2026年4月5日
神さまが全能と聞くと、「これは大変だ」と思うのです。
神様を能力で測るなんてできるのかって思うからです。できるとすれば人間の傲慢でしかないと思うのです。
私のイメージの中の神様は全能どころかむしろ無力な存在です。
何かができるとかできないとかいう考え方そのものがそもそも神離れしていると見ていいものです。
もし「俺はなんでもできる」なんて豪語する人が目の前に現れたら、私は呆れてものも言えなく呆然としているはずです。どこからそんなことを思いつくのかがわからないからです。権力欲の様なものも感じてしまいます。呆然とした後きっとがっかりがやって来ると思います。能力や権力を誇示するなんて私にはどう見ても悪魔的だからです。そんなものを誇示するのは悪魔の所業の一つに過ぎないと思っているからです。
私が「本当に神様は全能なのですか」と聞くと大抵の人は答えに困っています。キリスト教の社会では子供の頃からむそのように教えられている一方で、成人した人なら全能という言葉の持つ意味をあらためて考え直してしまうからです。
宗教は教祖がいて教義があって救いがないと成立しないと言われています。仮にある宗教が「うちの教祖様は無力です」と言ったら信者が集まらないでしょう。やはり宗教という立場からすると、特に現生利益を売りにする宗教でであれば全能というのは最大のキャッチフレーズなのかもしれません。
どの様な理由で私が神様が無力な存在に見えるのかというと、能力主義とか権力主義とか驕りや傲慢といったものを全て手放している存在に見えるからです。神様という存在はそういうものからは測ることができない存在だと思っているからです。神様ってなんの役にも立たない存在なのかもしれません。私にとってはそれでいいのです。それが一番神様らしいというのか、神の証の様に感じています。
「困った時の神頼み」のようなことは私もやっています。その困った気持ちをどこかに向けないと治らないからで、その時には気持ちを神様に向けて心を落ち着かせます。でも見返りは何も期待していないのです。神様がそのために何かをしてくれるとは思っていないと思います。
少し解釈を変えて、全能を「全ての能力超えた存在」とするのなら、「そうです、神は全能です」と言えます。不思議とそれは私が無力と感じているものに限りなく近いからです。神様というのは能力や権力で勝負してはこないのです。無力な神様は私たちにも無力になりなさいと言っているのかもしれません。そうしたら私たちも全能になれるのかもしれません。
2026年4月2日
この二人に共通するものというと、国こそ違いますが生きた時代が重なっていることくらいで、他にはない様です。絵描きさんと作曲家でした。北斎は1760年生まれ、シューベルトは37歳年下ですが早くに亡くなっているのいで、89歳まで生きた北斎が亡くなったのはシューベルト没後21年でした。シューベルトは早逝の天才児でした。北斎は晩成型で70歳過ぎてからもどんどん素晴らしい作品を残し89歳まで生きました。
二人に共通しているものの中で興味深いのは生まれた故郷をほとんど離れていにいことです。シューベルトはウィーンで生まれウィーンをほとんど離れることなくウィーンで亡くなっています。北斎は引っ越し魔でした。93回も引っ越しをしたそうですが、江戸の町から離れることはなかったのです。今とは時代が違うのでヨーロッパでさえ外国は遠かったのですが、それでも芸術家たちは当時でも外国への憧れは強く、多くの外国からの影響に自らを晒していたのです。日本でも故郷を離れた芸術家は多くいました。
もう一つ共通しているのが、出世欲がなかったことです。シューベルトは親しい友人たちを集め定期的にシューベルティアーデと名付けられた音楽の会で彼の歌を披露していました。それなのにシューベルトの歌は、彼の存命中にすでにヨーロッパ各地に広がってゆき、ウィーン以外の土地でも彼の楽譜が印刷される様になっていたのです。シューベルトは死後、彼の音楽は国境を越えて世界に広まってゆき、高い評価を獲得するのです。ドイツのデュッセルドルフにいたロベルト・シューマンがシューベルトの歌に魅了され指導を仰ぎたいと思い立ったときには、シューベルトはすでに亡くなっていたのです。
北斎も似ていて、彼の作品が海を渡って多くの人に愛されるものになるとは考えもしなかったのです。富嶽三十六景の初版というのか初刷りは、今のお金にして200円程だったと言われています。しかし瞬く間に版を重ね、世界見本市に出展する瀬戸物ゆ伊万里焼などの包装紙として海を渡りバリにまで行くことになり、そこでパリの有識者たちの目に触れ、ついにはゴッホの目に止まる様になります。二人とも世界的名声を目指しての創作活動ではなく自分に忠実に作品を作っていったのでした。
今日のように全てが経済という嵐の渦中に放り込まれている時代には芸術も例外ではないわけで、芸術り世界も商品価値という津波に飲み込まれてしまっています。作品が経済効果を生み、芸術家たちの生活が保障されるのは間違ってはいないとは思う反面、天は今でも芸術家を通して自らの心に忠実に生きる生き方を課している様に思えることもあります。芸術というあり方が、物質中心の考え方が限界を迎えるこれからの社会を支えてゆく力になるように思えて仕方がないのです。純粋と自らの心に忠実であるということがこれからの精神修養の要になる様な気がします。
2026年3月31日
ライアーで演奏するのに相応しいものを探しています。
基本的には主張の少ないものという趣旨で弾きたくなるようなものを探しています。
しかしこの観点から曲探しをしていると、ヨーロッパの音楽というのは自己主張の道具になっていると改めて気付かされます。主張の強いものは二小節くらいで嫌になってしまうか、もう少し弾けてもやはり飽きてしまうのです。ライアーという楽器の持つ性格と全く合わないからです。
昔ベートーヴェンなども弾けるのではないかと、軽いノリでエリーゼの為にを弾いてみたのですが全然様にならなくてすぐに諦めました。素直に弾けそうな気がしたのですがライアーの可能性というのか許容範囲を遥かに超えていた様に思います。
主張の強いものというのは、曲が何かであろうとしていることです。私がこれと思うのはその曲が伴奏的なものです。人生の伴奏をしているようなものです。
私はライアーで演奏するとき作品となっているものを弾くことにしています。即興演奏のようなことは今までしてきませんでした、これからもすることはないと思います。作品としてまとめられたものには作曲した人の命を感じるのです。もちろん作曲家たちはそれほど意識して使命だと思っていなかったものだと思います。直感的にサラリと作っていたりしているのですが、そのさらりの中にも命を感じるのです。もしかするとさらりだからこそ命が輝いているのかもしれません。その命と向き合うことが演奏の楽しみで、即興のようにその時の気分で音になっただけのものは、結局は納得できないのです。その時は満足していたのかもしれませんが、後になってみると何も残っていないと言うことが重なったのです。大勢の人と即興的に音遊びをするのは、音による会話を楽しむ様なところがあり、言葉ではない気持のやり取りが面白く感じられるもので楽しめるのですが、一人の即興演奏は後味が良くないので遠慮してしまいます。
ライアーには主張の少ない素朴な作品が合っていると思っているので、その辺りに照準を定めているのですが、なかなか難しいものです。今回も個人的に好きなヘンデルの作品からと思ってあれこれと聞いています。候補は見つかるですが、それがライアーに収まるかどうか。昔クラシックギターで古いスペイン音楽をよく弾いていて、そのあたりのものも候補に挙げています。ただギターとライアーは似ているようでそれぞれに頑固なところがあるので要注意です。1500年代のスペインのものの楽譜を引っ張り出して来て眺めています。もしかするとその中の一つや二つは好奇心の塊ような人だった織田信長が、彼の城に招いて演奏させていたものかもしれません。当時宣教師と一緒に楽士も来日していたと読んだことがあるので可能性はなきにしもあらずです。
当時は音楽の歴史からみると、器楽曲というジャンルが形を成し始めていて、なんとか形として出来上がって来るところです。ファンタジアというタイトルのものがようやく確立したところです。したがってよちよち歩きの器楽曲といえます。まだまだ自己表現の道具にはなっていない段階です。とりあえずはライアー向きと言えるのですが、良い作品に巡り会えることを祈っています。
日本の作品も考えているのですが、今ひとついい出会いがありません。お琴の曲六段はどうかと考えのですが、その昔どう弾いていいのかで悩んでしまったことがあり、今回はパスしようと思っています。よく歌われている唱歌も候補には挙げています。ただよく知っているものというのは聞いている人の記憶と結びついてしまうのでライアーの音を純粋に聞くという効果が薄れてしまいますから、作品はできるだけ知られていないものの中から選ぶ良いにしています。