2026年1月23日
今回の日本滞在ではいくつかの講演会が予定されています。札幌、大阪、小郡、広島 そしてさいたま新都心。久しぶりの講演会でどんなふうなものになるのか楽しみです。ライアーも弾きます。
もちろんそのために準備をしなければならないと普通は考えるのでしょう。ところが私は講演会のための準備というものを今までしたことがないので、今回も準備なしで参ります。
ただ一つ準備らしいのが、こうしてブログを毎日の様に書くことです。書いていると思考が少しは働きます。これが準備といえば準備です。言葉への道筋を整えておくことです。言葉は使っていないと退化するものですから、ドイツにいて生活がドイツ語になってしまっているため、日本語が退化してしまいかねません。そこでブログで毎日日本語を使って、日本語で考える習慣を維持しないといけないわけです。ドイツ語の講演の前には、事情が違ってきます。私が好きドイツの作家の文章を力一杯、沢山読んだものです。ドイツ語への道筋というのか、流れを作るためです。日本語のためとなると、自分の中から流れを作れるのですが、私にとってのドイツ語はあくまでも外国語ですから、自分の中からドイツ語の流れを作ることはできません。そのために私の好きな文章を繰り返し読んでドイツ語という外国語である言葉の流れを外から作るのです。
講演というのは、テーマを理詰めで話すことではうまくゆかないものです。それでやってしまうと、箇条書きで済んでしまうので十分か十五分で話が終わってしまいます。短いわりに聞き手はあくびの連続です。そんなもの誰も聞きたくないのです。そうではなく、お話しに流れを作り、その流れの中で話を進めて行かなければ誰も聞いてくれないのです。何よりも流れが大事ということです。講演は活字で印刷されたものではなく書の様なものですから命は流れです。今回もブログを書いて、思考回路の錆び付いたところを修正しています。そうしていると言葉が見えてきます。ブログという書く場所を持たせてもらっていることに感謝です。
もう一つ準備らしいものと言えるのは、ドイツの友人たちと話すことです。ドイツ語ですが言葉ではなく話の内容ですから、沢山話します。つまらない、どうでもいい様なことを話します。無駄話の様なものが返って発想の転換になり、そこから何かが噴出してくることもありのです。講演というのは生き物なのです。講演は生きているのです。
今度は逆にやらないことというのはニュースは見ないことにしています。ニュースを見ていると思考が停止してしまいます。多分今日のメディアのニュースは洗脳だからでしょう。後やることは自然の中に身を置くことです。自然は何も語らないからです。講演で一番大切なのは、自分が黙ることです。公園の中には沈黙が生きていると思っています。沈黙が深ければ深いほど話が透明になってゆきます。黙っていないと話が降りてこないからです。黙って降りてくる話を皆さんと一緒に聞いているわけです。そして時には自分で感動したりしています。沈黙している自然はそれだから講演の目標であり先生なのです。講演の中で自らおしゃべりをしている様な人の話ほどつまらないものはないのです。普段おしゃべりでも講演の時は寡黙な私なのです。矛盾しているように聞こえますが、これが本当の講演の姿なのです。
2026年1月23日
久米宏さんがお亡くなりになり追悼の意味で昔の動画がたくさんアップされています。その中に山口小夜子さんにインタヴューされたものがありました。興味深く見たので報告します。
山口さんは昭和二十五年のお生まれですから私と同じ戦後の余韻のある時代を生きた方です。だからと言って共通するものはほとんどないと思うのですが、インタヴューをうかがっていると、考え方、感じ方の基本的なところに同じ時代の空気が流れている様に思えて仕方ありませんでした。ただし世界屈指のモデルさんと乞食僧です。お話の所々に出てくる禅問答のような不思議な会話の中に彼女の人となりがうかがえて惹きつけられてしまいました。五十七歳という若さでお亡くなりになったのがとても寂しいです。
なぜこのブログに山口さんを取り上げるのかというと、彼女が日本的なものを自分と同一視していたところが、モデルという欧米の影響が強い業界で珍しく、しかもそれをりきむ事なく自然体で貫いたところに強靭な意志を感じるからです。特に信念を貫く人によく見かける、表向きの柔らかさが魅力になっているところです。剣道で本当に強い人は、相手に隙があるように見えるものだと聞いたことがありますが、まさにそんな感じです。どこから打ち込んでも一本を取れそうなほど、一見スキだらけなのです。
久米宏さんの巧みな話術と見事に絡み合っていて、質問をする久米さんもタジタジになる時があるほどの話術を持っているのには、天性の素質を感じます。そなことを勉強したり、習ったりしたのではないところが、生々しくて魅力です。
久米さんに、奇抜な服をどの様に着こなしているのかと聞かれても、服に聞いています、とやんわりと躱してしまうのです。こうしようと思ったら拘りになりつまらないものになってしまいます、という事の様です。側から見ると大胆に見えるのに、本人はそんなつもりはなく、さらりとやっているだけなのが魅力の源泉なのかもしれません。
こんなに期待はずれの答えを返してくる相手はいないという様な顔を久米さんがされているのも一興です。よく散歩をされるそうで、時には何時間も歩くことがあるのだとき。そんなことを久米さんが聞かれて驚かれていました。飽きないのですか、疲れませんか、外を歩いていて目立つのでは、という様なことを聞かれると、まるで素っ頓狂な返事です。私目立たない人間なのです、とさりげなく躱すのです。ここが山口さんの原点の様です。表見は目立たない人が、実は一番存在感を持っているものなのです。偉そうなハッタリを口走る人ほど周囲からは軽く見られているものなのです。政治家によく見られます。ただ本人は気づいていないことが多いですが。
自分で育てた自分が一番強いという事の様です。山口さんはの生き方にはその強さがありYouTubeからでも伝わってきます。天才は道なき道を歩む人ですから、山口さんはまさに自らの道を行き、歩いた後に後世の人たちのために何かを残しているのでしょう。山口さんが残してくれた宝はなんなのでしょう。捉われない自然体、予め決めないこと、先入観を持たないこと、そこから生まれる存在感、そして無限大の可能性。相当直観の強い、どこかでやんわりと悟っていらっしゃる方の様です。
2026年1月22日
ドイツと日本でしか生きて来なかったので、生活に密着した食生活と言うとこの二つの国のことになります。他の国の食べ物については旅行で行ってホテルや外食で食べるだけで、その国の食生活と言えるものに触れているといえばいえないこともないのでしょうが、深みはないです。もちろん表面的にはいろいろな違いがあって、食べる食材、調理方法などの違いは伺えて楽しいのですが、生活に密着していないという点からすると、その国の人が食事しているものを食べているとは言い難いと思っています。食生活をうんぬんするとなると、やはり毎日その土地で、しばらく食べてみないとわからないものだと思います。人間関係もよく似ています。もしかすると全く同じかもしれません。知り合っただけの時は他人ですが、お付き合いが始まりだんだん長くなってくると、初めの時の印象とはずいぶん違つてきます。他人からだんだん知っている人になって行くのですが、その変化は微妙です。そこで初めて気付かされることになるものが山ほどあります。
恋愛の始まりは一目惚からです。一目惚れと言うと色気のあるものですが、哲学、宗教がいう直感です。無駄なものが削ぎ落とされていて、本質に近いところまで一瞥しただけで到達してしまう素晴らしいものです。ですから一目惚れと言うのは、いろいろな状況で活用されていいものなのです。例えば会社の面談などでは、履歴書などよりは、面接に来た人の顔をじっと目見て直感から得たものの方が確かなことが多いものです。
日本的にお見合いなどする時には、相手方の人のことが詳しく調べ上げられたりしますが、その資料からその人のことがわかる部分もあるのでしょうが、やはり実際に会って直感がものを言うほどの距離にいて初めてその人とのお付き合いが始められるかどうかを決められるものです。しばらく付き合って、直感で感じたものから離れ経験の世界に入ると、今度は日常的な雑多なものがつきまとってきます。そのあたりで一緒に生きて行けるかどうかの判断が下せるのです。しかしわかったとは言ってもまだ他人です。結婚して生活を共にするようになると他人が他人でなくるわけで、深く人間関係の層に入って行きます。人間関係は何層にもなっているのです。
その層と言うのは玉ねぎの様なもので何枚剥いても同じ事の繰り返しで、深いところまで行っているのに普段は気が付かないものです。何層も剥いてしまうと最後は玉ねぎがなくなってしまいます。なくなったら悟りの様なものです。全部剥いたら玉ねぎで無くなってしまうわけで、玉ねぎを美味しく頂くのは皮むきをしている途中と言うことになります。悟ってしまうと、味も素っ気も無くなってしまいます。悟ったら、老子が無味の味という様なものの世界に入ってしまうのでしょうか。
私が成田からドイツに帰るとき、早い飛行機の時は空港近くで一泊していました。その時は決まって空港の近くのホテルではなく、成田という駅のちかくに宿を取っていました。そこは成田山新勝寺がすぐ近くにあって、朝の清々しい時間帯に散歩ができたからです。夜もたくさん地域に根付いた飲食店があり、それも楽しみでした。ある朝、本堂の階段を年老いた夫婦が寄り添って登っているところに出くわしました。普通に朝の挨拶をして、「お参りですか」と尋ねると「先日四国八十八ヶ所から帰ってきて今日はその報告に来ました」という返事でした。朝の清々しさに負けず劣らずお二人からの雰囲気は清々しいものでした。九十歳と八十八歳のご夫婦でした。人生のいろいろなものを味わい尽くした清々しさの様なものを感じ、ふとその時、悟りとはこの様なものなのだと頭の中をよぎったのです。
生活に密着した悟りもある様な気がしている今日この頃で、毎日の食事を楽しんでいます。