2025年6月6日
人が死を迎えるのは、仕事や何かで頑張っている時ではなく、ふと気を抜いてリラックスしたときらしいのです。
確かにごく日常的にもリラックスしたときに今まで隠れていた疲れがどっと出て寝込んでしまうことがあるものです。このところ我が家の庭の木や草が大変な勢いで生育して、手をつけずに放っておくと瞬く間に鬱蒼としてくるので、天気も良かったので、庭仕事に励んでいたのですが、暫くぶりの恵みの雨で小休止と決め込んだのはいいのですが、力が抜いたら途端に疲れが腰に出て、まるでギックリ腰にでもなったような状態になってしまい難儀しました。今はまた庭に呼ばれるようになり、動き始めたら、知らずのうちに腰の痛みは抜けて楽になりました。
リラックスというのは意図的にしようとしてもうまくできないものです。声のワークショップをしているときに、体の「リキミや緊張」を抜いてリラックスしてくださいというと、参加されている方達はリラックスどころか、かえって変に緊張したような不自然な姿勢になったりしていました。
意識して何かをするというのは普通に考えると上等な精神状態のような気がするのですが、人間は意外と不器用な存在で、適当に意識していればいいものを、意識しようとするとすぐに意識過剰になってしまうもののようです。人間と意識というのはなかなか組み合わないというものなのでしょうか。
反対にリラックスというのも苦手なようで、どこかに無駄な力が入って緊張してしまうようです。人間というのは意識も下手、リラックスも下手ということですから始末の悪い生き物のなのです。動物なとを見ていると、人間より遥かにリラックスが上手で、彼らには肩こりなとないだろうと思ってしまいます。とくに猫などを見ていると頭の先から尻尾の先までリラックスしっぱなしのような感じで羨ましい限りです。
昔日本中を講演して回っていたとのことです。一週間以上毎日違うホテルに泊まっていたりしていました。ホテル住まいになってしまうと毎日違うベッドで寝ることになります。あまり神経質でないので、その辺はあまり気になりませんでしたが、困るのは食事です。外食が続くとふとお茶漬けでも食べたくなるような感じです。
美味しい料理というのは、「外で食べているのに、それのことを忘れさせてくれるような料理」だと発見しました。ホテルの合間に自宅に泊めていただくことがあると、家庭の雰囲気の中で食事ができてホッとするものです。もちろん私はお客さんなので、日常の家庭料理とはいえ、その日は家庭料理の豪華版のようなところはあるのですが、それでも和んだ雰囲気の中でホッとできるものです。美味しいとか美味しくないというレベルではない食事でした。
レストランの中にも、外食していることを忘れさせてくれるようなものがあります。高級料理というものとは別のものです。高級料理というのは色々と講釈ついているもので、それを聞かされながら食事していると高級食材といえど食べ物が喉を通らないのです。挙げ句の果て、胃袋の中で重たいのです。あるとき、新潟での講演の折に、「これからお食事を持ってゆくのでホテルで朝食をしないでください」と朝一番に電話をいただいたことがあります。暫くするとフロントから「お客さまがお見えになっております」と電話があり、下に降りてゆくと、二つの重箱に炊き立てのご飯と筑前煮と何種類かのお漬物がぎっしり詰まっていました。そして魔法瓶にはお味噌汁まであったのですが、流石にホテルの朝食会場で食べるわけにゆかないので、部屋に持っていって食べました。当然レストランもコックさんが作っているのですが、その時のお手製の朝食は何かが違うのです。講演会のお世話をしてくださっていた方のお母さんが「仲先生はいつも外の食事ばかりだろうから、明日は私が煮物を作ります」と早起きをして作ってくださったものですから、私個人に特別に作ってくださった世界に一つしかないお弁当です。美味しいというだけでなく、それを通り越して体に馴染じんであっという間に平らげてしまいました。食べ物がこんなに体をリラックスさせるものだということを実感した嬉しい体験でした。美味しいというのは、調味料、旨味という味覚の問題だけではないようです。
広島の四日市に中華の曽苑というお店があり、今は無くなってしまったのですが、そこのご主人が「仲ちゃん、最近どんなものを食べてきたの」と聞いてくれて、私が食べてきたものを色々と挙げると「じゃあこんなものを作るか」と言って、いつも私の体が欲しがっているものを見繕って食べさせてくれました。その方はかつて大きなレストランの総料理長を歴任された方で、中華の最高峰「満漢全席」を作れるという方でしたから、なんでも思うように作れる方でした。手早く作られた彼の料理を本当に美味しいと思いながらいつも食べさせていただきました。美味しいを通りことしていたようです。美味しいというのは味覚の問題ではないようです。
自力でリラックスというのはなかなかできないのですが、そのような形で体がリラックスする状態を、恵まれた食事を通して体験させていただきました。今でもその時の満たされた幸せ感をよく思い出します。そしてその度に体が軽くなるのです。
2025年6月5日
ずいぶん前から講演会では必ずと言っていいくらい、もちろんテーマとうまく流れが追うときにですが、家庭料理の偉大さについて述べてきました。
今日のように外食やグルメ料理が持て囃される中で家庭料理はほとんど顧みられないものになっていますが、私は家庭料理の中で子どもたちは、味覚を育て、さらには食卓を囲んでの食事を通して生きる上でのマナーを学んでいるので、人生の中の基本が食生活を通してなされていることを境地ようしてきました。
特に味覚は特殊なもので、毎日食べ続けることで、家庭の味を通して味覚が育つのです。そうして家庭の味をしっかりと味わいながらその味が体に染み付いているものです。四十過ぎるとお袋の味が懐かしくなると言うのは、子どもの頃に毎日食べた味のことだということです。家庭で食事をすることで、味覚だけでなく、食卓を囲むことで人格の芯の部分までもが育成されていると言うことです。
家庭料理が大切、これはなんとか理解されるようなのですが、家庭の味と料理人の味は違うレベルのもので、グルメは家庭料理とは別格のものと思ってしまいがちですが、偶然にも最近、割烹料理の板前シェフの野崎洋光さんのYouTubeを見つけて、意を強くした思いがしたので、彼の料理哲学のようなものをここに紹介します。野崎洋光さん動画です。家庭の和食という感じです。
野崎さんに感動したのは、彼がいうところの「今はなんでも美味し過ぎる」という観点です。私自身今までは、どうしたら美味しくなるかとばかり考えていましたから、目から鱗でした。「美味しいものはすぐに飽きてしまう」と言うところも新鮮で画期的な言葉です。野崎さんは福島の田舎で育ったということですが、修行のため東京に出てきたときに、東京の味が濃かったのだそうです。旨味を効かせ過ぎていたという感じです。。田舎では取り立ての美味しい野菜を、野菜の味で食べていたから、東京の味がきつかったのだと言っていました。美味し過ぎるのが今の時代の料理だと言い切るところは、まさに盲点をついていて、そこから色々なことを考え始めました。
例えば音楽なども、現代の演奏家達はうま過ぎるのではないか、と前から思っていました。現代は世界の至る所で、数えきれないほど多くのコンクールが行われています。若い人にとっては登竜門として将来の仕事へとつながるわけで、音楽で生計を立ててゆくためには必要なプロセスなのでしょうが、賞を取るかどうかが音楽の良し悪しとしての基準になるとすると、音楽が点数で評価されてしまうような気がしてきて怖いです。芸術といものの本質から外れてしまうのではないかと思うのです。
グルメが意外にも合理的な考え方の副産物なのではないかということに気づかせていただい野崎さんの動画に感謝です。野崎さんの料理への姿勢は、料理はレシピという考え方からも解放され自由になっているように感じました。シュタイナーの口癖の、人智学を料理のレシピのように考えないでくださいという所にも通じているような気がしました。
ますます皆さんに機会を作って家庭料理の大切さを伝えたくなりました。
2025年6月2日
子どもの頃にイソップの話はたくさん聞かされたように記憶しています。出典は古代ギリシャですから、人類の歴史の中を長く読み継がれてきたものと言えそうです。
それらを大人になってから思い出してみると、意外と教訓がましいところが鼻につき、説教くさい話だと疎うようになりました。
説教的な行為は人間の性と言っていいものなのでしょう、特に大人が子どもに接するときに一番顕著に見られるものです。教え諭すという風潮で、それで世の中がまとまると考えるのでしょう。
しかし説教というのは決していい後味を残さないものです。神職にある人、僧侶、教師、警察官とかいう説教を職務としたものがあります。ところが、尊敬できる神職の人は説教をしない人ですし、尊敬される先生はやはり説教がましくない人で、それどころか子どもの話をよく聞いてくれる人であるし、頼りになる警察官ということになれば、人を見れば犯罪人というところから離れている人です。余談ですが、今あげた職業を親に持った子どもたちというのは、皮肉にもさまざまな教育場面で問題を持つ子どもたちであることが多いのです。
説教的な話とか、教訓話という類のものは、一見倫理的道徳的に見られため、教育的な効果のあるもののように見られがちですが、実は思ったほどの効果が得られないものだと思います。私の経験で言えば説教・教訓話は独特の後味を持っていて、決していい後味とは言えないどこかべっとりしたものが残るものです。決してまた読みたくなるものではなく、かえって「またか」と反発してしまうものです。文学的な世界では教養小説のようなものもどこか説教くさいものがあるものです。文学が芸術であろうとするときには、そうした説教世界から離れるものです。説教せずに人類を導けるのです。説教以外に人を導く力があとということを知って初めて芸術のレベルに至るので、かえって規制の考え方を破壊するものであったりしますから、常識的に考えている人たちからすると危険な考え方、感じ方でもあるのです。芸術というのは既成概念との摩擦から生まれるものでもあるということです。
古来読み継がれている説教話は人を規制の中に収めようとするところがあります。イソップが当時の古代ギリシャの中の奴隷階級の人であったことがイソップの話の根幹にあるのかもしれません。規制的なものを破壊するのではなく、その中にキチンと収めておこうという意図が働いていたのかもしれません。教育学という意味のPedagogyという英語は、ギリシャ語のpaidagogeから来ていて、元々の意味は奴隷の子どもたちの引率ということです。子どもを正しい仕事の所に引率する係のことです。社会秩序を守ろうとする考え方かもしれません。それが教育であり戦線という人の仕事だったのです。
現代は新しい秩序を見つけようとしていると言えるのかもしれません。そのためには秩序の崩壊が必定ですから、今はとんでもない混沌とした社会状況が私たちの周囲を取り巻いています。そういう時代背景からすると、やはり芸術という奔放なものが大いに力になるのではないかと考えるのです。今までの延長に未来はないということだけは確かのようです。新しいというのは形だけでなく、中身も新しくなければならないわけですから、そこが今の時代の産みの苦しみなのかもしれません。
それなのにYouTubeには最近説教話が頻繁に登場しています。いくつか見ましたが、後味はやはりべっとりしてして、本当は何が言いたいのかがよくわからないものでした。お説教的なもの、教訓的なものはやはり表面的な人間理解で、人間存在の深い真理を追求するものではないようです。真理に至るにはある意味で崩壊が伴うものです。芸術はそんな中で生き延びられるものです。音楽を聞いても、絵画や彫刻にしても、どこに行こうとしているのかが見えてこないものだらけですが、だからこそそこに現代ときな意味があるのだと私は考えるのです。
シュタイナーが教育は、奴隷の子どもたちの引率係ではなく、芸術だといった意味を深く考えています。ただ芸術の授業をするということではないのです。教育には新たしい時代を作る力があるということです。新しい子どもたちを世に送り出すことこそ、教育の課題です。まさに芸樹としての自覚を持った教育にしかできないことなのです。