沈黙礼賛、つまり人の話をよく聞くこと

2026年3月25日

沈黙にはいろいろな種類があるので見て行きたいと思います。何も喋らないことが沈黙すると言うことですが、座禅をしているとだまつて座っているのに心の中は正反対です。外めは沈黙しているのですが心中は騒がしいほどです。様々な想念、想念が回り巡っているのです。むしろコツコツと黙って仕事をしている時の方が心の中は静まり返っているものです。
初めに言葉があったのキリスト教文化の中でも沈黙は大切な心の修行に数えられています。大きな修道院のーには必ず内庭があって、そこには回廊と呼ばれるものが付いていて、そこを修道士たちは毎朝無言で歩きます。回廊で他の修道士たちと一緒になるのですがしゃべることは禁じられています。回廊には喋ることが許されている部屋が一つだけあり、そこでは修道士たちがお互いの無言で歩いている時の体験などを交換するのですが、歩いている時はしゃべるのは禁じられています。しかし黙々と歩いているだけでなくお仕事が与えられています。聖書を黙読しながら覚えるのです。一行一句暗記するのです。そうすることで心の雑念を追い払って心を空にしているのかも知れません。
私が講演している時のことは今までに何度かお話ししているので繰り返しになりますが、話をしている時には、話している自分と黙って話を聞いている自分とに分かれています。体験的に自分の話を黙って聞いていてくれるもう一人の自分がいる様に感じています。きっとこの沈黙の部分を持たずに話をすると、話が空回りしたりして活き活きしてこないような気がします。ただ話をしてるだけで時間が来ましたので終わります、となってしまう様では講演とは言えません。実際に他の人の講演を聞きにゆくと、講師が沈黙に支えられているのかどうかはわかるものです。

心の中は一日五万とも六万とも言える想念が行き交っていると言われています。座禅の時にも当然出没していますが、禅ではそれにとらわれることなく流す様にと言われます。しかしその数が半端な数ではないのでただ座っている様に見える座禅も実は大仕事なのです。
ドイツでは「無言セミナー」と言うものがよくみられます。一週間修道院などを借り切って言葉を使わない生活をする様なのです。私は体験したことがないのですが、セミナーを受けて帰ってきた人たちは口々に「リフレッシュした」「自分に帰った」と明るく言っていました。
と言うことは、自分とは自分を主張している時にいるのではなく、何も言わずにいるときにいるものと言っていいのでしょうか。つまり自分と言うのは自分だと思っているほど自分ではないと言うことなのでしようか。特に自分を育てると言うことを考えると、人の話をよく聞くことが一番の様な気がします。自分だと思っているものは過去の集大成です。よほどの天才でない限り、自分と対話して自分を膨らませ進化させることはできないものてす。過去をどんなに磨いても過去は過去で自分の思い込みの中に留まってしまいます。過去に囚われてしまうのです。自分を育てるためには人の話をよく聞くことです。そこから新しい出会いが可能になるからです。その時の刺激で自分は一歩前に進みます。人の話に耳をかたむていると実に爽やかな自分が生まれて飛び立ってゆくのを感じるものです。精神衛生上沈黙は良いものとされていますが、最高の沈黙は人の話に耳を傾けることではないかと私は思っています。私たちの日常の中に最高の修行の場があったのです。

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