料理の鉄人から、YouTube料理番組になりました

2021年4月8日

ずいぶん前の話ですが、テレビで料理の鉄人という番組が人気を博していました。グルメが全盛の時でした。有名な料理人が自慢の料理を制限時間内で競い合うという建前でした。限られた時間のうちに目を見張るような料理を作るというところがスリル満点でした。私も何度か見たことがありますが、料理の本質とは遠いいのではないかと、結構懐疑的な聴衆でした。あんなふうに作られた料理はあまり食べたいとは思いませんでした。

裏話ですが、ある知り合いの、有名な料理人も出演のお誘いがあったそうですが、彼から直接聞いた話だと、勝負が初めから決まっているようなので断ったそうです。その話を聞いてからは白け切ってしまい見ることはありませんでした。そのうちに番組も無くなってしまったようでした。世の中の景気も悪くなり、それに比例してグルメに浮かされた風潮もどこ吹く風という感じで、自然消滅したのでしょう。

 

今は料理番組はもっぱらYouTubeに移った感があります。しかも素人の人たちに混じってプロの一流の料理人たちが、奥さんたちを初め料理好きが家庭でどのようにしたら楽しい料理が作れるのかが主要テーマです。グッドアイデアが多く、私も恩恵に預かっています。

今までは美味しいものを食べたいと思ったら外食がいつでも好きな時にできた訳ですが、それがコロナ騒ぎで開店時間が制限されたり、人数制限があったり、最悪の事態としては閉店していたりと、外で食べる機会を失った社会でどのように美味しいものを食べるのかということに多くの人が真剣に取り組んでいるのだと思います。家庭で食事をする機会は昔に比べると何十倍にもなっているわけで、そうした動画配信が家庭で料理を担当している主婦たちを陰ながら応援していることも事実です。それを意識的にされている方もたくさんいます。素材もわざわざスーパーで買えるものにしたりと涙ぐましい努力をされています。

料理だけでなくパンの焼き方の秘訣、簡単にできる美味しい家庭デザート、蕎麦打ちなどもあります。

とにかく料理の基本が家庭に帰ってきたという喜ばしい姿が突然出現したわけです。災い転じてなんとやらという感じです。

 

私がいつも感じるのは、料理というのは実は錬金術のようなものだということです。なんの変哲もない野菜が美味しく煮られてほっぺたが落ちるようなものに変わるのですから、そこにはたくさん不思議が詰まっているはずです。手のひらから金粉を作り出す錬金術の人と同じです。

社会が経済に振り回されて、生活が料理する人がなくなるほど振り回されていた時には、料理は居場所がなく、なんでも手早く簡単にということで済まされていました。じっくり煮込んで料理する時間などみんななかったのです。出来合いのお惣菜を買って食べたりなんて普通の食生活でした。今はありがたいことに時間があります。その時間の中で何かが生まれているのです。その一つが美味しい料理です。

講演会ではよく家庭料理の話をしましたが、今こそ皆さんに、想像力を駆使した家庭料理の絶品を作っていただきたいものです。歴史に残る名品をお皿の上に乗せて(それでも名前のない無名の料理でしょうが)家族で食卓を囲んで欲しいと思っています。

 

ちちんぷいぷい

2021年4月8日

ちちんぷいぷいは私の子どもの頃は当たり前のおまじないでした。

ドイツの生活の中でも、孫が転んだりどこかにぶつかったりぶつけたりした時には必ず唱えでいます。孫達はなんの不思議も感じずにおまじないを受けています。効いたのかどうかは確かめていません。

ドイツには「治るよ治るよご加護があるから(heile heile segen)」という感じのおまじないがあります。これはなかなか効くようで、ドイツ人の間では大切な民間治療となっています。

 

ドリフターズの加藤茶というコメディアンによって「痛いの痛いの飛んでゆけ」というのがテレビを通して流行り始めたことろ、「ちちんぷいぷいのほが訳が分からなくてよく効くよなぁ」と思ったものでした。「痛いの痛いの飛んでゆけ」では全然魔法にかからないので、治らないと思います。やはり日本のオリジナルは「ちちんぷいぷい」でしょう。

 

我が家では、昔からものを移動するときに「てんてんどんどん」と言っていました。何人かで、例えば机などを移動するときの「おまじない」です。ところがすっかり名詞化していて「てんてんどんどんするから手伝って」というふうにも言います。何人かで机を持って「てんてんどんどん」と言って運ぶとなんとなく上手くゆくような気がしたものです。もしかしたら大昔のエジプトのピラミッドの巨石を運ぶ人たちの間でも「てんてんどんどん」のような掛け声があって、それをみんなで口を揃えていうと、石が軽くなったりしたのかもしれません。

 

これらのおまじないは共通していて、みんな意味がわからないのです。知り合いのお坊さんが、お経は聞いていてもたいてい意味がわからないですが、意味がわからない方がいいのですよ」と言っていました。私が若い時に、それまでは漢語でしか読めなかった仏教のお経が、日本語訳されて読めるようになりました。それを読んで「意味がわかる」と大喜びをしたことを覚えていますが、ちょうどその頃に先程のお坊さんの「意味がわからないで、ただ音を聞いているだけの方がありがたいのです」という考え方に触れました。その後の人生経験の中で、私も「お経は音だけの方がいい」と思うようになり、意味が説明されているものが邪魔くさく思うようになったのです。

 

「ちちんぷいぷい」と「痛いの痛いの飛んでゆけ」との違いは、もしかしたら呪術と医療の違いなのかもしれません。少なくとも文化を支えている根本ところにズレが生まれた結果のような気がしてならないのです。

特に大きいのは、言霊への信頼、言葉の響きへの信頼と、言葉は意味を伝えるものという考え方の違いです。この間の隙間の大きさは否めないでしょう。

ところで、次の世代の子どもたちはどんなふうに転んだ時治されるのでしょうか。

 

 

 

井上陽水は「わからない」を生きています

2021年4月7日

不思議なミュージシャン、不思議な歌い手、不思議な詩を書く人。井上陽水という人は実に興味深い人です。そして謎めいたよくわからない人です。

有名なLPアルバム「氷の世界」は歴史に残る歌曲集と呼ぶに相応しいものだと思っています。ですから最高の賛辞で評価したいのです。

井上陽水の手になる歌詞は大抵意味を掴みかねるものですが、それでもどこかでわかるような気がするという、普通の歌の歌詞からは想像を絶するところにある内容です。もちろん直接的に訴える歌詞もあります。若い恋心の綾を表現したものもあります。

 

日本の言葉を巧みに組み合わせ、そこから魔法のような意味が浮き上がってくるのですが、これは井上揚水の発明ではなく、日本語がそもそもは得意にしているものではないかと思っています。そういう意味で井上陽水というシンガーソングライターは日本語の伝統の中にいて日本語の宝庫から彼に相応しい言葉を拾い上げてくる天才です。ということなので、本当は真っ当な日本人詩人、正統派詩人といってもいいのではないかと思っています。その上で、井上陽水からしか出てこないイメージと言葉の組み合わせを楽しむと、却って日本語の面白さ、ユーモアに気づかされることがたくさんあります。非論理的な日本語からしか生まれない魔法です。

詩人井上陽水の大先輩は誰かなんてことを考えてみました。俳句の松尾芭蕉のような、何度も編集し直して言葉を磨く詩人ではないようです。私には万葉歌人の柿本人麻呂が浮かんできます。人麻呂は万葉の時代にも失われつつあった長歌の詩人です。5・7・5・7・7という和歌以前の形です。それだけでなく、枕詞という今日ではただ形式的なものとしてしか理解されていないものを縦横無尽に駆使して、ある時はほとんど「枕詞と被枕詞の掛け合い」だけで歌にしてしまう、名人というのか、狂気に近い言葉の魔術師なのです。

 

井上陽水の詩には社会とか人生の日常からの言葉が散りばめられていますが、全く現実主義者というのではなく、社会へのメッセージでもなく、説教でもなく、写実主義的なもので終わるのではなく、逆に現実から私たちを異次元に放り出してしまい、知らず知らずのうちに私たちはそこにたどり着いてしまうのです。このギャップは俗にいう矛盾などというものではなく、人生がそもそも「わからないもの」だということに帰するのです。

井上陽水が井上陽水である所以は、彼が自ら作曲し、それを歌う歌手だということで、ここから完成することがない未完成が生まれるのです。聞き手からすれば、いい歌だ、完成したものだとなるものでも、作った本人にしてみればいつも未完成な状態にあるのです。

 

今度は井上陽水と比べられる音楽家は誰かとも考えてみました。もちろん彼が若い時に憧れたビートルズを挙げるのが正当なのでしょうが、私にはそれよりも「氷の世界」を作った井上陽水に「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」を作ったシューベルトを重ねたくなる衝動があります。シューベルトは彼の歌を歌う歌手が出てくるまでは、シンガーソングライターで自分で歌っていたのです。そして彼の歌を聞いた友人たちは、その後現れた名の通った歌手の歌より、シューベルトが自分で歌った歌が一番心に沁みたと言っています。今では声楽家たちがドイツ歌曲として立派に歌っていますが、本当のシューベルトの歌はもっとシンガーソングライター的な世界ではないかと思うのです。

 

さて井上陽水の世界ですが、この魅力はなんでしょう。

一つはユーモアです。どこかいつもユーモラスです。それ以上に上等なユーモアに満ちています。深刻なことを歌いながらも、深刻ではないのはユーモアがあるからできる技です。自分自身を笑える余裕はユーモアからです。

あの万華鏡のような言葉の繋がりから、ユーモアによって誰にもちゃんとはわからないのに、みんながそれなりに分っている、曖昧な世界が生まれているのです。しかしその曖昧は井上陽水の言葉の綾にかかって真実を突くのです。