自我が目覚めるとき

2024年5月14日

自我は西洋の精神世界を語る時の中心にあるもので、哲学はもちろん、心理学にしろ社会学にしろ、そこを通ることなく何も語れないほどのものと言えるのに、正直うまく語れない秘密の場所のことを言っているのだと思っています。秘密ですから何人(なんびと)も入れないところなのです。ですから自我とはいっているもののエゴのことだったりします。

西洋の精神性で一番問題なのは自我を自己主張の道具に見立てていることです。日本人の立場からすると、なんとみっともないことが起こっているのかと哀れんでしまうことなのですが、西洋のこの悪癖は深く染み付いていて、当たり前すぎて拭いきれないもののようです。

精神文化がこの自己主張一色に塗りたくられてしまうのですから、芸術もその支配下に置かれてしまいます。もちろん宗教もです。ある意味では危険極まりないとも言えるのです。自己主張と同じくらい困ったものに、自分を守ろうとするバリケードの強さがあります。これもしっかりと張りますから、自分という要塞は崩れる気配がないのです。

しかしなぜここまで自分というものにこだわらなければならないのかと日本人の私は考えてしまいます。

時間に遅れてくると、あらゆる言い訳をして自分が悪かったのではないという方に話を持ってゆきます。そこに注がれるエネルギーというのは恐ろしいほどなのですが、そのエネルギーの一部でも他のことに使えばもっと有効的なことが社会的に行われるのではないのかとは考えるのです。

 

自我というのは自分と他人とが共に働いている場所のこととも言えるし、シュタイナーがいうように私とあなたとの間にあるものなので、自分にこだわっている限り自我には到達できないということになります。他人をリスペクトできなければ自我には到達できないということなのです。

例えば使った部屋を後にするとき、「立つ鳥あとを濁さず」という具合に、次に使う人のことを慮って片付けて後にするものです。ただ次に来る人が必ずしも他人とは限らなくて、もしかすると自分がまだ使うかもしれないのですが、その時の次の人、つまり他人のためという他人が、自分だったりもするんです。自分と他人というのはそんな風なもので、広い目で見るとはっきり区別できるものではないという一例です。

自己正当化という悪い癖も見直さなければならないものです。裁判などのようにどちらが正しいのかという争いの時は正しさをお互いに主張できないければならないのでしょうが、日常生活で四六時中自己正当化がぶつかり合っていては何もまとまらなくなってしまいます。ディスカッションが大好きですが、言葉の争いにすぎないもので、発展的ではないのです。直を語る時には相手の立場や気持ちを斟酌するという余裕が問われているのです。相手が見えていない限り自我への道は遠いい様です。

誰かがやらなければならなかったことをある人がやってくれた時には、「私がやろうとしていたのに」ととても残念そうに言います。実はこれは嘘で、その場をこういう言い方で逃れるテクニックにすぎないのです。してはならないことをしてしまった時には、「そんなつもりはなかったの」と大声を出しますが、謝ることはしないのです。謝ったら負けだと信じているからです。

 

これらは癖なんです。特に考えることをしないでもいつもちゃんとそうなるのです。それ以外は起こりえないのです。思考の欠如ということではなく、習慣の問題なのです。こんな状態ではいつまで経っても自我にたどり着くことはないようです。癖なので、どうしてもそうなってしまうため、修正はほとんどの場合ききません。頭でそれは良くないとわかっても、癖ですからついそうなってしまうのです。

西洋が西洋でなくなる時がいつか来るのだろうかと絶望的になることが多いのですが、この癖は古い文化の名残だとすれば、これからの文化のあり方の流れに沿ってゆけば、改良の余地が見えてくるのかもしれません。

1日も早くそんな日が来てくれることを祈っているのですが、どこから叩き崩せばいいのか、絶望的になることもあります。西洋に、自分で自分を変えられる日がいつの日か来るのでしようか。来てほしいし、こなければ将来は相当きついものになると想像します。

この自我妄想は一度は壊れないとダメなもののように感じています。死して生まれよ、でしょうか。

フジコ・ヘミング

2024年5月14日

先月の21日にピアニストのフジコ・ヘミングさんが膵臓癌でお亡くなりになりました。

いつも遠くから羨望の眼差しで見つめておりました。

心からご冥福をお祈りいたします。

 

フジコ・ヘミングさんは日本のピアニストとしては珍しく賛否両論を超越した存在として、音楽界に君臨されていました。

奇跡のカンパネラ、という代名詞をあてがわれていましたが、彼女自身は伸び伸びと誰もいない深みの中を漂っていたのではないのでしょうか。とはいえ彼女自身もカンパネラにうまく身を隠していたところもあるようでした。自分に納得のゆかない時にはピアノでカンパネラを弾いていたというより叩いていたようです。

謎という言葉は危険です。この言葉で括って仕舞えば沢山のことがそこに言い含められてしまいます。ですから私的には極力使いたくない言葉ですが、フジコ・ヘミングさんにあてがえる言葉が見つからない時には、思わず救いの手を「謎」という言葉に伸ばしてしまいそうになる気持ちもわからないではないです。

私にとっての彼女はあまり謎めいていなくて、むしろそのままを生き通したということから、世間の目からはかえって見えにくくなってしまったのかもしれないと思っています。しかもシャイな人だッたようで、人前には自分を出さないということなのでしょうが、音楽を聞けばシャイなどは吹き飛んで、どういう人かはすぐに分かります。あんなにありのままの人も珍しいほどありのままです。ただとても不器用なので隠しようがないのでしょう。

演奏をする人には、便利な音楽言語というものがあるので、演奏家たちはそれに身を隠して演奏しているのがほとんどです。コンクールなんてそんなものです。その中に隠れて仕舞えば、上手とか下手ということで測ってもらえるのです。しかし本当の音楽、ありのままの姿はそんなところにはなくて、生き様をそのまま出したらいいだけなのですが、音楽言語に身を固めてしまった人たちにはかえってそれが難しいようなのです。

無垢な魂で、暗視できる居場所を見出せず一生を生き抜けたのでしょう。

タバコに火をつける時の安らいだフジコ・ヘミングの顔が好きです。美味しそうにタバコを吸える人がいなくなってしまいましたから、貴重な映像です。養老孟司さんのタバコとは明らかに違いますが、寂しさの向こうが垣間見えるところは共通しているかもしれません。私には、色々な懐かしい思い出が彼女の紫煙の中に見えるのです。彼女を支えている大切な思い出がです。

タバコのことで思い出すのは中国で育ったロシアのピアニスト、ヴェデルニコフです。十代の彼が両親と共にロシアでピアノの研鑽を積むために引き上げた時、ただの商人に過ぎない父親だったのですが、当局からスパイ容疑でその場で銃殺され、母親はシベリアの強制労働に送られます。その時から天涯孤独なひとりぽっちになった彼が、両親との思い出を味わえたのは1日七本だけ吸っていたタバコの紫煙の中ででした。

孤独な人によく似合うのはタバコの紫煙です。

ピアノを弾いているときに体を揺らさない彼女の姿が好きです。体をくねらせて、いかにも弾いていますといった陶酔のポーズで弾く人の音楽は聴いていて疲れますが、彼女のどっしりした後ろ姿から聞こえてくる響きにはいつまでも耳を傾けてしまいます。

彼女のように音をつまびいていきたいものです。

合掌

 

五月のオーロラ

2024年5月13日

私の誕生日を祝ってくれたかのように世界各地で見られたオーロラは、私が住むシュトゥットガルトでも短い時間観察できたのだそうです。真夜中のことで見ることができませんでした。返すがえす残念です。写真で見るととても鮮やかな赤に満天が染められています。

強烈な太陽風の煽りを受けてことだったそうです。十一年周期と言われている太陽の活動のサイクルからすると来年がピークにあたるそうなので、まだオーロラに出会える機会は向こうい一年の間度々あるのかもしれません。

昨年日本からドイツに北回りで帰る時、真夜中に北極の上を通過した時に機内の窓からオーロラをみることができました。地上から見上げるように見るのとは違い、空の上からのオーロラはまるで巨大なカーテンが空に浮かんでいるような雄大な姿でした。色は私が見た時は白に近い色でしたが、ほとんどが色を帯びているということなので、飛行機のガラス越しだったために色が失われていたのかもしれません。いずれにしても初めて見るオーロラには感無量でした。

知り合いにはオーロラを見るために何度も北欧に出かけて行く人がたくさんいますが、必ずしも見て帰ってきているわけではないので、飛行機から見ることができたのはラッキーの一言です。

同じ空を彩る虹の発生と夜空に広がるオーロラとは全く違うことが起こっています。虹は太陽の光と空気中の水蒸気の関係で生まれるもので、虹が発生している場所を指定することはできないのです。たとえ測定できたとしても、そこを観測してもなんら異常らしきものは観測できないのですが、オーロラは太陽の活動から発生するフレアにる太陽風が地球を取り囲む大気圏にぶつかることで生まれる現象です。この太陽風というのは私たちの生活に色々なアクシンデントを及ぼすもので、GPS、つまりナビに異常が生まれたりします。海を航海する船の位置決定に異常が生じるのは大変危険なことなで、毎回注意が促されます。時には地上の発電所にまるで落雷のような形で電磁波が流れ込むことがあって、アメリカのカリフォルニアで何年か前に発電所が大火事になったという報告がありました。

地球の気象にも大きな影響力のあるもので、気温の変化に影響が大きく、温暖化の大きな原因に数えられているものです。

オーロラを目撃できるのは嬉しいことです。今回のオーロラはしばしば観測されている北海道ばかりではなく、兵庫県でも見られたということです。しかも世界各地で同じように多く観測されています。

全国各地、三十にも及ぶほどの広い地域でみることができたということなのですが、向こう二日ぐらいはまだ期待できる可能性があるということですから、ぜひもう一度太陽には頑張って太陽風を地球に送っていただき、オーロラを再現してもらいたいものです。

 

私は一度だけの体験ですが、あの巨大なカーテンは忘れ難いもので、とんでもないものに出会ったという感動は今でも鮮明に思い出すことができるものです。もしかすると何度も見るというのがいいのではなく、かえって一回きりというのがいいのかもしれません。今日のような、なんでも記録できると考えられる時代には、この一回きりという体験は案外大切なものなのかもしれません。