神は細部に宿る
高級な急須が作られる過程を動画で見て驚いたのは、相当の部分がコンピューターでコントロールされて機械で作られていることでした。自動車づくりがロボット化というのかコンピューターでコントロールされていることはいろいろな映像で見て知っていましたが、急須の様なものまで機械で、しかもここまで作られているとは想像だにしていませんでした。
粘土を捏ねるところ、急須の型に入れる粘土の量、もちろん粘土の水分などもキチッと測定されています。そのため出来上がる製品は安定した品質を維持できるのです。
もう一つ驚いたのはロボットは全てを完成させることができないということでした。ロボットの限界を超えた仕事をしているのは人間だったということです。急須の注ぎ口を急須の本体に繋ぐ所は人間の手に頼らざるを得ないものなのです。その時に思い出したのが今日のタイトルにした、「神は細部に宿る」でした。人間の手の技は機械で大方を仕上げた後の神の手の様な気がしたのです。精密な所は人間の手がするのです。
今日の社会を見ると、生きるということが型にはめられてしまっている様な気がしてならないのです。教育にも原因がある様に思います。教育は人間を社会が求めるものにするために型に嵌めてしまいます。しかしそれだけでは人間にならないのです。最後はやはり人間が仕上げないと人間にならないのです。その人間はやはり自分です。自分らしさというものです。個性と言ってもいいものです。人間とは一般化できないものなのです。一般化しようとしたところで余りがててしまうのです。だから人間なのです。そこは誰が作るのかというと人間です。人間は結局は人間によってつくられるということなのです。ここでは人間、自分と言っていますが、もしかしたらそれが神なのかもしれません。
ライフーを弾いていると、このモノづくり、人間づくりがそのまま当てはまると感じます。作品を楽譜でさらいます。指遣いなどもマスターしながら楽譜通りに弾けるまで特訓をするわけです。もしそこまででいいのならな、音楽は今日まで引き継がれることはなかったと思います。それはロボットで型に嵌められて作られた急須の様なもので、音楽らしいもので細部が欠けているのです。最後の仕上げがなされていないのです。楽譜をマスターしただけで人前で演奏しても聴衆は満足していないのです。それで演奏家が満足していたらその演奏家はしばらくすると聴衆から干されてしまうはずです。楽譜以上でなければならないのです。楽譜が弾ける様になるまででも大変な努力が必要ですが、一つの作品が音楽となるのはそこからなのです。演奏家の人為(人となり)が加味されることで初めて生きた音楽になるのです。しかしそこにアクの強い個性を盛り込んだり、自己主張が出しゃばったりすると逆効果で、せっかくの音楽が自己主張の手段になるだけで音楽ではなくなってしまうのです。楽譜だけなのか、あるいはそれ以上なのかというところが音楽的評価の境目なのです。
そこまで頑張ったとしてもまだ作品が本来演奏してほしいものとの差はあるものです。その差を取るのが悟りだと言った人がいます。語呂遊びとは思えないほど真に迫っています。そこはもう人の力を超えた神の領域の様な気がします。人知を尽くして天命を待つと言った気分です。






