エマヌエル・フォイアマンの偉大さ その2

2013年1月5日

一年の始まりのときにはフォイアマンのことを書くのが相応しい、そんな気がしています。

もう一度私のフォイアマンへの思いこみに付きあってください。

 

フォイアマンは楽譜通りに曲を弾くことには興味が無かった様です。ここが普通はできないところです。どうしても楽譜通りに弾いてしまいます。

彼の演奏を聞いていると翻訳のこと、翻訳のむずかしさを思いだします。

もとの言葉を正確に辞書通りに訳しても、翻訳という仕事は充分ではありません。大体の意味は伝わっても、本意は伝わらないものです。では本意を伝えるにはどうしたらいいのかというと、意訳という技が必要です。意訳は基本的には、訳をする人の解釈ですから、同じ原文から幾通りもの意訳が出来あがります。どれが正しいのかということですが、どれもそれなりに正しいという以外言いようが無い世界です。

 

演奏も意訳の世界と同じです。それぞれの演奏家が、作曲家によって残された楽譜を読み、そこから自分の解釈を作り上げ、自分の言葉で文章にします、いや、自分の音で音楽にします。

 

ドブォルザークの「森の静けさ」と題された作品番号68の5という曲を取り上げてみます。

この曲はチェロとオーケストラの伴奏で演奏されることが多い曲ですが、もともとはピアノ連弾の曲として書かれたものを作曲家自身がチェロのために編曲しています。ピアノ伴奏のための楽譜とオーケストラの伴奏の楽譜があります。どちらもドブォルザーク自身の手になるものです。

 

曲はシンコペーションを巧みに使いながら、森の中を吹く風をうまく表現していると私は思っています。ドブォルザークが育ったチェコの森、ボヘミア地方の森には行ったことがありませんが、ドイツの森とほぼ同じ様なものだと想像しています。

森の中に入ると整備された道は入り口あたりだけで、深く入ればそこには不規則な整備されていない道ばかりになり、まるで迷路の中を歩く様なところがあります。そしてそこに吹く木々の間を通り抜けてやって来る風があちこちから吹いて森の散歩を楽しいものにしてくれます。

 

もともとは「しじま」というタイトルだった様です。英語、ドイツ語に訳される時「森の静けさ」となってしまいました。ドイツ語にも英語にも「しじま」に当たる言葉が無いからです。

 

楽譜を見ながらフォイアマンの演奏を聞いた時に初めて解ったのですが、彼は楽譜を微妙にインテンポ、個人的な解釈でリズムをずらすことです、で演奏していたのです。これは演奏だけを聞いている時には解らなかったことでした。それがあまりにも自然だったからです。他の演奏と比べて、膨らみと、森の雰囲気と、特に静けさがフォイアマンの演奏の方からずっと伝わってくることは聞きとれても、それがインテンポから来ているとは思いもよりませんでした。それは彼のインテンポが、本来の曲の持っているイメージに相応しいものだったからです。

 

他の演奏は極論すれば、楽譜通りです。というより楽譜に忠実であろうとしている努力がはっきりとうかがえるものです。特にテンポになると、この曲がシンコペーションを巧みに使うので、下手にずらすと音楽にならないという落とし穴が待ち構えていて、それを避けるためにも楽譜に忠実であることが必要なのかもしれません。

その分表現を加え曲想を盛り立てるのですが、そこが本来ドヴォルザークが望んでいないところであることは曲を聞けばすぐに解ります。森の中の静けさは迷路の様に入り組んでいながら本来はとてもシンプルなものです。表現に偏り過ぎた演奏からは「しじま」は聞こえて来ません。シンプルであればある程この曲は冴え冴えと、いきいきと私たちに訴えて来ます。そして聞き手の心の中に「しじま」、「森の静けさ」があらわれます。

 

フォイアマンはこの曲を表現しなかった、ここが彼の凄さです。表現という技巧を捨てて、淡々と演奏することで音楽の本質、音の本質を紡ぎだします。初心者が弾く様なシンプルさですが、勿論初心者からは絶対に聞けない音の安定感と深さと表情があります。その音の中に森の中の風が聞こえてくるのです。彼は一音一音弾くごとに、しじまと、森と、森の風と、森の臭いと出会っていたと私は演奏を聞きながら何度も思いました。

フォイアマンの演奏は音楽を超えてしまっているとさえ思って聞いたこともあります。

 

松のことは松に習え、竹のことは竹に習えとは芭蕉の言葉です。

彼の演奏はまさにしじまのことはしじまに習え、森のことは森に習えと言わんばかりの演奏です。

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