二元論ではなく三元論

2025年12月5日

宇宙は意識から成り立っている。こんな言葉をシュタイナーは第五福音書のなかで言います。

ただここで言われている意識をどのように捉えたらいいのかは千差万別で、解釈は人の数だけあるのかも知れません。ですから意識という言葉を聞いたからと言って安心できるものは何もないということです。意識は謎に満ちているので、今日学問的な分野でいろいろなアプローチがされていますが、その正体は未だ解明されていません。

意識の持ちようで、目の前の風景が変わってしまいます。健康か病気かが逆転してしまいます。病気というのは意識の手のうちにあるものなのでしょうか。こう考えると意識というのは状況を変えてしまう魔法の力のような大変な力を持ったもののようです。

日本では昔から、病は気からと言うわけですから、意識と気とは同じとも言えます。日本人には意識というより気と言ったほうが親しみがあります。ところがこの気というのもよく分からないものですから、意識と気で面食らっていると二重の迷路に迷い込んでしまったようなものです。

急に意識がなくなるということは珍しいことではありません。貧血で意識がなくなることもありますし、手術のために射った麻酔の注射が原因で意識が戻らなくそのまま亡くなった母の友人のような例もあります。交通事故で頭を打って意識不明のまま何年も生きていた方も知っています。植物人間というような言い方もされていました。外に反応することも意識があるからなのです。ただ条件反射は意識とは少し違うもののようです。また意識について語る時には無意識という双子の片割れのことも考慮に入れないとまずいようです。

気がついているということが意識があるということでもあります。意識的にそこを通らずに来た、と言えば意図的にという意味です。何か重要な選択を迫られている時、考えても結論が出ないので無意識からの力に任せたという時は頭で決めないで腹で決めたなんて言います。意識は頭にあって無意識は腹にあるのでしょうか。無意識の方が自分のことをよく知っているとまでいう人がいます。意識というのは実に目まぐるしく私たちの日常生活の中を変化しながら出没しているもののようです。

私は音楽を聞くときぼんやりと聞くことにしています。一生懸命聞くこともたまにはありますが、遠くでまるで自分と関係がないかのように鳴っている音楽を聞くのが好きです。その時に一番その音楽のことがわかって聞いているような気がします。ガツガツになって聞いたからと言って、音楽は理解できるものではないのです。音楽が無意識、意識下と深い結びつきがあるためだと思うのですが、芸術というのは往々にして意識して接している時より無意識的にぼんやりと感じている時一番本質に近づいているのかも知れません。建築などもぼんやりと空間の中に身を置いたときにその空間が語りかけているものを聞いているものです。芸術の鑑賞に一番相応しいのはぼんやりだと自負しています。芸術史などをしっかり勉強して膨大な知識を詰め込んだからといって一枚の絵や今いる空間がわかるものではないのです。そのようにして知識や情報で分かるものというのは、他の絵と比べるときだけ有効で、一枚の絵の前でその絵からのエネルギーを感じている時には、芸術史の知識はほとんど役に立っていないものです。

私たちの生きている時代はうまく整理がつかない、なんだか混沌としているような収まりの悪さ感じます。かつて二元論という考え方が支配していた時代とは、少し違うものがあるように思っています。二元論は物事を二つに分けて整理します。白黒をはっきりさせるのです。イエスかノウかです。善か悪かと言った具合です。今は二つではなく三つに分かれているのではないかという気がするのです。三つ目がどのように働くかは一様には言えないですが、例えば子は鎹(かすがい)というとき子どもが夫婦という二極をうまく繋いでくれているということです。善と悪の間にもう鎹があるような気がするのです。グレーゾーンと捉える人もいるかも知れません。曖昧なものとも言えます。二元論ではなく三元論になったことで、整理が付きにくくなってしまったことは事実なのですが、三つ目が登場したことで無意識は活性化されたようです。二元論の時には極論しますが、考えれば結論が出たものです。はっきり結論が意識できたのです。しかし三元論では考えただけでは結論が出ないことが多く、混沌とした状況が多いようです。そんな時ぼんやりが有効になってくるようです。芸術が活躍する時です。学問も芸術的になり、科学も芸術的になり、哲学も教育も芸術的になるのです。

そしてこのぼんやりの中に直感が舞い降りてくるのです。

 

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