おはようございます

2021年9月3日

おはようございますはを英語でなんというのですかと聞かれたら、私は戸惑ってしまいます。横槍が入って「グッドモーニングですよ」と言われても。おはようございますはそんなことを言っていないと心の中では思っているのです。ドイツ語ではグーテンモルゲンですが、これは「私はあなたにとって素晴らしい朝が来ることを祈っています(Ich wünsche Ihnen einen guten Morgen)」の省略されたものですから、それとおはようございますは全く違います。おはようございますってなんなのでしょう。

いい天気だ、の英語はI’s fine dayということですが、これはマイクのテストの時には「本日は晴天なり」となります。Itは非人称の主語ですから、日本語でいうところの気のようなものです。インスピレーションで作られた主語ということです。「それなるものがいい日である」などというとんでもないことではなく「よき一日が漂っている」という感じでしょうか。

日本では、会社などの挨拶で「私は三年ほど会議の議長を務めさせていただきましたが、本年をもって若手にこの職を譲りたいと思います」という言い方は普通ですが、これを英語に直訳して理解されることはないと思います。「私は三年議長だったが来年からは若手に譲ります」と言えば英語に訳せます。日本人にとつて当たり前の言い方の多くは他の言葉に訳せないものがほとんどです。

有名な「お茶が入りました」も「お茶を入れて持ってきました」と言っては。お茶から香りが抜けてしまって不味そうです。

ただこの傾向は、18世紀、19世紀になって広がったようで、それ以前にはやや近いものが西洋的表現の中にも見られます。Let’s goはその当時の少ない名残かもしれません。正式にはLet us goで、「私たちを行かしめるものに従おう」、というのが正しい意味で、「さあ行こう、出発」ではないのです。私たちを行かしめる存在のことを感じていたということでしょうか。

現代人の言葉の使い方はどんどん機械の説明書のようになっていると感じたことがあります。特に外国語の会話の本を開くと、そうした表現にたくさん出逢います。機能的に整理されているだけで、言葉の奥にあるものが薄れているのを感じるのです。言葉とは言葉にならないものをなんとか言葉にしようという努力の末に生まれたものではないのでしょうか。

再び臨場感について

2021年9月1日

臨場感とはそもそも、その場に居合わせているかのように感じることで、オーディオの世界でよく使われ、ステレオ装置から聞こえてくる音があたかもコンサートホールにいるかのように聞こえる時、臨場感のある音などと言います。

私が言いたい臨場感もやはり同じようなものですが、擬似体験という本来の意味からは少し外れたものかもしれません。文章と臨場感は普通には無縁のものです。普通には感動と言っていいものかもしれません。

 

一緒にいて、気持ちが落ち着く人と、そうでない人がいます。赤ちゃんの場合は実に正直で、抱かれるとすぐに反応します。落ち着かない人の時にはすぐにムズムズし始め、泣き出したりします。

また同じ場所に一緒にいても、印象が薄い人がいます。その人がその場で存在感が薄いとかインパクトがないわけではありません。あくまでも私にとつてということです。言葉を交わしても、隣に座っても、何かが馴染まないような人というのは、結局はその人と出会っていないのだと思います。人と出会うというのは、名刺交換をするとか、物理的なことではないようです。

ずっと一緒にいたいと思える人に時々出会います。どうしてそう感じるのかと問われても答えになりません。

人を好きになる時には、異性であれ同性であれ、そこには特別な空気が生まれます。そばにいてくれて嬉しくて仕方がないのです。その人を理解しているとかいないとかのレベルではなく、嬉しさの中にすべであります。さらにいうと、恋した人と一緒にいる時、その空気は頂点に達しています。シェークスピアはそれを、恋は盲目と呼んだのですが、恋には絶対的な充足感が伴うものです。その充足感が、私が言いたい臨場感です。やはり感動とは少し違います。その人と人生の中で同じ舞台の上に立っているような感じです。

少しはわかっていただけたでしようか。

生きることがシステムの中で機能するだけのようになると、私たちの生活から感動というか、臨場感がなくなってしまいます。機能していることで満足している人は、システムが絶対でシステムに隷属しているので、感動のような自主的な行動から遠ざかってしまいます。システムに恋をしてしまったと言ってもいいのかもしれませんが、システムは社会的地位とか、収入しか保証してくれません。でもそこに恋する人もいるわけです。そして全てがシステム化し、合理的になってしまえば、人間よりも機械の方が効率が良くなり、人間は余計なものという事になってしまい、お払い箱です。なんとなく寂しい結末が待っています。

そういう環境では、人が近くにいても、そばにいる人間にすら機能以上のものを期待しなくなってしまい、感動や臨場感のない人生になってしまいます。そうなると人間性などいうものは余計な邪魔をするもの、ノイズのようなものですから、消そうと努力します。

私は人間性の方に興味を持っています。人間性は何かというと、名刺を作る際に、肩書きのように並べられないものとでも言ったらいいのでしょうか。簡単にいうとそれでは食べてゆけないものです。人間性は経済力が支配するところでは無力ですから、今の経済中心の世界ではなんの役にも立たないものとなり、そこでもやはりノイズのようであり、ゴミ箱行きなのです。

人間性は機能社会、システム社会、経済中心社会で生き延びることはできないと悲観的になることもありますが、しかし私は人間性を信じています。人間性は確かにそこでは生きづらいかもしれませんが、耐え忍んで生き延びていると信じたいのです。そして経済を中心とした社会、システム優先の社会の片隅で、次の時代を待っているのだと思います。

機能、システム、合理性に浸ってしまった社会から抜け出すのは大変です。この三本柱が権力となって、権威として君臨しているからです。しかしそれが滑稽に見える日がいつかくるように思えてなりません。

臨場感があるとイメージが膨らみます

2021年8月30日

最近私のブログの立ち位置を考えます。

別に新しいことを皆さんにお伝えしているわけではないので、今日的需要からすると価値のないものに見えます。

なぜそう考えるのかというと、YouTubeを見ていると、結局はインフオメーションの伝達機関に化していると感じるからです。インフォメーションがどうでもいいというのではありませんが、もっと大事なことは、そうしたインフォメーションを活用しながら自分で考えるということだと思っています。

若い頃、ある人から新聞の読み方というのは、九つの違う新聞を読んで、十番目に自分の考えを持つことなのだと言われたことがあります。イギリス人の新聞の読み方だと後で知りました。もちろん今日のプロパガンダに徹してしまった新聞、メディアのあり方からすれば、そんな考えは時代錯誤で、意味を持たないものになりますが、要するに大切なのは情報は情報だということをはっきり弁え、それを鵜呑みにするのではなく、という基本的なことは時代が変わっても十分通じるもののようです。

 

私もブログに情報的なものを時々書きますが、その時にも、読み手の思考を刺激するものであって欲しいと願って書いています。

読みながら考えていただきたいので、私の講演のように結論がどうなのかとは一切無縁です。時には尻切れトンボだと言われてしまいますが、初めからそれを知っての上です。

しかし読み手に考えてもらえるように書くなんてできるものなのでしょうか。ただ結論を出さなければいいというだけのことではないわけで、まずは読み手をワクワクさせなければなりません。しかも読み手が五十人、百人といるとなると、焦点の絞り方が難しくなります。

とりあえずは自分が書きたいことを書くという事に決めています。それを、ある程度は、他の人が読んでも自分の問題だと感じていただけるように心がけますが、基本は自分の描きたいことです。とは言いながらも、読み手が自分が抱えている問題にオーバーラップしていただけたらと願っています。

自分が書きたい事をというと、とても主観的なことを書いていると思われがちですが、確かにそうした一面は否めませんが、意外と私個人が興味を持っていることを他の人も似たように感じていることがあるものです。私の講演経験から言えることです。大切なのはその主観的な内容を具体的に、できるだけリアルに書くことで、そうすると他の人にも伝わり方がいいようです。私はこれを文章における「臨場感」だと思っています。そうだそうだと同調できるものです。

私の祖父は大の野球好きで、ナイターがある時は決まってラジオで、91歳でなくなるまで聞いていました。テレビで見るより、ラジオの実況の方が野球がよく見えると言って、テレビの時代になってもラジオで野球を楽しんでいました。今思うとこの臨場感だと思います。自分でも野球をやっていたので、アナウンサーの言葉から色々と想像を膨らませていたのかもしれません。祖父に詳しく聞いたら、テレビの実況は映像に頼りすぎでいると言ったかもしれません。

百聞は一見に如かず、と言いますが、言葉の方が映像以上に想像力を刺激するというのも事実のようです。

文章の世界でいう名文は、この臨場感を持っているように思うのです。読んだときに、まるで自分のことのように感じさせる力です。外国の話だとか、源氏物語のように千年以上前のことでも、力のある文章は臨場感を持っていますから、時空を越えて読者に語りかけます。

翻訳で外国文学を読むのは、日本語で書かれたものを読むのとは相当違います。なかなか文章に馴染めないで、途中で諦めたものがずいぶんあるように思います。英語の先生が、外国文学をたくさん読め、それも英語の力をつけるには役に立つ、と言っていました。翻訳の日本語は表ヅラは日本語でも半分はまだ原文なのです。翻訳調というのは半分は外国語だということだったんです。

今シュタイナーの普遍人間学を訳していますが、この問題に常にぶつかっていて、翻訳調を克服して、本意を正確に日本語として伝えたいと願うのです。それが臨場感につながると思うからですが、なかなか納得のゆく訳になってゆきません。内容を伝える事に主眼をおけば、箇条書きでいいわけですが、文章として読むことでイメージが膨らみ、インスピレーションが得られるのだと思っていますから、臨場感のある文章にしたいのです。講談や落語でも臨場感があるかないかで同じ話でも全く違ったものになります。

臨場感のある翻訳が提出できたらというのが今の私の願いです。