第六感

2026年8月3日

五つある感覚の他にもう一つある感覚のことです。
また車の運転をしていますが、今のところそんなに歳の英気用のようなものは感じることなく運転しています。
運転しながら思うのは、運転はまさに第六感のような世界だということです。左右の車幅、ブレーキのタイミング、何をとっても、理解してやっていることではないようです。
歳をとってくると五感が鈍くなるのではなく、第六感がだんだん働かなくなるということのようです。

第六感はどこからやってくるものかと思って調べてみると、過去の経験や情報を整理したもので、それを整理して答えとして引き出してくるものとAIは答えてくれます。超能力ではないと言い切ります。
楽器の演奏などもいちいち弾く音を理解してやっているのではなく、第六感で演奏しているようです。
蓄積された経験が蓄積される場所があるということなのでしょうか。それを敵座適所に引き出してくるのが第六感だと思っていたのですが、AIの回答は違っていました。

五感は一つ一つが何を感覚しているのかをいうことができますが、第六感のようなものとの関連で見てみると、五つの感覚能力で捉えたものはバラバラに溜まっているのではなくそれは一つのところに混ざって保管されているということのようです。
今日の試遊巻で一つ一つの能力は独立したものとして描写されますが実際には混沌とした一つにまとめられて残っているのだという感じです。

五感の一つが欠けると他の感覚がそれを補う形で敏感になることはよく知られています。もしかすると第六感がそこでは大きな働きをしているのではないかと思ったりします。

シュタイナーを読んでいると物質体、つまり肉体です、エーテル体、生命力の源です、アストラル体、感じことの源の源です、そして自我というものに言及しているのですが、この自我というのは曲者で、よく誤解されているのですが、決して自分のことではないのです。
大体自分なんて、わかっているつもりでいるだけで、わかってはいないのです。自分というのは実態がないものなのです。そこから本当の自分は無意識の中にあるとおっしゃる精神分析の先生もいらっしゃるほどです。
肉体を持って生きて、生命活動をして、感情があってという、ここまではわかるのですが自我が出てくると突然わからなくなります。
そこで考えたのですが第六感のようなもので、肉体、エーテル体、アストラル体のまとめ役のようなものではなのかと考えてみたのです。
五感が一つ一つ独立しているようでもバラバラでなく、一つにまとまって機能しているように、肉体、エーテル体、アストラル体は自我によって一つにまとめられていると考えてみてはどうかと思うのです。自我とはまとめ役です。まとめ役を授かれる最高のものは無私であることです。自分がないことです。自我というのは自分という幻想を主張するのではなく、自分をなくすことでまとめ役が果たせるのです。自我が自分を主張するためのものと勘違いしている人が意外と多いのは、西洋で発達した自我哲学の悪しき影響のような気がします。そもそも自分なんてあんまり自分ではないのです。ここが出発点にならないと人間は精神的存在ではなくなってしまいます。精神的存在であるためには無私でいられなければならないのです。第六感も無私だから機能しているのです。

歌の秘密

2026年8月3日

歌には歌詞がある。という本があって面白く読みました。しかしよくよく考えるとこの言い方よりも、詩に音楽をつけると言う方が理にかなっているような気がします。元々言葉は音楽的な要素というのか、音楽そのものがが内包されているのであって、それを言葉のリズムにあわせて、歌いやすいメロディーに乗せるということから、今日的な歌になったからです。
しかし音楽が独自の道を歩み始めるという流れが西洋音楽の中に生まれます。音楽が優位に立つようになると、音楽を聞かせるために詩を使うと立ち位置が逆になってきました。クラシック音楽に限っていうと、今では歌のテキストとなっている詩は影のような存在になって、表は音楽が受け持つことになります。かえってポップやロックなどの方が歌詞を大切にしているものが多いようです。

日本には和歌を音楽的に読み上げる習慣がありました。放送局のアナウンサーが読むように単調には読んでいなかったはずです。今日でも年初めに宮廷で歌会始が執り行われていますが、そこで読まれる和歌はまるで歌うようです。メロディーのような抑揚があり、リズというのかゆっくりと伸ばしたり短く呼んだりと、それはまるで音楽の衣を着た歌のようです。詩吟という詩を朗々と歌い上げる伝統もあります。所作を交えると歌踊りです。お能の時のテキストは全て譜(うたい)となっています。
私に歌の指導してくださったドイツの女性のシェーファー先生が、当時、二十年前にレコードでお能を一緒に聴いた時、これは昔のケルトの歌のようだと言っていました。残念ながらケルトのその音源に触れることはできませんでしたが、お能の謡のような形は日本独自のものではなく、時代を遡るといろいろな民族の中に存在していたものなのかもしれません。古代ギリシャの音楽を聴いた時にも、よく似た詩の朗誦を聞くことができました。
べブライ後は文字がすでに楽譜となっていたと言います。言葉は歌われるものだったのです。

グレゴリオ聖歌という西洋の中世まで歌われていた、東ローマ帝国の東方教会の歌はまさに言葉を歌う儀式でした。そこからどのように言葉と音楽が分かれていったのかはとても興味深いテーマです。そこを整理して、これから歌がどう変わってゆくのかを考えるのはもっと興味深いものです。今日歌は音楽と見做されていますが、歌がいつの日か言葉の側から見られる時代が来るかもしれません。

ここにシューベルトの歌を持ってくるは唐突のように見えるかもしれませんが、私には彼の歌からさまざまな課題を受け取っています。
シューベルトは歌いたい詩を大切にしています。詩の内容はもちろんですが、言葉の響きにもとても配慮しています。実際に音楽と重なる時に、思いついたメロディーをつけたということはなく、声に出して何度も詩を読んでいたのです。そして詩全体の響きから音楽を導き出していたのです。言葉を歌う歌というのがシューベルトの歌の根本です。そして言葉の奥を音楽全体として歌ったのです。ですからただのよくできた歌というのではなく、イメージの総合芸術なのです。

響きと音

2026年8月2日

音と響きの違いは分からなくなってしまいました。
音は聞こえている響きの向こうです。
音と響きは対になって語られますが
音の世界を開示するのは響きだけではなく
さまざまな現れの奥に潜んでいます。
色として現れることもあります
形として現れることもあります
色や形の向こうの時は音と言わずに
本質、真実、永遠と言われます。

言葉は言の波と言霊とに分けて考えられていました。
言の波は響きに当たり、音は言霊です。
言の波は意味を伝達する道具として使われ
言霊は言の波の向こうに控えていました。
言葉の研究は言の波の研究で、意味論、文法、修辞法などで解明されています。
言霊は言の波の向こうにあり、姿、形の無いもので
学問や研究の対象ではありません。
知性は響きと言の波を明らかにしてきました。
音と言霊は知性が扱えなずにいます。

今までの知性から新しい知性が生まれる日
その新知性は音や言霊の存在に気付くでしよう。
その存在を予感してその先に行く人が現れても
説明では伝えられないモドカシサが伴います。

説明ではない新しい道です。
説明ではない道は説明なしで分からせます。
直感の世界と意志の世界が
その時一緒に開示されます。

そのために準備しなければ。