言葉と言霊あるいは知性と感情
日本人には馴染みのある言霊という考え方を延長させたら、音霊(おとだま)というのもあって然るべきということになるのではないのでしょうか。言葉の奥に言霊があるように、音の奥には音霊があるというのは正当性がある様に思います。音霊についてき後日に回してまず言霊です。
わかっているようて正直わからないというのが本音ではないかと思います。そもそも何のことを言っているのでしようか。言葉は言の葉です。現象世界の意味を担っているとすれば、言霊は幹とか根といつてもいい様な気がします。根源的な、あるいは魔術的な力を秘めているに違いありません。思っていることを言葉にすれば叶うという時、それは言葉の奥に言霊が働いているからだというわけです。言霊には超能力的な力があると考えられている様なののです。正に魔術的です。
旧約聖書の冒頭部分を思い出してください、天地創造の場面では神様が言葉を発するとそこから色々なものが現実の物となって生まれてきました。光あれと言うと光が生まれたのです。これこそまさに言霊の力と言えますから、言霊は日本だけのものではない様です。大袈裟かも知れませんが宇宙の根源の力とも言えそうです。
日常で普通に使っている「言葉」と神秘的な「言霊」の関係を見ていると、言葉にすることで初めて言霊が力を発揮するというふうに理解できます。ということは言霊は言葉と分かちがたくあるものと言っていいようです。言葉無くして言霊なしということなのでしょうか。ある方が言葉を「光と波(ことは)」と書いていたことを思い出します。「と」も漢字だったのですが忘れてしまいました。言霊というのが実は普段の言葉の中にすでに宿っていると考えると、言葉というのは光の波というふうに理解するのは当然の様な気がします。
ただ現代は、言葉がもっぱら意味を説明するための道具になりさがってしまいました。言葉の持つ意味を求めたのは知性の仕事でした。人間が知的になるに従い、言葉から言霊が薄れていってしまったのではないのでしょうか。ということは言葉から意味伝達専用機という役割を解放してあげれば、言霊がふたたび言葉に返ってくるということなのかも知れません。そのためには知性オンリーの生活から脱却しなければならないのです。
知性の副産物に散文があります。古い時代は韻文が生活の中にもふんだんにあったのですが、言葉が知性の道具になったため散文が言語手段の主流になってしまったのです。意味を正確に伝えるという要求に従ったのです。私たちの中心にある散文がどういうものかを極端に描写すると、無味乾燥な言葉ということになります。あるいは箇条書きに要件を表している様なものです。六法全書に使われるような言葉も典型的な散文です。こんな言葉ばかり使っていたら人間生活は乾涸びてしまいます。現代というのは言語的にのみならず、生きてゆく環境そのものが殺風景で味気ないものになってしまった様です。知性に頼りすぎるというのは人間生活をこんなに殺伐としたものにしてしまったのです。
知性を克服するにはどうしたらいいのかということになります。最後に私の考えるところを述べてみたいと思います。
知性を放棄するということとは違います。知性は大事なものですから持ったままでいなければなりません。私たちの意識のレベルアップが必要なのです。そこに私は感情というものを持ってきたいと思います。感情というと知性より低いものの様に感じる方もいるかと思います。感情的にならずにもっと理性的にならなければなんて言います。感情というのは動物的なものの様に聞こえますが、そこで言われているのは感情ではなく衝動ということです。あるいは条件反射的ということです。外からの刺激に対して間髪を入れずに反応することです。ロシアの生物学者のパブロフが犬で実験したことです。餌を与える時に鐘を鳴らすと、鐘を鳴らしだだけで犬は涎を垂らす様になるのです。感情というのはその衝動的なものが理性を通してグレードアップしたものと言っていいのかも知れません。感情というのは心の中の漣(さざなみ)の様なものです。心の中に生まれる襞(ひだ)です。知性は固まる傾向にあるのですが、感情はいつも波の様に動いています。その動きはリズムを産みます。そこから韻文、リズムのある言葉が生まれたのです。つまり知性の克服には心の動きリズムを感じ取りそこに言葉を乗せてみるのです。言葉で詩を作ることです。あるいは詩をたくさん読むことです。散文に慣らされてしまった知的な現代人は、リズムのある詩を読んでもチンプンカンプンかも知れませんが、習うより慣れ路です。繰り返す中でだんだん何かを感じられる様になるものです。






