宗教が争う?
ドイツ人の間では日本の人と宗教について話すのはタブーとされています。神道と仏教とを合わせて180パーセントにもなってしまうと言われるこの国には、一神教の人と同じ土俵で話せる宗教観がないからです。日本にもキリスト教の信者さんはいますが全国民の0.7パーセントほどと言われています。日本人にとっては、神道の国か仏教の国かではなく、和を以て尊しとなすということから神仏混合となり、二つの宗教を対立させるというふうにはならないのです。
そもそも二つのものがあるときに人間が取り態度には三つあります。「どちらか」、「どちらも」、そして「どちらでも無い」の三つです。西洋は「どちらか」が主流です。そのことから二つの宗教が存在するところではどちらかが正しいということになり、そこから正義を賭した争いが生まれます。ところが日本は「どちらも」の国ですから、神道も仏教も共存できると言うことになります。西洋の歴史をみると宗教戦争が繰り返されています。宗教上の教義の違いということなのでしょうが、その奥にあるのが、どちらかが正しいという基本です。自分が正統だという主張です。どちらも正しいと認められれば戦争にはならないで共存できるのですが、「どちらか」ではそうはいきません。決着をつけなければ治らないのです。不思議なのはそれが宗教という名の下で公然と行われることです。どの宗教も言うところの寛容とか許しはどこに行ってしまったのでしょう。
昔神主の養成をおこなっている國學院大学の理事長が世界宗教者会議から帰ってきて、「神道は世界から宗教とは認められていないようだ」と言っていたのを聞いたことがあります。理由は教義のない宗教など考えられないと言うことだそうです。教義が無いところに信仰は生まれないというのが宗教的な考えなのだそうです。神道の根本は「こと挙げせず」ですから、逆に教義など作ったら神道ではなくなってしまいます。ここは論議しても堂々巡りになってしまうので深入りせずにおきますが、教義を持った宗教が長く続いたことがないので、長い目で見ると、教義を持たない神道の方が長く続いていて、しかもこれからも長く残るのではないかと思ってしまいます。
八百万の神というのは人間を取り囲む全てに神様を感じることと理解しています。信じるか信じないかと言う、形を強要されるものではなく、感じ、共にあることに感謝すると言うことではないかと思っています。一神教の世界でも、神が全てをお創りになったというのであれば、全てのものの中に神様の命が吹き込まれて生きているということになるのではないのでしょうか。そこに神様がいると感じてもおかしくはないのに、神様がお作りになった物に命を感じないということであれば、物は単なる物質でしか無くなってしまいます。物には命が宿っていないのです。ただ単に物にすぎないということなのでしょうか。私たちの周りにはそのような物が取り囲んでいるということなのでしょうか。その物を自分の都合で使い果たし、破壊して、その後で補修する。自然とは単なる物の集まりということになるのでしょうか。そして自然保護とはそういう物である自然を整備することになるのでしょうか。人間の能力で物である自然を護るというのはどの様なことなのでしょうか。
とです。
物の中に命を見ないこと、これは相当罪の大きな罪です。物とは単なる物ではなく命を宿しているという八百万の考え方が、世界に広がることはこれからの世界にとって何かしらの変化をもたらす力になるのではないか、そんな気がしてならないのです。






