ベートーヴェンからマーラーへ

2021年1月24日

去年はベートーヴェンの生誕250年ということで、たくさんベトーヴェンにまつわる音楽祭が予定されていたにもかかわらずコロナ騒ぎで全て中止となってしまいました。

ベートーヴェンの音楽は、若い頃、ほんの一時期聞いた覚えがあります。七番の交響曲はレコードを持っていたくらいですから聞いたようですが、他には特に感動したものはなく、みんながベートーヴェンを評価し、持ち上げているのを冷ややかに見ていたものです。

ベートーヴェンの音楽は、私にはすでに終わった音楽なのです。過去の方を向いて、過去の思考方法で考えていて、未来性があるかと言えばなく、聞かなくてもいいやと聞かないだけです。特にシラーの詩を使った九番の交響曲には、平和だとか、友愛だとかいう古臭い言葉がついて回っているので、近づくのを避けています。今日では政治的プロパガンダのための言葉なのではないかと思っています。

ベートーヴェンによってヨーロッパ音楽は終止符を打たれたと思っています。ベートーヴェン的なものと言ってもいいかもしれません。とは言え音楽そのものはその後も次へと歩き始めています。そこで一役買っているのがシューベルトでしょう。シューベルトの感性無くしてベートーヴェンで幕を閉じた後、音楽を次に繋げることはできなかったような気がします。そしてそのシューベルトを引き継いだのはグスタフ・マーラーです。マーラー自身はブルックナーからたくさん学んだようなことを言っていますが、作曲の技術的な面ではそういうところも感じますが、音楽としてはブルックナーとマーラーは全く別方向を向いています。ブルックナーはベートーヴェンを穏やかにした優等生なところがあり、未来を向いているというより、紳士的に古き良きヨーロッパの過去を見つめているのではないのでしょうか。マーラーは未来という予測不明なところに身を置いて、そこを交錯する音楽を書き留めていますすら、優等生には成れない複雑な存在だと思います。マーラーはシューベルトの音楽が持つ独特な「無重力的なところ」に憧れていたのではないかと思っています。未来的ビジョンは無重力の中でしか動けないものです。二人の間に作曲技法的には特に似ているというものではないのですが、音楽は同じ方を、つまり未来を向いて、未来につなげています。

ところがマーラーの後が続かないのです。クラシック音楽はウィーンで、マーラーで終わってしまったのかもしれないなどと言えば必ず反論があるはずです。現代音楽と呼ばれるものがあるからです。しかし現代音楽は響きの寄せ集めのようなもので、それらを聞いても私は音楽体験を得ないのです。響きによるコラージュ、響きによる絵画と言ったらいいように思っています。意外性という楽しみ方をすればいいものでしょう。現代音楽とは別に映画音楽が今日の音楽を賑わせています。映画と音楽が共同作業をすることで、音楽はかろうじて生き延びたのかもしれません。つまり映画音楽という新しいジャンルが生まれ、現代の音楽家たちは映画との共同作業に新しい道を見出したと言えるのかもしれません。

音楽が映像のために、映像を盛り立てるために作られるというのは、ストーリーの伴奏と見ていいのでしょうか。筋書きの状況を音楽で伴奏していると言えるのでしょうか。シューベルトの歌曲の伴奏を聴いていると、伴奏そのものが音楽として独立しているものだという印象を持ちますが、映画音楽は別物のようです。映画音楽だけのコンサートで音楽を聴いていても、音楽的には満たされないものです。映画で見たシーンを思い出す楽しみはあるのかもしれませんが。

現代は案外「音楽体験が得られるにくい時代」と言えるのかもしれません。周囲を見渡せば音楽に溢れているように見えますが、実はソッポを向かれているのかもしれません。それらの音楽は何かのために使われている音楽のような気がしてならないのです。

絵本の編集から見えたこと

2021年1月22日

絵本を編集する仕事をしている女性の方から聞いたことです。彼女は画家と文章を書く作家さんの両方の方を交互に訪問して仕事を進めています。「この仕事を始めてからずっと気になっていたのですが、絵を描く方と、言葉を使う作家さんとを比べると、絵を描く方の方がずっと楽に、幸せに生きているようなのです。言葉を使う方はなんとなく暗くて、重くて苦手なんです」と言うのです。「言葉は人を暗くするものなのでしょうか」と真顔で聞かれて困ったことがあります。彼女は私が講演をする人間だと知って聞いていたのですが、私を暗いとは言っていませんでした。私は喋り言葉を使う人間だからと言葉を濁していました。講演は話し言葉で行います。書き言葉では箇条書きのようになってしまうのでスラスラと話せませんし、それに箇条書きでは聞いている方が寝てしまいます。

考えをまとめる時には書き言葉でないと考えがまとまってきません。また、まとまった考えを読む時、読む人は書き言葉でないと書き手の意図を纏められないと思います。書き言葉は重たくゆっくりと進むことで効力を発揮するので、喋り言葉のように滑りが良く、立て板に水ではいけないのです。訥弁の人ほど書き言葉には向いていると思います。従って言葉を書く人は思慮深くて、言葉が重いということになるのかもしれません。

話し言葉の代表と言える日常会話は思いつきで喋っています。よく言えば直感が降りてきて喋っているのです。考えをまとめるという作業も省かれています。講演では最後の方で今日の話をまとめますと、などとは言いますが、書き言葉のようにきちんとまとめる必要はないので、大抵は尻切れとんぼのように終わります。話し言葉はこうしてみると随分いい加減なところがある言葉で、話し言葉で生きている人は文章を書く人よりは楽に生きていると言えそうです。

書き言葉と話し言葉を言葉の範囲以内で比べるとこうなりますが、言葉と絵とを比べようとすると、普段はそのような機会がないのでそのための物差しながないことに気づきます。もし彼女のような仕事についていなければ通り過ぎてしまっていることだと思います。つまり一つのことを、一方は絵で、もう一方は言葉で表現することで見えてくる非常に珍しいケースです。きっと学問的に研究する人もいないジャンルだと思います。客観的な資料が集まらないと思います。

 

話し言葉には、離す、放すということが噛み合ってきます。握っていたものを話すということです。言葉で心の中にあるものを解放するということです。それだから話し言葉を仕事としている人は明るい方を向いているように思うのですが、書き言葉の使い手たちは、言葉で解放するというよりは、言葉に思いを込めるため、その作業そのものが重くなるのかも知れません。そのため絵描きさんに比べると暗くて重いと言われてしまうのです。絵本の読者は大抵は子どもですから複雑な言葉で書いてはダメで、簡単明瞭な易しい言葉を選びますが、簡単とは言え、あくまで書き言葉です。ということは言葉に思いを込める傾向は拭えないのです。

一方絵の方は色を使います。色は特殊な現象で、光一元の世界に行くと色はないのです。光と影の間の遊戯から、つまり色は光空間と闇空間の間にしか生まれないものなのです。色として生まれる時には光が闇に打ち勝った時のはずです。ですから色は光の方を向いていると言えるのでしょう。ということで、色と仕事をしていれば明るく楽しく幸せになるのかもしれません。

二つのハイドンのシンフォニー

2021年1月21日

かつてクラシック音楽の世界で「コレギウム・アウレウム」と言うアンサンブルがありました。1960年代の初めに設立され、ほぼ20年ほど演奏活動を行っていました。

演奏する楽器が弦楽器は18世紀のオリジナルなもの、管楽器もその当時のレプリカを使用して、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを中心に世界を股にかけ演奏活動を行い、多くのレコードを録音したアンサンブルです。

当時は随分人気を博したもので、古い楽器の響きを初めて耳にした聴衆からは暖かく迎え入れられたのですが、古楽の専門家筋からは、演奏のスタイルがまるっきし現代風で、しっかりとした考証がなされていないものだと言われ、ついには解散に追い込まれてしまいました。

ちょうど私が音楽を聴くようになった時期に彗星のように現れて一世を風靡していたので、ラジオなどても随分流されていましたし、レコード店でもよく見かけました。有名な交響楽団の響きと比べてとても新鮮で、個人的には好きでした。

彼らが解散する前にドイツに渡ってしまい、長らくこのアンサンブルのことを聞かなかったのですが、音楽好きの人たちの集まりでこのアンサンブルが解散したこと、特に解散の経緯について詳しく耳にし、愕然としたことを覚えています。

 

最近は古楽の演奏が盛んで、楽器はもとより、演奏スタイルもしっかり学問的な考証に裏打ちされている演奏集団が随所にあります。彼らの演奏は確かにコレギウム・アウレウムのものとは違い、使用している楽器はもちろんのこと、しっかり時代考証をしたものなのですが、私はコレギウム・アウレウムの演奏が懐かしく、大急ぎで古レコード店で探しては買い集めました。そして聴いてみると確かに今の古楽演奏集団とはビブラートが効いていたりと違うのですが、勿論私的にはノスタルジックな感傷も混ざっているのでしょうが、なんとなく落ち着くのです。却って学問的に神経質にならない伸び伸びした演奏に共感が持てるのです。

 

かつての東ドイツで指揮をしていたクルト・マズアの指揮でハイドンを聞きました。彼は亡くなって五年になりますから、もちろんYouTubeでです。シンフォニーの61番です。ベルリンのラジオシンフォニーを1970年に指揮していました。この指揮者はとても重厚な、厚みのある指揮をすることで有名です。人間的にも存在感のある人で、東西の壁が崩壊する時に東ドイツの人たちの心の支えとなった六人の一人としてもよく知られています。こうした人間性に支えられた指揮からはその指揮者の人となりが響いてきます。ハイドンの精神に触れるような名演奏だと思いながら聞きました。学問的な考証や、楽器の選択は丸々現代風ですが、そこには紛れもなく純粋で透明なハイドンが響いていました。ハイドンを初めて聞いたような喜びを味わったほどです。

この演奏を聞いた後、同じシンフォニーを古楽の人たちの演奏で聞いたのですが、残念ながら音楽家ハイドン、ハイドンの人となりにたどり着くことができませんでした。確かに響きは古い楽器から生まれる古色蒼然としたものですし、テンポ、解釈なども考証された上で演奏されているのでしょうが、マズアの時のようにハイドンに出会うと言う音楽体験はなかったのです。

そこで思ったのは、音楽の本質は響きだけで表されるものではないと言うことでした。響きはもとより物質的なものなのだと言うことでした。音楽はそれ以上のもので、つまり精神的なもので、演奏する人たちの人間性に裏打ちされた音が聞き手を納得させるのだと言うことでした。音楽の本質は音だということです。音に込められた人間性だということです。

 

追伸

最近の古楽の演奏傾向に変化が生まれているということを聞きました。考証にこだわることも、演奏技術やスタイルもおおらかに解釈されるようになっているということです。もしかしたら新生コレギウム・アウレウムがもう何処かに生まれているのかもしれません。

YouTubeの検索は次のとおりです

Haydn: Symphony No.61 – Berlin Radio Symphony Orchestra /Masur(1970)