未完成交響曲を聴く

2024年4月15日

こんな音楽は世界に一つしかない、私はこう断言します。

こんなというのは奇妙なというのか比較しようがないというほどの意味です。実はもっと深い意味をお伝えしたいのですが、そこに触れると今はかえってこんがらがってくるので、ここまでにしておきます。

交響曲の形式から見るとこの作品は未完成のまま残されています。だから未完成というニックネームが冠されているのですが、音楽としてみればこれほど完成度の高い交響曲はないと思っています。

またこの曲は紫金石のようなところがあって、聞いていると、指揮者とオーケストラの力量、それに両者の息がどれほどあっているのかがよくわかるのです。そうかというと、アマチュアの、しかも青少年のオーケストラのような初心者が演奏しても、なんとなくまとまって作品らしく聞こえるのです。こんな交響曲は他にありません。なんとも不思議です。専門的にいうと、こんなに複雑に、目まぐるしく転調している音楽は珍しく、そこを理解して演奏している演奏を探すとなるとわずかしかないかもしれません。

 

音楽にそんなに通じていない人は、なぜ一つの交響曲にこんなにこだわるのかと不思議に思われるかもしれませんが、音楽というのはそこに作曲した人の人生が凝縮しているからです。芸術というのは、音楽に限らず例えば絵画を例にとると上手に描けているかどうかなんて問題ではなく、そこに画家の人生が凝縮しているかどうかが問題なのです。絵画だけでなく、芸術の不思議はそこにあると思っています。芸術には人生が縮図となってなあるのです。

未完成交響曲の不思議はシューベルトという作曲家の人生の不思議でもあります。私はシューベルトの伝記を何冊か読んだのですが、特にこの人物に関しては伝記のようなものがあてにならないという印象を持っています。シューベルトは音楽から彼の謎解きをしなければならないのだということです。

彼の音楽は、無重力です。もともと音楽は物質的なものとの関係が薄いのですが、彼のと特徴を言い表すには白昼夢のような形容によく出会います。確かにそういうところがある、ベクトルの定まらない音楽なのです。

未完成の演奏は演奏する人たちがこの無重力に吸い込まれてしまうと、印象の薄いつまらない曲になってしまいます。かといって無理やり地上に引き摺り下ろしたような演奏でもシューベルトの音が硬くなってしまい、シューベルトの音が聞こえてこないのです。無重力を無重力として認めることができないとシューベルトはグロテスクになってしまいます。この意味で不思議な音楽家で、長いことシューベルトの音楽は、音楽愛好家たちからも理解に苦しむ、演奏の仕方がよくわからない作曲家だったのです。シューベルトへの評価は最近になってやっと定着したのです。

友達の中にいい奴なんだけど、どう付き合ったらいいのかわからないというタイプがいるとすると、そんな感じです。いい音楽で、大好きなのに、いざ演奏するとなるとどこに焦点を合わせていいのか見当がつかないという代物です。

先生をしている方の中には、どのように付き合ったらいいのかわからない生徒がいるようなものです。理解しようとしても無理ですから、慣れるしかないのかもしれません。

私はシューベルトの未完成交響曲と長いこと付き合っていますから、習うよりも慣れろの段階はクリアーしていると思います。ですからもう少し深いところが知りたいのです。

こんなふうに感じています。

シューベルトはこのような音楽を残すことができたわけですが、それは同時に未来に向けて一つの財産を残していったということでもあります。それは課題と言ってもいいのかもしれません。この後何百年も音楽はシューベルトの未完成交響曲から栄養をとることができるような気がしならないのです。シューベルトは今始まったばかりの音楽の世界の入り口に立っているのです。

サハラ砂漠とシューベルトの未完成交響曲

2024年4月13日

友人の一人に、三年に一度はサハラ砂漠に出かけるのがいます。

彼に「砂漠の何がそんなにお前を惹きつけるのか」と聞いたら、「塵一つない世界だ。驚くほど純粋な自然だ」と言います。

そしてお気に入りのサハラ砂漠のことを少し話してくれました。

サハラの砂は砂粒などではなく、はるかに細かくうどん粉みたいで、一度嵐になればそれはただ脅威と呼ぶしかないものに変わってしまうほどのものなのだそうで、特にうどん粉の砂はどんな隙間からも人間生活に忍び込んで来るので、嵐の後は車の中は粉の砂だらけになってしまうらしいのです。しかしラクダの目は瞼を閉じると嵐の時にも砂は入ってこないというので、自然は自然をよく知っていると言います。そして嵐が過ぎれば再び塵一つない純粋な自然が目の前にある。そんな自然の姿から彼は生きる力を貰うのだと言うのです。

話を聞いていて目の前に初めて壮大な砂漠が純粋な自然として広がったのでした。そしてこの話を聞いたときに、シューベルトの音楽を思い浮かべていました。「未完成交響曲」が頭の中に響き渡っていたのです。

友人から聞いた「砂漠は塵一つない純粋な自然」という言葉はショックでした。それまで私が抱いていた砂漠のイメージとはかけ離れていたからです。なぜシューベルトの未完成交響曲が重なってきたのかは、私自身にとっても正直唐突でした。今思うと「純粋な自然」というイメージだったようです。普通シューベルトの音楽からイメージする自然は砂漠ではなくもっと緑のあるオーストリアの自然だと思うのですが、未完成交響曲だけは違って緑豊かな自然ではないのです。それがこの曲を聞く時いつも不思議でした。綺麗なヨーロッパの自然ではなく、もっと純粋な自然、ある意味過酷な自然だったのです。友人の話の中に見たサハラ砂漠のような自然だったのです。

未完成交響曲は人間の心の窓からそっと忍び込んで、心を満たしてしまう不思議な音楽です。

(さらに…)

ユーモアが欠けると真面目になる理由

2024年4月5日

ユーモアと真面目とは水と油です。

一見反発しあっている間柄のように見られがちですが、本当はもう少し深い因果関係を持っているのです。

真面目な人がユーモアを欠いていることは世の常識です。これについては今更説明の余地などないのですが、一つだけ押さえておきたいことがあるので書いてみます。人間からユーモアを引いたら真面目が残るのです。単純な引き算です。真面目と言うだけでは人間不完全だと言うことです。ユーモアが備わって初めて人間は完全なのです。

 

悲劇は地球からユーモアが消えたところから始まったのです。地球はその時から真面目が支配するようになります。真面目一辺倒になってしまったのです。ユーモアが消えたと言うのはこういうことです。かつて地球にはエーテルという力がが満ち満ちていてそこからたっぷりと栄養をもらっていたのです。1850頃からエーテルの力は地球から離れ始め、宇宙に帰ってしまったのです。なぜエーテルの力が消えたのかはわかっていません。

エーテルの力に満たされていた時、地球はユーモアの溢れた星でした。ユーモアと言うのは水のことですから、遠回しに言うとエーテルの力のおこぼれのことなのです。エーテルの力がなければユーモアは枯渇してしまうのです。ですからすでに百七十年も前からエーテルの力がなくなってしまった地球には悲劇が訪れたのです。ユーモアはその時以来壊滅状態なのです。

ユーモアがあった時、言葉にも輝きがありました。言葉遣いが上品でした。エーテルの力がなくなってから言葉は以前と比べものにならないレベルのものに成り下がってしまいました。言葉ではなく単なる記号で、昔だと用を達すのに使っていたような単純で乱暴な言葉になってしまったのです。こんな言葉で会話していたらすぐに喧嘩になってしまいます。ユーモアの時代はのんびりとした上品な言い回しを楽しんでいたようです。

エーテルの力は再び帰ってくるのでしょうか。

それはないでしょう。

帰ってくることを期待するより自力で作ればいいのです。その方が現実的です。私たちの意識を肉体から解放すればいいのです。でも幽体離脱のようなものではなく、意識の中でエーテルの力が湧いてくるのをイメージするのです。そしてエーテルの力が湧いてくるまで、ただただ待てばいいのです。

エーテルの力とは海の水のようなものです。

この待つ力の中でユーモアが湧いてくるかもしれません。真面目な人はどのくらい待てばいいのかなんていいそうです。待つのが下手なんです。