独学のすすめ

2018年4月21日

独学は楽しいものと私は思っていますが、向き不向きというよりも出来る人と出来ない人にはっきり分かれるようです。

学校に行って同じことを学ぼうとしているお友達を作りワイワイしながら学ぶ方が向いている人もいます。

有名な先生に就いて教えてもらうのは、それはそれで楽しいものですが、いつも言われた通りにしていなければなりません。

 

独学の魅力は何と言ってもペースを自分で決められるのと、色々と勝手な想像を織り交ぜながらの散策学習で、先生に就いて習っていると味わえない発見のスリルも独学でしか味わえない空気です。無鉄砲といえば無鉄砲で、自己流だし所詮趣味の領域だと言われてしまうかもしれませんが、独創的な発明はいつも独学でものにした人からと相場が決まっています。

 

独学で後世に業績を残した人たちは天才と褒め称えられます。レオナルド・ダ・ビンチの様な天才ですが、そういう天才は一握りの大天才で、稀なる人類へのご褒美で常人の手の届かないところに居ますからここでは深入りができません。ここでは独学そのものに天才的傾向があることに焦点を当てて見たいと思っています。小さな天才たちの話です。つまり私たち自身の話です。

 

天才と独学、別の言葉ですが多分同じことを言っていると思います。ゲーテが「天才とは努力する才能」というとき、それはまさに独学のことを遠回しに言っているかのように聞こえるのです。

天才というと聞こえはいいですが、現実には自分勝手で、無鉄砲の向こう見ずで、破廉恥で、訳のわからないことをしでかす輩のことです。上手く行けば天才で、そうでないとキチガイとなります。しかし天才である所以は前例がないということですから、常識一辺倒のお行儀のいい人からは煙たがられ、馬鹿にされる宿命にあるものですが、人類はこの輩によって前進してきたのです。人類なんて言わなくても、一人の人間もいつもその人の中の天才のおかげで前進してきたはずなのです。

天才というのは何も特別なものではなく、特に小さな天才は一人一人の中に住んでいて、人生をワクワクさせているものなのです。

 

どんな分野でも八方塞がりを体験しないで大成するなんてありえません。モーツァルトは人が「彼は鳥がさえずるように苦労なく音楽を作る」と言っているのを聞いて「私ほど努力した人間を私は知らない」と激しく反発したと言います。彼の恐るべき天才が瞬時に八方塞がりをワクワクしながら克服してしまっただけなのです。まさに大天才というに相応しい人です。

独学は頻繁に押し寄せるこの八方塞がりと戦わなければなりません。常に迷路の中にいるようなものです。先生に就いていれば相談に乗ってくれて解決したりするところを独学は自分に相談しなければならないのです。

 

独学は学びと称した自分との戦いと言えるかもしれません。戦いというより自分の中から生まれてくる問いに自ら答えるという作業です。問いが内側から湧いてこなければ続かないし、今度はそれに自分自身で答えなければならないのです。孤独といえば孤独ですが、当の本人はきっとそうは思っていなかったはずです。自分の中のもう一人の自分との対話に明け暮れていたからです。

 

英語と日本語、そしてドイツ語

2018年4月19日

イギリスという土地にどのような先住民がいたのか知りませんが、五・六世紀頃からケルト人、アングロ・サクソン人、フランス人が次々と海を渡っているため、今日使われる英語という言葉はその人たちの持ってきた言葉が絡み合い、一筋縄ではゆかない奇妙な混ざり言葉になってしまいました。ヴォキャブラリーにしても、発音と綴りの非同一性、例外の多い文法とケルト語とゲルマン系の言葉とラテン系の言葉が一つの言葉の中で同居しなければならなかったのです。

言葉が混ざるとは言っても、色を混ぜるように一瞬に混ざるわけではなく、気の遠くなるような長い時間を要するもので、英語の場合は千年ぐらいかけて混ざったようです。無理を承知で例えれば、それはあたかもりんごとみかんとマンゴーとトマトを混ぜて作ったジュースみたいなものと言えるかもしれません。どんな味がするかと聞かれてもすぐには答えられない味です。一つ一つをジュースにすれば、りんごジュース、みかんのジュース、マンゴーのジュース、トマトジュースとわかりやすい味ですが、それを全部混ぜたら、それぞれの味が引き立てあって最高の味になるかといえば必ずしもそうではなく、それそれの味がお互いに潰しあって、奇妙な訳の分からない味になることもあるのです。もちろんどんな味にしてもそれを珍味と言えば良いわけですが・・。

 

私はドイツでドイツ語で四十年生活していますから、その立場から二つの言葉を比較してみると、英語というのが今言ったように、奇妙なわけのわからない珍味な言葉に見えてくるのです。

ではドイツ語はどんな具合かというと、単純なわかりやすい味のするジュースという感じの言葉です。よく耳にするのは、ドイツ語は難しいということですが、それはドイツ人が自分の言葉を特別な言葉だと自慢するためにそう言っているだけの話で、英語のように言葉そのものの複雑さとは無縁のものだと思っています。

ドイツ語は単純なことをどうしたら難解に表現できるのかと磨きます。そこからドイツ語特有の難しさが生まれるので、簡単に言えることがどんどん込み入ってしまい、その結果ドイツ語は難しいということになるのですが、それは言語からくる難しさではなく、ドイツ人気質の難しさ好みが作り上げたものだと私は考えています。

余談になりますが、バッハがドイツで生まれ、しかもドイツ人がこよなくバッハの音楽を愛し、バッハ至上主義から抜けられないのは、この難しさを好むドイツ人気質のなせる技で、同じドイツ語を喋ったのにハイドン、シューベルトはオーストリア人だったのでドイツ人気質にかぶれることがなかったのだと思っています。

 

英語には、「できるだけ簡略に」という精神があって、表現も簡略化されるわけですが、ドイツ語は逆で「できるだけ難解に」ですから、英語をドイツ語に訳した時に、誤解というか食い違いが生じ易く、挙げ句の果てに、ドイツ人の口癖「英語は簡単だ」となってしまうのです。もちろんどんな言葉でも二つの言葉を翻訳という手続きで結ぶ時には無理が生じるものですが、英語からドイツ語に翻訳するときには特に注意が必要で、翻訳者がで「きるだけ簡略化して言い表そうとしている英語精神」を理解しないでいると、簡略された意味の奥が読み取れず薄っぺらな訳になってしまいます。

去年のノーベル文学賞を受賞したイシグロ氏は小説「日の名残り」で、英国社会に特有の執事の人生を描写したわけですが、そこで氏は英語という言語が持つ特有の複雑さを駆使していて、その複雑さと執事というこれまた特殊で複雑な世界を重ね合わせ、独特の文体で執事の複雑な人生を描きました。私はとても希有な作品だと評価しています。

ところがこのドイツ語訳は英語特有の複雑な絡みを持て余してしまったようで、読んでいると重苦しくなってしまい、もともと執事というものを知らないドイツ社会ですから、この小説の持つ面白さをどう評価して良いのかわからないでいたようで、本はあまり受けず、映画で多くの人が済ませていました。あの文体があの本の命の半分を担っているというのにです。

日本語訳(土屋政雄氏)はそれに引き換えに相性のいい何かを感じました。奉仕する精神に通じるものをそもそももつ日本でも執事の心境が追体験できたことも要因なのでしょうが、英語と言う言語の持つ複雑な絡みが苦なく日本語に移され、しかもドイツ語で読むときには重くなり滅入ってしまったものが、日本語では却って複雑さを楽しめるものになっています。土屋氏の訳業が素晴らしく、私は紫式部の源氏物語の文体をオーバーラップさせて読んでいました。

そこで発見したのが英語と日本語はある共通項があるのではないかということでした。ドイツ語と日本語の間には橋もかけられないほどの溝を感じますが、英語と日本語は「オープンにしたまま言い切れる」と言うところでつながっているのかもしれません。ドイツ語のような鉱物的な鋭角は両方の言葉にはなく、水の流れのような丸みを帯びたところに共通するものがあります。ドイツ語は嘘と分かっていても理屈でごり押ししますが、英語も日本語もそこをオープンにしておきます。ドイツ語にとっては悪い癖と映る曖昧さですから、「ハッキリ言え」と脅かされそうですが、「何でもかんでも理屈で割り切れるものではない」と、英語と日本語は言いたげです。

不器用の美、小津監督と笠智衆

2018年4月10日

器用と不器用との違いは不器用な人ほど痛く感じているものです。

「器用な方ですね」という具合に器用というのは褒め言葉で、不器用はというと全く反対で欠点を指摘されているからでしょうか。

ところがこの正反対と思われがちな位置関係ですが、発想を転換することによって固定しているものから流動的なものに変わってきます。そして思わず、不器用が大事と叫びたくなることもあるのです。

 

不器用ということでいの一番に思い浮かぶのが映画俳優の笠智衆です。

小津安二郎監督が、冴えない役者の集まっていた大部屋から笠智衆を拾い上げたのが事の始まりでした。もしこの幸運がなければ笠智衆というや映画俳優は決して陽の目を見ることのなかった俳優で、生涯大根役者と呼ばれ続けたかもしれないのです。

時代劇から現代ものまでなんでもござれのような役者もいます。メロドラマのモテ男役も嫌われ者の悪役もそつなく演じきってしまう役者もいます。笠智衆からはそういう幅広さは期待できません。本当に不器用な役者さんでした。

しかし小津映画の中で笠智衆は異彩を放って輝いています。その輝きの立役者はといえば、小津監督の慧眼はもちろんですが、彼の筋金入りの不器用にあると私は考えています。

笠智衆は映画の中で与えられた役を演じているのでしょうが、出来上がった映画を見ると、どの役も笠智衆という人間そのままが感じられます。どこかに危なっかしさが漂っていて、まるで日常という現実がそのまま映画の中に収まったような独特な味わいがあり、それが小津作品を芸術の高みに導きます。

小津監督の映画哲学は「日常生活が映画になる」というものでした。それは日常生活の有様を映画の題材にするだけではなく、そもそも作り事で、非日常である映画と日常という現実の間に架け橋をかけることだったのです、さらに日常を非日常化することと言えると思います。日常を報告したドキュメンタリーではなく、また非日常の絵空事を作り上げただけのファンタジーものでもなく、日常と非日常の融合こそが映画の果たすべき役割だと考えていました。

小津監督のこの哲学を実現するためには笠智衆という、悪く言えば大根役者のような不器用さが欠かせなかったのです。映画の中の笠智衆のあまりの不器用さは滑稽でもあります。が却って見ている人に現実の自分の父親あるいはおじいちゃんを強烈に連想させていたはずです。そしてそこに小津映画のみが持つ、映画という非日常的緊張感の中に独特な安心感を作り出したのです。

不器用な人間には素朴さ、朴訥感があります。それ以上にこの不器用さには意外な秘密が隠されています。誠実感です。誠実さというのはこの不器用からくることがあるのです。

小津監督も実は不器用な監督だったのではなかったのかと想像しています。小津映画の持つ透明感は他の監督の映画からは得られないもので、そこを通奏低音のように流れているのが誠実さです。小津映画は、嘘八百をかき集めた非日常の中を誠実さが貫いていることで、何年たっても褪せないのでしょう。不器用に裏打ちされた誠実さのなせる技です。この誠実さ、真面目というのとは違って、なんともほくそ笑んでしまう不器用から生まれた、どうしようもない純粋さです。