東洋の音楽の未来

2026年3月20日

西洋と東洋という分け方が正しいのかは別として、西洋思想と東洋思想とを比べてみると、どちらにも優れた特性があり両方を知ることで人生観が、更には宇宙観が深まります。特に近年に至って西洋からの積極的な東洋へのアプローチを通して東洋思想の奥深さ、特に歴史的に見て多くのことが西洋で語られる以前に理解されていたことがわかってきたという実例もあります。老荘思想、仏教哲学などです。
思想の世界から音楽の世界に矛先を向けてみると様相は少し変わります。西洋音楽の独壇場という印象が強いです。西洋音楽というのであれば東洋音楽と言ってもいいわけですが、東洋音楽と聞いてもピンとこない方が多いのではないかと思います。私も東洋音楽については本をいくつか読んだ程度で多くを語れません。西洋音楽は世界的に認識されたいわばブランド品と言ってもいいもので、世界中の人の心の中にしっかりと居場所を獲得しています。音楽といえば、特にクラシック音楽といえば西洋音楽のことに決まっているのです。西洋音楽は精神性を伴ったものとして、そこから生きる糧をもらっている人がた沢山います。しかし東洋で生まれた音楽は未だ世界的に知られているとは言い難く、西洋音楽とは比べようのない蒸気ようにあるのです。
東洋で生まれた音楽は今までは民族的な音楽として語られてきました。西洋音楽と比べ世界性、精神性と比較すると、ある民族に特有の音楽としての関心が主だったもので民族音楽としての関心を超えることはほとんどなくローカル色の強いものでした。
パリでの世界見本市でインドネシアのガメラン音楽がドビッシーの耳に止まり、それ以来東洋音楽が世界の場で語られる様になったものの、東洋の音楽が西洋音楽に切り込んだことはほとんどなかったのです。武満徹の尺八と琵琶の協奏曲と言ってもいい作品「ヴェンバーステップス」がニューヨークで初演された時、指揮をした小澤征爾はニューヨークフィルハーモニーの楽団員がこの音楽を真面目に演奏しないのに困り果て、小沢の師匠でもありニューヨークフィルの音楽監督だったレナード・バーンスタインに苦言を呈し、楽団員に真面目に演奏するように言ってもらったというエピソードがあります。東洋の音楽は音楽に通じた専門家の間ですら馴染みのないものでどのように演奏していいのかが分からなかったのです。今はずいぶん東洋音楽が置かれている環境が変わってきています。積極的にヨーロッパではコンサートのプログラムに取り上げられる様になっています。特に現代音楽という枠組みの中で注目を集めています。現代音楽の特徴は初演という初舞台は経験するものの、その後が続かないことがほとんどです。珍しい、奇抜なという点が前面に出ているもので、いつまでも、何度も繰り返して聴きたいという西洋のクラシック音楽の領域には至っていないのです。東洋音楽は西洋的な立場からすると現代音楽のように扱われてしまうのですが、そもそもは長い歴史の中を生き抜いてきたものです。民族の中にはしっかりと根付いているものなのです。しかし民族というハードルは高く、それを乗り越えて世界の音楽になることは今までなかったのです。
西洋音楽は西洋思想に裏打ちされて栄えたといえます。西洋思想が音になったと言ってもいいところがあります。同様に東洋音楽も東洋思想が背景にあると考えてみたいてのです。ということは東洋思想が西洋史その中で発見され評価されたように、東洋音楽もこれからの音楽の発展の中で発見され評価されることは期待できると思うのです。東洋的性格からして自分を売り出すことがないので、評価という行為は西洋が得意ですから、近い将来東洋の音楽を評価するきっかけが用意されているのかも知れません。
習うより慣れろという言い方に従えば、西洋音楽には耳が十分慣れたと言えます。しかし東洋音楽はまだ知識として知っているという程度で、慣れるほど聞くチャンスもないわけですから、習うところで止まっている様です。もっと頻繁に演奏される機会が増え、聴衆の耳が慣れるほどになると状況が変わるかも知れません。そんな日が早くきて欲しいものです。

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