優しさ、それはシューベルトのようです。

2025年10月20日

優しさ、この言葉を聞いていつも思うのはシューベルトの音楽です。シューベルトの音楽に耳を傾ける人はとても多いです。特に歌は多くの人に愛されています。「歌曲の夕べ」と題して音楽会を開いた時に、会場が人で埋まるのはシューベルトだけなのです。他にも沢山の歌曲を作った作曲家がいるのに、その人たちの「歌曲の夕べ」では人が集まらないのです。これはドイツやオーストリアだけのことではなく、ドイツ語のわからないフランスでも、イギリスでも、もちろん日本でも同じことが起こるのです。シューベルトの歌には人を惹きつける何かがあるのです。シューベルトの歌を聴きたいと思う人が沢山いるということです。

シューベルトの音楽に多くの人が惹かれるのは、彼の音楽がとても柔軟な魂から生まれる柔和な音楽だからです。角張っていないところが彼の音楽の大きな特徴で、まるで水の流れのように滞ることなく滑らかに音楽が進んでゆきます。ここに私は優しさという言い方で言い表そうとしているものと共通するものを感じています。淀みなくということです。

こんなに滑らかな音楽体験は彼以外の音楽からは得ることができないでしょう。シューベルト以外の多くの音楽は角張っていて、とんがっていますから、まるで定規で線を引いて図形を作ったもののようです。良い悪いということではなく、シューベルトの滑らかさ、と他の音楽から聞こえてくる角張ったものという二つの世界があるということです。優しさが滑らかさだとかると、角張っているのは何なのでしょうか。私には自己主張というものと角張っているとは関係していると思えてならないのです。

角張った音がからは物質的なものを感じます。物質ですから硬いという印象もあります。思考の世界でいうと、何とかというメソッドを作ってしまう様なものです。何々イズムの様なものも同様です。そのように形のあるものにすると、外から見たときにわかりやすいという利点があります。そういうのが今日の私たちの思考的習慣の様です。そこが居やすい場所になっているのです。音楽にもそういうものが期待されているのでしょう、音楽の世界では角張った硬いものが高く評価されている様です。

角張った音楽からはお説教のような、こうでなければならないという、人を正そうと言った様なものを感じてしまいます。そう言われることで心が引き締まり、解放される人もいるのでしょうから。その様な音楽が悩み苦しむ魂を解放すると言われるのでしょう。そしてそれは精神を向上させるという言い方にもつながります。精神性のある音楽ということのようです。

シューベルトの音楽には説教らしさは無縁です。厳粛な教えなどないのです。人々教え諭そうとする意志もないのです。ですからシューベルトの音楽に高尚な使命感を感じない人もいる程です。そのことから西洋音楽史的には評価は得られないのです。優しいだけでは西洋の精神史の中では評価が得られない様です。

少し極端に言っているのですが、こうした傾向はずいぶん長いことありました。徐々にシューベルトに対する評価は変わりつつある様ですが、まだ角張った音楽ほどの評価は得ていません。人々の評価は西洋音楽史の習慣の中に居座っているのかもしれません。優しいというのは高尚さと比べると色褪せているものなのでしょうか。優しというのは大したことではないのでしょうか。私にはそうは思えないのです。今の様な時代に一番求められているのは、もしかするとこの優しさなのかもしれないのです。一人ひとりの人生にそっと寄り添っている音楽、一人ひとりの人生をそのまま肯定してくれる音楽、無欲な音楽、無垢な音楽、そんなものは甘えでしかないと言われそうですが、本当にそうなのでしょうか。名声、名誉、社会的評価、ステータスなどが求められている競争社会ですから、仕方ないのでしょう。

シューベルトがプライベートで催していた音楽会、シューベルティアーデに、当時の国立ウィーンオペラで歌っていた有名な歌い手、フォーグルが遊びにきたことがありました。シューベルトの歌の楽譜を見て、シューベルトの伴奏で数曲初見で歌ったのちに、「君の歌にはハッタリが全然ないね」、と言ったと言われています。良くも悪くもなのでしょうが、結構シューベルトの本質をついていると思います。

優しい人に接すると心の深さを感じます。それはとても嬉しい出会いです。偉い人や、有名な人に出会うと心が高鳴る人もいるのでしょうが、私の心は全く動かないのです。私は優しさに一番反応するようで、音楽を聞いてもやはり優しさのあるものに心が惹かれてしまうのです。シューベルトがいてくれて本当に良かったと思うのです。

ゼロと無

2025年10月19日

今所有するものを失うなどというのは誰もが避けたいことのはずです。しかも全てを失うことすらあるとなると、それは悲劇的ですらあるのですが、そこを通ることになった人の人生は、予想に反しで逆転して良いほいに向かうことすらあるのです。

そこはゼロの領域と呼ばれています。殺風景な殺伐としたところかもしれません。ところがそこを通った人は生まれ変わるチャンスがもらえるのです。失うということは費用面的にはマイナスですが、深く考察してみると必ずしもマイナスだとは限らないのです。資産を失って奈落の底に突き落とされた人より、貧困から富を得たはずなのに、それにも拘らず虚無感に苛まされて多くの自殺者が出ているのです。プラスのはずがプラスでないということもあるのです。

このゼロの領域で何が起こっているのかとても興味があります。物質的な意味でゼロになるばかりではなく精神的にもゼロ体験というものがあります。生きながらにして死ぬのですからゼロの体験は死とは違います。学研的な人などは研究が行き詰まってにっちもさっちも行かなくなることがよくあります。研究というのは順風に進んでいるだけではないもので、知れば知るほどわからないことが増えるものだからです。今までの研究が何の意味もないものに見えてくるのです。精神修行もよく似ていて、修行というのはいつも前に向かって進んでゆくものではなく、空地遊分解のような人格破壊が起こるもので、挫折がつきものなのです。ゼロとの対面です。今までの全ての努力が一変に灰埃となって消え去ってしまうのです。今まで住んでいた家が跡形ものなく焼け野原になってしまった様なものです。

ゼロというのは英語のNothingですから、何もないということなのですが、このゼロの領域、ゼロの体験は、それに耐えることができる人にとっては、虚しさのあるところというものではないのです。むしろ富を得る方が、信じられないかもしれませんが虚しいものなのです。突然宝くじに当たって溺れるような何億というお金が舞い込んできた人たちの悲劇的な人生弾は有名です。何億の宝くじから、果ては何十億の借金を抱えた人は一人だけではないのです。ゼロは確かに何もないということなのですが、何もかも失ってしまうとしてもそこには何か不思議な魔法のような力が働いているのです。

全てを失うことから新しいことが始まるのです。これは抽象的というよりも、現実に色々な状況で聞く話です。財産を失ってそこから新しい人生が始まるといった様なことです。健康もそうで。大病をした人間がそれを克服した後新しい人生観を得て再生するのも同じです。地位や名誉を失ってどん底を体験するというのも、ゼロ体験と言っていいものです。

ここでいうゼロというのは、砂時計に例えると一番くびれた所です。そこを通過するときに変化が生まれるのです。つまり砂時計の砂が上にあるときは計るための量で満たされているのですが、その砂がくびれを通って下に流れると、下に溜まってゆく砂は計られた時間を表します。同じ砂ですが、意味が全く違います。砂はくびれを通ったことで変容するのです。三分計の砂時計であれば三分で上の砂は全部下に落ちてしまい、逆に下の器には上から流れてきた砂が溜まって行きます。三分をどちらで計るかは人によって違うかもしれませんが、失われた三分か、つまりマイナスされてゆく三分か、それとも足し算で蓄積されてゆく三分かという違いですが、この違いは同じ様に見えて真反対だという興味深いものです。

持つべきは友

2025年10月16日

孤独は現代社会で大きなテーマになっているもので、政治の場にまで進出して、この問題の解決を試みようとしています。解決策を見つけることも大事なことなのでしょうが、原因がどこにあるのかを考えてみる必要もあります。

孤独がどのくらい深刻なのかというと、孤独死の数が急増していることも驚きですが、一週間の間誰ともコンタクトがなかったという人の数も杞憂増しているのです。華やか文明社会の片隅で沈黙した空間があるのです。

11世紀のドイツに一人の王様が、生まれた子どもが外から言葉を聞かなかった場合、初めて口にするのはなんなのかを知りたくで、親に捨てられた赤子を集めて実験したことがあります。その子たちは言葉らしきものを口にするどころか、三つになるまでにみんな亡くなってしまったのです。着るものも食べるものも十分与えられていにも拘らずです。人間は言葉かけをされないと、言葉を覚えないというレベルでは治まらず、命まで無くしてしまう存在なのです。今はまさにその大人バージョンが現代の文明社会という華やかな中で存在してしまっているのです。孤独は感情的に寂しいという心理的な問題ではなく、深刻な死に至る病なのです。

昔から持つべものは友とよく言われています。しかし困ったときに助けてくれる頼もしい人としての例えが友の様なニュアンスがあります。ある意味打算的なものを感じてしまうので、正直素直には受け入れ難いところがあります。困ったときには遠くの親戚より近くの友達などとも言います。お金に困った時などを想像してしまいます。

現代では友の意味が少し違っています。日常生活に困っている時の助けになる友ではなく、話し相手になってくれるだけでいい友なのです。言葉を交わし、心を通わせることで命を繋いでくれる存在としての友です。言葉を交わすだけで人間は命を保てるというのはもう既に証明済なのです。

お金持ちが貧乏のどん底に落ちて自殺する、そんなケースは容易に想像できますが、実際には貧乏から抜け出して財産を築いた人たちの中の自殺者の方が圧倒的に数が多いのです。金持ちになり、社会的ステータスが得られても、そこは虚無感で満ちているからです。お金が沢山あっても、周りに競争相手ばかりで、心を許せる友が居ないと知るときに感じる虚しさほど辛いものなのでしょう。

孤独死の九割が男性というのも衝撃的です。男社会と言われ、未だに、特に日本では女性の社会的地位が低いことが指摘され、弱者としての女性像が強調されていますが、孤独死の数字をみる限り、弱いのは男性で、女性ではないのです。社会的地位というのは究極は打算的な損得の世界の産物です。そこには真の人間性は微塵もないのです。利権のしがらみのような中で地位にしがみついているのですから、定年退職してその地位から外されば、その時点で人間としての価値も無くなってしまうというシステムの中で男性たちは孤独を味わうのです。男性社会には女性社会を賑わせている井戸端会議的なコミニュケーションの取り方がなく、制度化され、機能的に処理するものばかりで、その成れの果てが孤独死とも言えるのかもしれません。

打算のない友達付き合いを持っている人は幸せです。今持てはやされているAIが欲しくても持てないものなのかもしれません。AIが歯軋りをして羨ましがっているのが想像できます。計算ずくのAIの世界にはない、損得勘定から外れた、純粋な人のつながりが友達付き合いの中には見出せます。無駄なような、意味のない、ただいてくれるだけで自分から自分以外のものを引き出してくれる存在が人間は必要な様です。