2025年9月28日
数多くの作品を残している作曲家たちは普通の人が手紙を書くよりも速いスピードで曲想を音符に移し替えて行きます。その姿を思い浮かべると作曲のイメージが変わってしまいます。普通考えているものとは別の次元のことがそこで起っている様に思えて仕方がないのです。とは言っても基本的には私たちも手紙を書いている時にはイメージしたものを文字にしているわけですから、基本的にはよく似たことなのかもしれません。創造性というのはそういうものなのです。
彼らは心の中でずく楽譜が見えているわけではないのです。それを見てそれを写しているわけではないのです。イマジネーションだったりインスピレーションを得てそれを楽譜に置き換えているのです。ピアノに向かって鍵盤を叩いて作曲しているとします。偶然にいいメロでいーが生まれたというような感じて音楽ができたとしたら、そんなものはつまらない音楽です。楽器の力を借りたり、頭で捏ね回して作ったものなんか聞くに耐えないものですから、一度は我慢して聞けるかもしれませんが、二度目を聞こうという気にはならないしょう。もちろんその音楽は後世に残る様なものでないことは明らかです。
何年も何十年もあるいは何百年も聞かれ続けている音楽はそういう音楽とは違って輝いています。その輝きは偶然にできたというものではなく、特別なものが輝いているのです。普遍的とも言えるような力を感じたり、あるいは真実と言っていいほどの何かが貫いています。それは偶然できたようなものとは違い、イマジネーション、インスピレーションを通して天上から降ってきたものとしか言いようのない何かなのです。
この事実は音楽というジャンルに限ったことではなく、芸術と呼ばれるものに共通して貫いている力です。多くの人から支持されるものというのは、人為的なものではないものです。天上と言いましたが、人智を超えた力が働いているところからの贈りものです。霊的な直感力と言っていいのでしょうが、霊という抽象的な感じがするのでここでは、多くの人の願い、憧れといったものがそこに集まっているところと言ってみます。そこは霊的な力と人間味の混ざった温かい場所なのかもしれません。芸術が人の心を打つのは深いところを貫いているその暖かさかもしれません。単に奇を衒ったものではない、普遍的な力が人類の憧れなのかもしれないのです。
芸術と学問を比べても意味がありません。評価と期待の基準が異なるからです。どちらも真理を求めているので、真理という言葉にしてしまえば同じに聞こえますが、芸術的真理と学問的真理とは全く別のものです。芸術は個人的なイマジネーション、インスピレーションに負うものですが、学問は批判的な立証という手続きが不可欠なものです。
シュタイナーは教育を芸術だと考えていました。教育は教育学があってできるものではない言いたかったのかもしれません。教育のバックボーンとしては教育学があって教育を支えることは大切なことですが、教育の本質は教育学ではなく、教育の要は教師だと言いたかったのではないのでしょうか。なになに教育というもので教育を実践したら、先ほどの楽器を使って作曲したり、頭でこね回した音楽のようなもので、つまらないものに傾いてしまうと考えたのかもしれません。教師と子どもの間に教育学が入り込んだら、教師の子どもを見る目が曇ってしまいます。それはパターン化された教育に陥ってしまう第一歩です。それは生きた教育ではなく死んだ教育です。
独裁政治の支配した社会で芸術が政治思想の代弁者になったときのつまらなさを思い出してみてください。芸術的感動はそこにはなく、パターン化されたプロパガンダ的な表現は実に退屈なものです。思想とか主義というのは実はパターン化が根底にあって退屈なものなのです。人間の持つ可能性や未知数というのは思想や主義を超えた神秘的なものだからです。
今の時代は物事があまりに整理されすぎていて、多くのものが規格品に成り下がってしまい、なおかつ人間の精神性は窒息状態と言っていいと思います。人間が一人一人自分の内面に深く入り込まなければならない時代なのです。そして一方で外の世界に関心を持たなければならないのです。それが精神的な意味での呼吸です。自分の内なる世界と外の世界とが行き来することで精神が戻ってきます。一人一人が違った呼吸をしているところでは精神が生きています。
2025年9月26日
年齢が増すに従って思い出すものが増えて行きます。思い出は記憶という力によってもたらされるものです。記憶力は年齢とともに衰えてゆくのですが、記憶というのは生命力とどの様に関係しているのでしょうか。
シュタイナーは記憶を一般の科学者とは違ったアプローチから説明しています。先ほどの生命力との関係はシュタイナーの考え方からすると、深い結びつきのあるものです。生命力のことをエーテル体と呼びますが、このエーテル体は、誕生した時に両親から遺伝した体を、幼児期を通して今生の生命活動をするのにふさわしいものにするために歯が生え変わるまで仕事をしています。その仕事から解放されると本来のエーテル体としての仕事に携わるのですが、その仕事の一つが記憶というものです。様式が過ぎると記憶が活発になりますから、学校にゆき色々なことを学ぶことができる様になるのです。
記憶には視覚的な映像だけでなく、触覚、聴覚、味覚、嗅覚と五感の全部が登場してくるのは驚きです。小学校の時、当時住んていた池袋から今の幕張メッセの辺りとか、デスニーランドの辺りに潮干狩りに行ったのですが、その時の砂の感触を今でも覚えています。海からの磯の匂いは思い出せませんが、のんびりした砂浜、そして砂の色は覚えています。その時持たされた小さな熊手で掘っている友達の姿、そしてその時一緒に行った人たちの何人かも思い出せます。当時は新鮮な体験だったものが、この年になると思い出して生きているのです。そしてそんなことを思い出していると、不思議なことに元気に鳴るのです。思い出すというのは元気の源でもある様です。
去年家内の妹が亡くなりました。彼女のことは映像で思い出すことがほとんどですが、握手した時の子どものようなぽっちゃりした手の感触も、話している時の声も、笑い声も未だに鮮明に思い出せます。共に共有した時間と空間が懐かしく思い出されるのです。もちろん思い出すと寂しいですが、別の間てからするとやはり元気をもらいます。
思い出の中に現れる五感からの記憶がこれほど鮮明なのにはいつも驚かされます。思い出の中の五感を見ても感じるのは、語感というのは私たちの生命力と深く結びついているということです。そんな時に五感を通して体験するということの大切さを改めて感じます。幼児たちは五感を刺激されながら生命力を刺激され体を作るのでしょうが、五感によって元気をもらうからなのでしょう。ある時科学技術の先端でお仕事をされている方とお話しする機会があり、その時話題になったのはやはり五感の大切さでした。将来の技術を開発してくれる人を育てるには、幼児期に思いっきり泥んこになって遊そんでもらうことが一番ではないかと考えていらっしゃる様でした。今ある技術、コンピューターの様なものですが、それらを使いこなすことを幼児期で始める必要はなく、小さい時は自然の中で木登りしたりして、五感からの体験をたくさんすることで、かえって大人になってから未来を切り開く力になるとおっしゃている様に聞こえました。
思い出の中で記憶として残っている、音や色や匂いや味、そしていろいろな音や言葉の響きは、記憶という別のレベルのものとなってはいるものの、後になってそれを追体験することは、幼児期の子どもたちの五感を通して体験する生々しいものとは違っても、共通しているのは生命力に働きかけているということのようです。どちらも元気の源なのです。
2025年9月25日
声について語る時にまず触れておかなければならないのが、声の肉体的な響きです。肺からの空気が流れ時に声帯を震わせて響くものです。声帯は繊細な筋肉でできたものですから、体の緊張が声帯を固めてしまうと、詰まった声、聞きにくい声になってしまいます。体をリラックスさせないと声は伸び伸びしてこないものなのです。声には肉体からだけでなく、その人の心の有様も聞くことができます。優しい人は優しい声ですし、威張っている人の声は、偉らぶって聞こえますし、人に厳しい人の声は固い、緊張した、怒ったような冷たい声です。まさに心そのものが響きになっています。心そのものが声だと言ってもいいほどです。さらに声には人柄、人格が聞き取れますから、人間の精神性を計るバロメーターでもあるのです。心の深さ、懐の深さというのはその人の精神性のことですからね精神的な人の声は自ずと深いものになります。
声は三つの要素からなっているわけです。ですから発声練習などで肉体的な発声訓練をしただけで声が良くなることはないのです。声を多くの人から喜んで聞いてもらえるような柔和なものにしたければ、心を柔和にしないとならないのです。心がとんがっている人からは優しい声など聞かれるはずがないのです。心の性格的なものではなく、心の品格というのか精神的な深みというのは、いわゆる修行という手続きを通らないと得られないものです。修行とは言っても座禅を組むとか、滝に打たれるとか、絶食をするとかの修行ではなく、人生を誠実に生きるという修行のできた人の声には深みがあります。逆に自分勝手に生きている様な人間の声は薄っぺらで聞いていてイライラする様なものです。
緊張のない声
緩やかな柔和な声
しっとりと深い声
と三つの段階で見ておくと声とその人の関わりはわかりやすいし、見間違えない様です。
声の世界に入ると、声は十年かかりますと言われるのですが、それもそのはずで、精神的な深みまで求められるとなると十年では足りないくらいです。一生かかるものと覚悟してかからないといけないものかもしれません。
私はすでに三十年前から声のことを講演と並行してやってきましたが、私が考えているような声を一緒に育てたいという人は、例外的に一人か二人はいましたが、ほとんど現れませんでした。今は七十半ばですから、これからそういう人が出てくるとも考えられません。私が考えている声は多くの人には受け入れていただけなかったということの様です。
しかし私が千回以上の講演会を三十年の間してこられたのは、ひとえに私の声のおかげだと思っています。この声から発せられる響きは単なる響きではなく、人によってはイメージを含んだ響きなのだそうです。声でもって体がほぐされて、緩んだところにイメージが生まれるのだそうです。そんな声なのに、この声をどうにか自分のものにしたいと考える人がほとんど出てこなかったのはなんでなんでしょうか。私は、きつと声というのがあまりにも身近なものであるためなのかもしれないと考えています。身近すぎるとありがたみがないものなのかもしれません。講演会などでは、身近な声のことではなく、聞きなれない難しい言葉を散りばめる方ががありがたみがあるのかもしれません。難しくてよくわからないというのは有り難みを増長してくれるものの様です。
YouTubeを見ているときに私が惹かれる動画は決まって誠実さがあるモノです。そのバロメーターになるのが私の場合はその人の声です。いい声とかというレベルの基準ではなく、その人の人柄、誠実さが伝わってくる声です。その声で話されているものは見ていて気持ちがいいです。内容が一見凄そうでも、誇張したモノであったり、声が浮ついている人のものは信じるに足りないと思いすぐに切ってしまいます。我ながら声は信じるに足るものだと思っています。
人を見るときに、表情とか、目つきのようなものもとても大切な要因ですが、それは器用に誤魔化せるモノのようで、私は声だけは誤魔化せないと思っているので、声を基準にしているという次第です。