2025年12月20日
人生は短し芸術は長し。人の人生は芸術の深みを極めるには短すぎるということです。ここでは人の命を軽んじているのではなく、芸術の深みに達するのに要する長い道のりのことを言っていて、そのためには人の一生というのは本当に短いものだというのです。芸術というのはそれほどに極めるのが大変だということです。
私の歌の先生は「人生が終わりに近づいてようやく歌が何なのか分かり始めた」とおっしゃっていました。技巧的な歌唱力ではなく、歌に対してどう臨むかということのようでした。そして「もう一度初めからやり直したい」とも。
もう一つ芸術を語る上で大切だと思っていることがあります。それは熟成ということです。音楽で言うと、演奏が味わい深くなるのは演奏が熟しているからだと思うのです。成熟すると言うのはただ歳を取ればいいというのとも違います。肉体年齢はさほど問題になりません。早熟の子どもというのはいつの時代にも現れるものです。その子たちは若く幼いにも関わらず、大人顔負けの、あるいはそれ以上の演奏を聞かせてくれます。若く幼くして成熟しているのです。と言うことはその子たちの演奏はすでに完成していると言うことです。歳をとったから演奏が熟す、つまり深くなるのではないと言うのは皮肉です。この問題は興味深いものですが、今日はなぜ若くても熟しているのか、あるいは年齢を重ねても熟さないのかについてではなく、演奏が熟す、芸術が熟すとは何なのかに焦点を絞りたいと思います。
芸術には落とし穴があると思っています。それはある種の自惚であり奢りです。もちろん自分に自信がないと人前て演奏などできません。だからと言って自惚のある奢った演奏ではその人の音は聞き手に届かないものです。この解決には謙虚であることが大事な要因です。謙虚であり、同時に自惚れていると言う矛盾する両面を克服しないと芸術は深みを持たないのです。このバランスのことを別の言葉で熟すと言うのではないかと思っています。謙遜な姿勢が強すぎると控えめなものになってしまいます。引きこもって練習しているような演奏は人前では輝かないのです。自信を持って、聞き手に何かを伝えたいという情熱を持って演奏することが大事なのです。ところがこの自信はすぐに奢りに変化し、自惚に変わってしまいます。そうなってしまっては聞き手は押し付けられているように感じ、引いてしまいます。その演奏も輝いていないのです。
矛盾した両方をバランスよく保つことは容易なことではないのです。成熟を扱う時、やはり歳をとって色々な経験を通してわかってくるものというのが一番わかりやすいかも知れません。そうして両方をコントロールできるようになるのです。それ芸術における自由というものではないのでしょうか。成熟は自由でもあるのです。
自己主張に満ちた自惚れがコントロールされていて、しかも音楽に対しての自信と情熱を経験から学び取って作られたバランスの取れた姿は清々しいものです。新鮮です。いつまでも聞いていたい演奏です。口で言うのは簡単です。しかしその難しさを乗り越えた演奏に触れたときの至福感はこの上ないものです。そう言う演奏は残念ながら滅多にないものですから、それに触れられた時は心の底から感動と同時に感謝が生まれます。一番嬉しい音楽体験は、この至福感からの感動と感謝です。
芸術には宿命的に奢りと自惚がついて回ります。それを意識的に克服しないとなりません。経済の世界にも似たような落とし穴があります。経済は本来は純粋に物の流れであります。もちろんそれに伴うお金の流れが生まれると経済が健全なものとして成立するのですが、どうしても金儲けというものに目が眩んでしまいます。お金儲けは報酬ですから悪いことではないのですが、度を越すと経済という流れに停滞が起こります。お金が一部の人のところに溜まってしまうのです。それは経済における宿命なのかも知れません。優れた経営者や経済学者はここのところを口を酸っぱくして諌めています。
芸術にも経済の世界にも宿命的な落とし穴が潜んでいるようです。奢りと金儲け、よく見ていると両方の根っこは同じところから出ているような気がしてきます。
2025年12月18日
歌舞伎の舞台の上で役者さんの衣装替えが行われることがあります。その時に着替えをスムースにするために黒子という人が登場するのですが、手際よく作業をされるその姿には見る度に感心していました。この黒子のような存在は世界の演劇舞台では例がないもので、日本独特のものとして特筆できると思います。
ミヒャエル。エンデさんはこの黒子に目をつけた劇作家でした。イタリアでエンデさんの劇が上演されると決まった時、演出家としてイタリアで舞台づくりをした時に、黒子をそこで使おうというアイデアが生まれイタリアのスタッフと話し合った結果、やってみようということになったのです。ところがいざやってみるとうまくゆかないのです。エンデさんが日本の歌舞伎の舞台で見た黒子は、そこにいるのに目立たないというのかその存在が全く感じられないくらいだったのです。ところがイタリアの舞台人が黒子に挑戦してみるのですが、エンデさんには納得がゆかないのです。何が問題だったのかというと、日本の黒子はそこにいるのに存在が見えなかったのに、イタリア人が黒子をやると丸見で邪魔になってしまうのです。まるで黒子が主役のような具合になってしまって、困った挙句、日本から黒子を呼んで実際にどういう風にやっているのかみることにしたのだそうです。
いよいよ黒子がに日本からやって来て、舞台の上で衣装の着替えを手伝ったのですが、イタリアの舞台の上でもやはり見えないのです。これにはイタリア人がびっくりしていたそうです。エンデさんが言っただけでは信じなかったイタリア人が口を揃えて「本当に見えない。なぜ見えないのだ」と不思議がったのだそうです。
イタリア人は会話をしている時によく身振り手振りで話します。路上で知り合いのイタリア人に会うと、手にした荷物を路上に置いてしっかりと身振り手振りで話し始めます。この調子で黒子をやったのでは全く場違いです。目立ちすぎます。見えてはいけないのですから、目立たないように最小限の動きに収めなければならないわけです。どんなに練習してもイタリア人に黒子は無理ということで、日本の黒子に舞台に立ってもらったということでした。
黒子に興味があると言うだけでなく、自分自身黒子でありたいと思っています。そんなところがまだたっぷり日本人です。
日本の技術の世界では、黒子的に世界の表舞台には立たず、湯あめいなブランド製品を見えないところでしっかりと支えていることが知られています。ほんの一例ですがNASAのロケットに使われるネジは、日本の町工場で手作りされているネジでなければならないと話に聞いたことがあります。ネジがしっかりと固定するのだそうです。想像を絶するような話です。またまだ数えきれないほど、なくてはならないものを日本の技術が創っているというのは、やはり黒子文化なのだと感じてしまいます。最新のテクノロジーの世界ですら黒子の素質は生きているようなのです。
2025年12月15日
今日テーマにしている倫理、モラル、道徳は工夫をすれば言葉にすることもできます。滔々と説明している人を見かけたことがあります。道徳教育としてそれらをシステム化して教育の現場で授業をしている人もいます。確かに道徳を教えているのです。しかし言葉にしたりシステム化してしまうと何かが抜けてしまうと感じるのは私だけでしようか。そこからは倫理、モラル、道徳の一番美味しいところが味わえないのです。
「ああ言う倫理観のない人とは付き合いたくない」と言うとき、その発言者には倫理というものの手ごたがある程度は確信されていたのです。ただ「倫理観って何ですか」と聞き返されたとして、その人が私たちに納得ゆくような言葉で答えられたかどうかは疑問です。
倫理やモラルや道徳というのは哲学が持つ独特の無重力な状態の中でしか生きる場を見つけられないと私は思っています。フワッとしていて風が吹いたら飛んでいってしまいそうです。筋肉隆々の逞しい人とは違って、風で吹き飛ばされてしまうほどのものです。
倫理、モラル、道徳は社会に存在している力と結びつくことがあります。しかし結ついてしまうと危険です。社会と結びついたと言うのは目的と結びついたということです。この純粋な生き物が道具として使われることになるのです。権力や利権に結びつけられてとんでもない威力の原動力に変わってしまうのです。民衆にのしかかって来るのです。逃げ場がないほど苦しい状況が生まれます。倫理、モラル、道徳という本来は純粋で誰の心の中にあっても、その人の内面生活を支える大きな力となっているものです。ですから社会の道具に仕立てられててしまうと、民衆は抗えないのです。そうなったらもう倫理の「り」の字すら消えて無くなってしまっています。倫理、モラル、道徳と言うのは権力に結びつけられた途端に、非倫理、非モラル、非道徳に豹変され、本来の姿は消えて見えなくなってしまうものなので。
倫理、モラル、道徳が純粋だとして、そんなものは本当にこの世にあるのかと言われてしまうそうです。あると思えばあるもので、ではどこにどの様にあるのかというと、無重力なものの中にしかないものですとしか言えない情けないものなのです。とにかく言葉にした瞬間に姿を消してしまうからです。まるで音楽の音のようで、鳴った瞬間には確かにあったはずなのに、次の音が聞こえて来ると前の音は消えてなくなっています。それでも心の中には残っています。音を書き留めておくために楽譜があるではないかと言われる方もいらっしゃいますが、楽譜は実際には音の死骸の様なものです。そして楽譜で音楽を語ると言うのは解剖した死体の考えはどのようなものがと聞くようなものです。死体からではその人のことに関しては何も言えないように、楽譜からだけでは音楽の本質は語りきれないのです。楽譜はそれでも死体以上で、楽譜から読み取る勉強をした人にとっては音楽にたどり着ける確かな手がかりでもあるからです。
行間の様なものだとも言えます。行間は感じることができる人にしか存在していないものなのです。そんなものはないという人の前では「ない」としか言えないかも知れません。しかし行間から何かを読み取った人にしては行間は存在しているものです。しかし文字になっているもの以外には何も感じない人もいるのです。
倫理、モラル、道徳を語るときには善と悪ということが持ち出されて来るものです。倫理、モラル、道徳はもちろん一般的には善の味方ということになります。そして対極に悪があり、それは悪魔に支配されているよくないものなのです。勧善懲悪ということで、日本人が対好きなテレビドラマの水戸黄門やカーボーイ物語なとは善悪を白と黒に分けて扱い、最後は善が勝ってハッピーエンドとなります。しかし倫理、モラル、道徳はそんな簡単な縮図で説明できるものではありません。もし善と悪というものを使って説明しなければならないとしたら、あえて「善と悪の間に横たわっているもの」「善と悪の間を行き来しているもの」と言えるかも知れません。善と悪の間を元気に動き回れるようなフットワークのことを倫理、モラル、道徳というのかもしれません。根に動いているもののようで、捉えどころがないわけです。写真に収めることもできないようです。見ようとすると消えて隠れてしまうし、説明しようとすると、説明する人の目論みの中で都合のいいようなものに変わってしまうし、人に勧めようとすると押し付けがましいことになってしまうし、倫理、モラル、道徳の正体はつかみどころがないものなのです。
そかしそんなものが何千年もの間哲学という学問の中で生き続けてこられたのには何か理由があると考えていいのではないのでしょうか。何なのでしょう。それは人間に是と悪の間を行き来する勇気があったからなのでしないのでしょうか。そんなものは「ない」と言われても「あります」と言い続けられたのは勇気の賜物なのです。その勇気を後押ししていたのが、倫理、モラル、道徳だったのかもしれません。