笑いを誘う芸、狂言

2026年3月26日

笑いがどこでどのように生まれるのか研究したものを私はまだ読んだことがありません。知っている方がいらっしゃいましたら是非教えていただきたいと思います。
それに引き換え笑いの研究は結構あります。ところがそれらを読んでも笑いと親しくなったような気がしないのです。きつと笑いは研究対象としてはふさわしくないものなのでしょう。
笑いにとって必要なことは自分で笑うことなのかも知れません。うまく笑えたら全ては解決するのです。
しかし今社会から笑いがなくなりつつあります。人々は笑わなくなってしまったのでしようか。笑いが人間から遠ざかることはないので、人々が笑えなくなったと言うことの様です。

テレビで日本のお笑い芸人さんたちが一生懸命お客さんを笑わせようとしているのを見ていると、なんとなく白々しくて目を逸らしたくなります。人の悪口を言って笑いを誘ったりして品がないものも多いのです。基本的には媚びた笑いだからつまらないのです。芸人なのにそれらの笑いは芸の域に達していないのです。私が個人的に、笑いを芸として一番楽しんでいるのは狂言です。実におかしいです。素直に滑稽です。狂言ほど笑いが凝縮したものはないのではないかと思っています。白々しいとか、恥ずかしい、とか言う様な境地を遥かに越えて、素直におかしいのです。天真爛漫です。そのおかしさに釣られて観客席にいる私もつい笑ってしまうのです。この時の笑いはとても正直な笑いで私は大好きです。
狂言のテンポが、これまた実に気持よく間伸びしていて、芯からリラックスできるのです。笑いにはのんびりと言うのは大前提の様な気がします。のんびりした時間の流れです。そもそも大真面目なお能の合間に演じられるもので、お能の緊張をほぐす大切な役割を担っていますから、少し間の抜けたようなテンポが望まれているのです。狂言役者が間の抜けた様な演技をするので、観客は誘われてのんびりしてしまうのです。そうなると大しておかしくないことが可笑しくなったりするのです。「わっはっはっ」と言う狂言の演者の豪快な笑いに触れるとこちらも思わず笑いたくなります。笑わなければ損したくらいに感じてしまいます。こんなに緩んだ笑いを他には知りません。もっともっと狂言が日本ばかりでなく広く世界に普及してほしいと願っています。

沈黙礼賛、つまり人の話をよく聞くこと

2026年3月25日

沈黙にはいろいろな種類があるので見て行きたいと思います。何も喋らないことが沈黙すると言うことですが、座禅をしているとだまつて座っているのに心の中は正反対です。外めは沈黙しているのですが心中は騒がしいほどです。様々な想念、想念が回り巡っているのです。むしろコツコツと黙って仕事をしている時の方が心の中は静まり返っているものです。
初めに言葉があったのキリスト教文化の中でも沈黙は大切な心の修行に数えられています。大きな修道院のーには必ず内庭があって、そこには回廊と呼ばれるものが付いていて、そこを修道士たちは毎朝無言で歩きます。回廊で他の修道士たちと一緒になるのですがしゃべることは禁じられています。回廊には喋ることが許されている部屋が一つだけあり、そこでは修道士たちがお互いの無言で歩いている時の体験などを交換するのですが、歩いている時はしゃべるのは禁じられています。しかし黙々と歩いているだけでなくお仕事が与えられています。聖書を黙読しながら覚えるのです。一行一句暗記するのです。そうすることで心の雑念を追い払って心を空にしているのかも知れません。
私が講演している時のことは今までに何度かお話ししているので繰り返しになりますが、話をしている時には、話している自分と黙って話を聞いている自分とに分かれています。体験的に自分の話を黙って聞いていてくれるもう一人の自分がいる様に感じています。きっとこの沈黙の部分を持たずに話をすると、話が空回りしたりして活き活きしてこないような気がします。ただ話をしてるだけで時間が来ましたので終わります、となってしまう様では講演とは言えません。実際に他の人の講演を聞きにゆくと、講師が沈黙に支えられているのかどうかはわかるものです。

心の中は一日五万とも六万とも言える想念が行き交っていると言われています。座禅の時にも当然出没していますが、禅ではそれにとらわれることなく流す様にと言われます。しかしその数が半端な数ではないのでただ座っている様に見える座禅も実は大仕事なのです。
ドイツでは「無言セミナー」と言うものがよくみられます。一週間修道院などを借り切って言葉を使わない生活をする様なのです。私は体験したことがないのですが、セミナーを受けて帰ってきた人たちは口々に「リフレッシュした」「自分に帰った」と明るく言っていました。
と言うことは、自分とは自分を主張している時にいるのではなく、何も言わずにいるときにいるものと言っていいのでしょうか。つまり自分と言うのは自分だと思っているほど自分ではないと言うことなのでしようか。特に自分を育てると言うことを考えると、人の話をよく聞くことが一番の様な気がします。自分だと思っているものは過去の集大成です。よほどの天才でない限り、自分と対話して自分を膨らませ進化させることはできないものてす。過去をどんなに磨いても過去は過去で自分の思い込みの中に留まってしまいます。過去に囚われてしまうのです。自分を育てるためには人の話をよく聞くことです。そこから新しい出会いが可能になるからです。その時の刺激で自分は一歩前に進みます。人の話に耳をかたむていると実に爽やかな自分が生まれて飛び立ってゆくのを感じるものです。精神衛生上沈黙は良いものとされていますが、最高の沈黙は人の話に耳を傾けることではないかと私は思っています。私たちの日常の中に最高の修行の場があったのです。

モーツァルトについて

2026年3月25日

モーツァルトの音楽は若い頃の私を捉えて離しませんでした。三度の飯よりもモーツアルトを聞いていたかったほどです。十代の頃は特にモーツァルトを聞きたかったのです。その後年を重ねる中でシューベルト、ハイドン、ヘンデル、マーラーなどを聞く様になります。今年で五十年ドイツで生きたことになるのですが、ドイツを代表するバッハ、ベートーヴェン、ブラームスの音楽にはほとんど関心を示すことはなかったのです。

モーツァルトに話を戻します。最近聞くモーツァルトは取り憑かれた様に聞いた十代の時とは違います。十代の頃はモーツァルトを通してヨーロッパの音楽の中に導かれていっていたようで。と同時に、モーツァルトの音楽は自分の心を一番代弁してくれていたのです。モーツァルトは私そのものだったのです。数あるモーツァルトの作品の中で好きなのは決まって長調の音楽でした
ついこの間のことです。車を運転している時に流れていたラジオからモーツァルトのハ長調の弦楽五重奏K515が聞こえてきたのです。昔から大好きだった曲で「やぁ、久しぶり」という感じで軽く聞き流していました。車の運転をしているので音楽だけに集中できなかったのが幸いしたのだと思います、突然モーツァルトの音楽が、言葉を言語として知り尽くした人によって書かれたドイツ語の文法の指南書のように聞こえてきたのです。手軽に言葉の使い方を指南しているような実用的な文法書ではなく、ドイツ語という言葉の骨格を深く知り尽くした文法書の様な感じです。日本でいうと関口存男(せきぐちつぎお)氏による、いわゆる関口文法のようなものです。読んでいると重厚でドイツ語の前に向って座らされているような本です。背筋が伸びるような本です。本場のドイ語で言うとヘルマン・パウルの難解な「ドイツ語の基本要項(Das Prinzipien der deutschen Sprache)」といった、ドイツ語を勉強流人は必ず読まなければならないと言われるものです。ドイツ語の本質が手に取るように見えてくる文法の指南書です。それ以来、モーツァルトの音楽はドイツ音楽の上等な文法書の様なものだと思う様になっのです。もちろん直感的なものでしたから一瞬のことだったのですが、その時の印象はなんとも余韻が長く、その後も何度も脳裏をよぎるのです。その度に「そうだよなぁー」と自分でも感心しているのです。
モーツァルトの音楽はドイツ音楽のエッセンスです。正真正銘の精製されたエッセンスだと思います。モーツァルトは西洋音楽の到達点だとも言えそうです。音楽が到達できる相当高いところまで辿り着いたものだと思います。小さな子どもが吐露する無垢な心の中の様なもので、演奏はとても難しいと言われています。技術、技巧の問題ではなく純粋な感情を音にするのが難しいです。モーツァルトが音楽から紐解いたものはあまりに純粋です。純粋すぎて手のつけようがないくらい脆く危ないものです。
音楽の使命は人間の感情を音にすることです。人間の感情と言うのは聖なるものから俗なものに至るまで様々なものが入り混じっています。透明でもあり不透明でもあるのが感情の姿です。それが音となっているのが音楽です。音楽から感情をのぞいてしまうと、ただ単に音のつながっているもので、心を打つものは何も見当たらないのです。また感情移入が過ぎると、これも聞くに絶えない雑音に変わってしまいます。モーツァルトの音楽と言うのはこういう複雑なものの中にあってさりげなく中心に位置している音楽の様でもあります。