うことを聞きます。

カバーと言うのは見方を変えれば、その音楽のもっている別の可能性を引き出しているともいえます。ですから一概にカバーは良くないと言う言い方で切り捨てることができないのでしょう。加パーの方が上手だと言うこともあるかもしれません。とは言え、オリジナルと言うのはそれなりの使命とエネルギーを持っていると思うのです。それに接することができると言うのは、音楽を楽しむ人間にとっては大変な楽しみでもあるわけです。

クラシック音楽のように再生音楽と言う形をとっているものが今後どうなっていくのか私にはわかりませんが、ただ一つ予感できるのは、そうした音楽がだんだんと記号化していってしまうのではないかと言うことです。YouTubeには、1人の人間が一生かけても聞けないほどの曲が待機していると言うことですから、もう今の時点で音楽が記号化してしまったと言っても良いのかもしれません。

昔、能楽に関する本を読んでいた時に知ったことです。お能で上演される演目の相当数が世阿弥・観阿弥によって作られたものだと言われています。室町時代ですから、もう500年以上前と言うことになります。500年の間同じ演目がずっと上演されてきたわけで、それだけ聞くと、もうとっくにマンネリ化してしまって、伝統という名の下に醗酵してしまって、つまらないものだと言う言い方もできるのでしょう。ところが、その本の中では、お能はリハーサルの様なものがなく、本番の舞台で4人の囃し手、そして譜いの人たち、仕手までもがぶつかるのだそうです。それは即興と言うことになると書いてありました。500年間、毎回上演のたびに即興をしていたんだ、毎回アドリブと言って良いものだったのだと感動してしまいました。こういったことが日本だけで起こっているのかはわかりませんが、何かとても新鮮なような恐ろしいことのような気がします。

クラシック音楽は楽譜が残っていると言うところが強みと言う言い方もできるのでしょうが、楽譜によって伝えられたものと言うのは、オリジナルから相当離れてしまうと言うことも言われています。マンツーマンで指導を受けて、1000年と言う歴史の中を生きてきた日本の雅楽は直接指導を受けたと言う利点があって、もちろん想像でしかないのですが、おそらく1000年前とそんなに変わっていないのではないかと言われています。オリジナルに忠実なのでしょうか。

これを機会に、カバーでもなく、真似でもない、オリジナルというものの持つ意味を考え直してみたいと思います。

螺旋的思考法

2024年9月6日

私たちの時代は、物事を直線的に考えて解決に向かうのではなく、どちらかと言えば螺旋的な動きを取りながら考え、結論に導いていくと言うことだと思います。そこにはっきりとした解決があるのか、どうかすらわからないこともあります。急がば回れと言うのに似ていますが、少し違うようです。

螺旋の特徴は、基本的には円周運動と言って良いもので、ぐるぐると回っているわけで向かっている方向は瞬時に変化します。それが螺旋運動の特徴で直線的な思考法とは全く別の動きをとっているんです。直線の場合は正面に向かってまっしぐらに進めば良いわけで、少しずれてしまったり、脱線したりしたら一大事で、それこそ解決にたどり着かないわけです。ところが螺旋的な思考と言うのは常に方向が変化してしまうと言う不思議な傾向を持っているので、目的を定めるのが非常に難しくなります。今自分がいるところが自分のいるところと言うことをしっかり把握していなければなりません。そこから少しまた前進すれば進行方向が変わってしまい、見える景色も全く別のものになってしまい、当然先ほどまで目的となっていたものが今度は予想しなかったようなものが目的になったりします。こうして瞬時動いて方向を変えながら前に進んでいくと言うのは直線的思考に慣れた人にとっては難しいことだと思います。

直線的思考の場合は、出発点から目的までどのくらい自分が進んだかよく見えるし、今いるところから目的までどのくらいあるかというのも予測できます。しかし螺旋的に動いているときには、確かに自分が動いた距離と言うのは図ることができるのですが、方向と言うことに関して言えば、直線とは全く別で、瞬時に変化すると言うことが起こり、そのことを理解しなければなりません。

なぜ螺旋的に考えなければいけないのかと言うと、社会の動きそのものが現代は直線ではなく螺旋と言う形をとっているからではないでしょうか。その社会の理解するためには、自らも螺旋的な思考と言う今までの直線型と違った考えにならなければならないのです。

一つ例をとってお話ししましょう。

パターン的思考というのがあります。これなどは直線的思考の変形だと思っています。すべてをパターン化してしまうと結論と言うのはよく見えるて来るわけですが、社会がパターン化している中ではうまく機能するでしょうが、今日のように螺旋的になってしまった、ある意味複雑な社会ではうまく機能しないことになります。私がよく取り上げている倫理の問題なども、今日的には螺旋的と捉えるのがふさわしいわけで、従来のように直線型に倫理を理解しようとすると、倫理の押し付けと言うことが起こってしまいます。

夏目漱石が言う「知に働けば角が立ち」と言うのは、知的にものを理解しようとすると、私の言う直線型になってしまい、至る所に角が生まれてしまうのではないでしょうか。丸く収めると言うのも直線をただ丸くしただけですから螺旋型とは違います。螺旋型は永遠方向を変えて動いていると言うことのような気がします。方向は360度に向かって開かれています。

直線型思考を産んだのは、やはり知性が主力で知性が支配していたことからで、知性よりも、意志の力が中心になってくると、意志というのは直線的出ないため、しかも今の社会に適合しようとすれば、螺旋的になるので、これからの人間の思考の中に意志の力がどうしても必要になってくると思います。

また意志か、倫理かと言われてしまいそうですが、螺旋的に考えているので、直線的に結論を出すのではなく、ある意味では堂々巡りのようにぐるぐる回っているので、その事はお許しいただきたいと思います。

乾いた音湿った音

2024年9月6日

先日友人の誕生日の席に招かれて、そこで何人かの音楽家と話をする機会がありました。そこで久しぶりに、私にとって西洋音楽って何なのですかと聞かれました。ずっと前にはよく聞かれたことで、特に日本人がたくさんヨーロッパに音楽の勉強をしに来ている時などは頻繁に聞かれたものでした。

久しぶりに改めて聞かれて、特に準備をしていなかったので、とっさに答えるしかなかったのですが、その時思いついたのが西洋の音楽全般と言うよりも、西洋の歌声、特にベルカントと言われている声について何か言えそうだったので言葉にしてみました。

私が常々ベルカントの声に感じているのは、この声がとても乾いていると言うことです。乾燥した乾ききった声と言ったらいいのか、大地に雨が降らずにヒビが入っているような感じを時々することもある声なのです。乾いていると言うより干からびていると言った方がいいかもしれません。

私の言葉に、質問をしたとの本人は少し首をかしげ、ベルカントだけですかと聞き返してきました。西洋の歌い手たちの全部が乾いているということでは無いのですが、概ね朗々と歌う、特に男性の歌手の声にはいつも乾いたものを感じていました。どうしてもっとしっとりとした声が出ないのかと言うのが正直言うと私が常々感じていたことで、その時それを言葉にしたのです。もう少しうまい言い方があるのかもしれないと思いつつもいつも感じている乾いたと言う印象をそのままぶつけてみました。乾いてない声って例えばどういう声ですかと聞かれたので、スレイザークとデラーと言う男性の歌い手の声を例に取りました。

しかしよく考えてみると、この渇いていると言う印象は、ベルカントの声に限らず、もしかしたら私がずっと西洋音楽と言われている音楽に感じていたことかもしれません。私はよくシューベルトの音楽を、西洋音楽の中では異端児だと言うふうに表現していますが、シューベルトの音楽は今までに乾いていると感じたことが一度もありません。例えば彼の歌などを見ると、歌のモチーフになっている詩に水をテーマにしたものが相当数あります。そういう意味で彼の音楽は水と関係が深いと言えるのですが、それはただ偶然ではなく、彼の音楽の持っている方向性が水と言うものに近づこうとしているのかもしれません。実にみずみずしい世界が、シューベルトの音楽の中では展開され随所に聞かれます。

私が若い頃、ヨーロッパの音楽を聴きはじめた頃、シューベルトが好きだと言うと、たいていの人は少し見下したように、バッハベートーベン、ブラームスをまず上げ、彼らを「3大B」と言って、彼らの音楽を聞かなければ西洋音楽はわからないと言われたものでした。しかしこの3人は私の耳にはとても乾いた音楽に聞こえます。シューベルト以外に潤いを感じる音楽はというとヘンデルとモーツァルトです。この2人もある程度は潤いと言うものを音楽の中に感じ取っていたのだと思います。ヘンデルはバッハと同じ年に生まれ、しかも相当近いところに生まれ、人生半ばにしてイギリスにわたってイギリスに帰化するのですが、水の国というか島国で水に囲まれているイギリスに、何か大きな運命的なものを感じたのかもしれません。

どこに音楽が乾いている、声が乾いていると言う印象を持つのかと聞かれると、うまく答えられないのですが、ある声楽の人と声について話をしていたときに、声と言うのは、体の中の粘液、リンパ腺のような水の要素をももっと音にしなければダメだと言う言い方をしていたのが今思い返すと、私が感じていることと同じなのかもしれないと言う気がします。

みずみずしい声と言うのは簡単に言うと聞いていて体の中に染み込んでくる声です。乾いた声っていうのは体の外で響いていて、歌唱力で歌っている様に聞こえ、上手だとか下手だとか、そういった評価の対象になりやすいものです。現在の歌い手の中で潤った声を出している人にはまだお目にかかっていません。ある程度潤いのありそうな声と言うのには、出会うことがあっても、しっとりとした声と言うのは、今の時代ではなくなってしまったのかもしれません。

なぜなのか、これは一考に値するものだと思います。