家庭料理礼讃

2025年6月5日

ずいぶん前から講演会では必ずと言っていいくらい、もちろんテーマとうまく流れが追うときにですが、家庭料理の偉大さについて述べてきました。

今日のように外食やグルメ料理が持て囃される中で家庭料理はほとんど顧みられないものになっていますが、私は家庭料理の中で子どもたちは、味覚を育て、さらには食卓を囲んでの食事を通して生きる上でのマナーを学んでいるので、人生の中の基本が食生活を通してなされていることを境地ようしてきました。

特に味覚は特殊なもので、毎日食べ続けることで、家庭の味を通して味覚が育つのです。そうして家庭の味をしっかりと味わいながらその味が体に染み付いているものです。四十過ぎるとお袋の味が懐かしくなると言うのは、子どもの頃に毎日食べた味のことだということです。家庭で食事をすることで、味覚だけでなく、食卓を囲むことで人格の芯の部分までもが育成されていると言うことです。

家庭料理が大切、これはなんとか理解されるようなのですが、家庭の味と料理人の味は違うレベルのもので、グルメは家庭料理とは別格のものと思ってしまいがちですが、偶然にも最近、割烹料理の板前シェフの野崎洋光さんのYouTubeを見つけて、意を強くした思いがしたので、彼の料理哲学のようなものをここに紹介します。野崎洋光さん動画です。家庭の和食という感じです。

野崎さんに感動したのは、彼がいうところの「今はなんでも美味し過ぎる」という観点です。私自身今までは、どうしたら美味しくなるかとばかり考えていましたから、目から鱗でした。「美味しいものはすぐに飽きてしまう」と言うところも新鮮で画期的な言葉です。野崎さんは福島の田舎で育ったということですが、修行のため東京に出てきたときに、東京の味が濃かったのだそうです。旨味を効かせ過ぎていたという感じです。。田舎では取り立ての美味しい野菜を、野菜の味で食べていたから、東京の味がきつかったのだと言っていました。美味し過ぎるのが今の時代の料理だと言い切るところは、まさに盲点をついていて、そこから色々なことを考え始めました。

例えば音楽なども、現代の演奏家達はうま過ぎるのではないか、と前から思っていました。現代は世界の至る所で、数えきれないほど多くのコンクールが行われています。若い人にとっては登竜門として将来の仕事へとつながるわけで、音楽で生計を立ててゆくためには必要なプロセスなのでしょうが、賞を取るかどうかが音楽の良し悪しとしての基準になるとすると、音楽が点数で評価されてしまうような気がしてきて怖いです。芸術といものの本質から外れてしまうのではないかと思うのです。

グルメが意外にも合理的な考え方の副産物なのではないかということに気づかせていただい野崎さんの動画に感謝です。野崎さんの料理への姿勢は、料理はレシピという考え方からも解放され自由になっているように感じました。シュタイナーの口癖の、人智学を料理のレシピのように考えないでくださいという所にも通じているような気がしました。

ますます皆さんに機会を作って家庭料理の大切さを伝えたくなりました。

イソップから芸術へ

2025年6月2日

子どもの頃にイソップの話はたくさん聞かされたように記憶しています。出典は古代ギリシャですから、人類の歴史の中を長く読み継がれてきたものと言えそうです。

それらを大人になってから思い出してみると、意外と教訓がましいところが鼻につき、説教くさい話だと疎うようになりました。

説教的な行為は人間の性と言っていいものなのでしょう、特に大人が子どもに接するときに一番顕著に見られるものです。教え諭すという風潮で、それで世の中がまとまると考えるのでしょう。

しかし説教というのは決していい後味を残さないものです。神職にある人、僧侶、教師、警察官とかいう説教を職務としたものがあります。ところが、尊敬できる神職の人は説教をしない人ですし、尊敬される先生はやはり説教がましくない人で、それどころか子どもの話をよく聞いてくれる人であるし、頼りになる警察官ということになれば、人を見れば犯罪人というところから離れている人です。余談ですが、今あげた職業を親に持った子どもたちというのは、皮肉にもさまざまな教育場面で問題を持つ子どもたちであることが多いのです。

説教的な話とか、教訓話という類のものは、一見倫理的道徳的に見られため、教育的な効果のあるもののように見られがちですが、実は思ったほどの効果が得られないものだと思います。私の経験で言えば説教・教訓話は独特の後味を持っていて、決していい後味とは言えないどこかべっとりしたものが残るものです。決してまた読みたくなるものではなく、かえって「またか」と反発してしまうものです。文学的な世界では教養小説のようなものもどこか説教くさいものがあるものです。文学が芸術であろうとするときには、そうした説教世界から離れるものです。説教せずに人類を導けるのです。説教以外に人を導く力があとということを知って初めて芸術のレベルに至るので、かえって規制の考え方を破壊するものであったりしますから、常識的に考えている人たちからすると危険な考え方、感じ方でもあるのです。芸術というのは既成概念との摩擦から生まれるものでもあるということです。

古来読み継がれている説教話は人を規制の中に収めようとするところがあります。イソップが当時の古代ギリシャの中の奴隷階級の人であったことがイソップの話の根幹にあるのかもしれません。規制的なものを破壊するのではなく、その中にキチンと収めておこうという意図が働いていたのかもしれません。教育学という意味のPedagogyという英語は、ギリシャ語のpaidagogeから来ていて、元々の意味は奴隷の子どもたちの引率ということです。子どもを正しい仕事の所に引率する係のことです。社会秩序を守ろうとする考え方かもしれません。それが教育であり戦線という人の仕事だったのです。

現代は新しい秩序を見つけようとしていると言えるのかもしれません。そのためには秩序の崩壊が必定ですから、今はとんでもない混沌とした社会状況が私たちの周囲を取り巻いています。そういう時代背景からすると、やはり芸術という奔放なものが大いに力になるのではないかと考えるのです。今までの延長に未来はないということだけは確かのようです。新しいというのは形だけでなく、中身も新しくなければならないわけですから、そこが今の時代の産みの苦しみなのかもしれません。

それなのにYouTubeには最近説教話が頻繁に登場しています。いくつか見ましたが、後味はやはりべっとりしてして、本当は何が言いたいのかがよくわからないものでした。お説教的なもの、教訓的なものはやはり表面的な人間理解で、人間存在の深い真理を追求するものではないようです。真理に至るにはある意味で崩壊が伴うものです。芸術はそんな中で生き延びられるものです。音楽を聞いても、絵画や彫刻にしても、どこに行こうとしているのかが見えてこないものだらけですが、だからこそそこに現代ときな意味があるのだと私は考えるのです。

シュタイナーが教育は、奴隷の子どもたちの引率係ではなく、芸術だといった意味を深く考えています。ただ芸術の授業をするということではないのです。教育には新たしい時代を作る力があるということです。新しい子どもたちを世に送り出すことこそ、教育の課題です。まさに芸樹としての自覚を持った教育にしかできないことなのです。

雑学礼讃

2025年6月2日

雑学なんでくだらないという人もいるようですが、私は全くの雑学派ですから、話は一所に治ってなくて、油断するととんでもない所にまで飛んでいってしまうこともあります。

そのためか、私の講演を聞いた方の中に、人によっては今まで聞いたシュタイナーの話とは違うと感じている人がいることを耳にしたことがあります。「仲さんは本当にシュタイナーの人なんですか」という具合にです。多分私が講演の中でほとんどシュタイナー用語を使わないためのようです。シュタイナー用語が出てこない所にいつもの講演との違いを感じているのでしょうが、私がしてきたドイツの教育会議での講演やセミナーでは、いつも一般の人に向けての講演、セミナーでしたから、シュタイナー用語はご法度の世界でした。というのは一般の人のほとんどがシュタイナー用語で話されてもちんぷんかんぷんですし、シュタイナーの専門用語になってしまうと、その言葉の意味がわからないことで話につまづいてもらっては困るという方針から、シュタイナー用語で語るのはタブーでした。そのためシュタイナー用語を使わずにシュタイナーを語り続けため、シュタイナーの講演らしくないものになってしまい、それがシュタイナーではないのではないかと受け止められたのかもしれません。加えて私個人としては雑学的なものに大変興味を持っていますから話は予想外の膨らみを持ってしまったのでしょう。

振り返ると若い頃は小耳に挟んたことで気になることがあると、それに関しての本をすぐに読んだものでした。若気の至りなのかアンテナを張り巡らしていたようで、三百六十度から色々な情報が入ってきてはそれをもっと知るために本を読むんだものでした。今日のようにインターネットのない時代ですから、情報源はもっぱら本でした。そのうちになんても手当たり次第読むという癖がついてしまいました。

大海原の中にいるように雑学の中にいるととても楽しいのです。世界というのは広いもので、色々な人がいて、それに伴い色々な考え方があり、さらに色々なことが起っていて、雑学の中にいると世界に向けての視野が広がりますから、いつもワクワクしていました。その一方でしつこい所があり、一つのことに変にこだわってしまうと言う別の性癖もあり、二刀流でやっていました。

高校生の頃は、私より五つ位上の人たちは学生運動にのめり込んでいる人たちが多く、彼らの話を聞いていると視野が狭いのにがっかりした思い出があります。何かというとマルクスの資本論が引っ張り出されて、日本語ではむずしいから英語で読むのがいいとアドヴァイスされたりしたものです。私は雑学派でしたが資本ロイは読みませんでした。世の中には色々な考え方があることを知っていたのですが、その人たちにとっては、私のような雑学的なものに振り回されている輩は皮層的と言われ煩わしく邪魔になると、ことごとく排除されてしまいました。私からするとそれを教条主義というのでしょうが、私向きではないので、お付き合いすることはありませんでした。

シュタイナーを勉強している人たちと一緒にいると、若い頃の学生運動的な、視野の狭さを感じることがあります。極端な言い方をしますが、シュタイナーの本しか読まない人もいるのです。私にとってのシュタイナーは幾多の雑学の中の一つなのですから、シュタイナーを専門的に研究していないのですが、シュタイナーを外から見ていることもあります。ですからシュタイナーの持つ味については、シュタイナーだけを勉強している人たちよりもわかっているかもしれません。感覚的に捉えているからでしょうか、他の考え方との比較も楽しんでいます。しかしシュタイナー用語の世界にいる人たちは、意外とシュタイナーの味わい方を知らないのではないかと雑学の徒を自称する私は考えるのです。

論語読みの論語知らずということはよく言われますが、学生運動が盛んだったときにも、シュタイナーの中で勉強している人たちに接していても、この教訓のことを思い出します。実はそう言いながらも一つのことに集中すると他が見えなくなる傾向を私も持っていますから、よくわかるのです。もちろんそれが落とし穴かもしれないとも薄々感じながらです。

是非皆さんにも雑学というのんびりした世界で遊んでいただきたいと思っています。