怠け者、飽きっぽいのが私の人生です
辻音楽師、デジャブのCDに収められているすべての曲の楽譜が近いうちに出版されます。
そのために一つ一つの曲にいつものようにコメントを載せるため文章を書いていました。これで五冊目の楽譜集になります。
自分で演奏して録音したCDを聞いたり、シューベルトのオリジナルの演奏を聴いたりする何日かを過ごしました。聴いているときは楽しいのですが、文章をどのようにまとめたらいいのかはなかなか方向が見えてこなくて困りました。ライアー・ゼーレの社長の小沼さんからはすでに四月に言われていたのですが七月まで伸び伸びになっていたら、七月に改めてお尻を叩かれ、ようやく重いお尻を持ち上げられたのです。
書き始めてみると、やはり四月からどこかで力を貯めていたのか、意外と筆が進むのです。
文章を書いている時に思ったのですが、大事なのはしっかりぼんやりする時間を作ることです。一種の怠け者にならないと書きたいものは降りてこないということです。書こうと思って力んでしまうと、つまらないことを書いたものだと、後で読み返した時にガッカリするのです。これは自分が怠け者で、飽きっぽく、長続きしないという悪い癖があることを正当化するために言っているのではなく、文章を書いている人たち、絵を描いたりしている人たちに言えることのような気がします。一生懸命やりすぎると疲れてしまいます。一生懸命は、頑張りなさいと励ます時に出てくるもので、一般的には褒められるべきことなのですが、怠ける勇気、時には投げ出してしまえる勇気も讃えられていいものだと強調したいです。
昨日は意識と無意識のことを書きましたが、意識というのは知性でも理性でもないところにあるもののような気がしています。意識を真面目に分析する人たちは、その落とし穴にはまっているようです。その一方で、そこに気づいた人たちが、意識を知ろうとして、知性と理性では辿り着かないと気づいて、無意識なるものを引っ張り出してきたのかも知れません。無意識を見つけたことで、意識は理屈の世界から解放されたと言えるのかも知れません。しかしいつまでも知性や理性の支配から解放されないのが不思議です。。
そういえば、私はラブレターを書いたことがなかったことにこの間気がついたのですが、今更、遅ればせながら書いても、受け取ってくれる人がいない訳で実現しないこともわかって苦笑いしてしまいました。ドイツの文豪ゲーテは八十の時に十八歳のお嬢さんシュタインに愛を告白しています。もちろんラブレターを出しているのです。それを手にしたシュタイン嬢は、それが自分宛のものだとは思わず、母親に向けたものだと勘違いして母親に見せたという話があります。母親はそれが娘へのラブリターだということはわかっていたようです。その後どうなったのかは知りませんが、さすが文豪と言われる人はスケールが違うと感心します。ゲーテはこのラブリターと並行して、文学の最高峰と世界から認められているファウストを書き上げていたのです。
今はラブレターを書く環境が失われつつあります。大切なものが人類から失われつつあるのです。スマフォの時代のラブレターの書き方という指南本が書かれる必要があります。それはこの混沌とした社会に光を投げかけるかも知れません。
若者よ大志を抱けもいいですが、若者よラブレターの一つくらいは書いておけもいいのではないでしょうか。






