先生が教育を変える、だったら先生を変えよう

2013年1月5日

日本にだって天才は居るはず。どこに居るのかなんて聞かないで探せば済むことなのに、誰も探そうとしない。

これが今まで日本を支配してきた風潮。

ところがも外国人がある人を天才と認めると、ハイエナの様に群がってくる。テレビ、新聞、雑誌がこぞって書きたてる。傍で見ていると恥ずかしくなる程幼稚な現象だ。

これも今までの風潮。

 ここを変えるにはどうしたらいいのだろう。つまり日本にも天才がいるということを多くの人に知ってもらうためには何をしたらいいのだろうか、ということ。

何故日本人は外国人に弱いのだろう。これも大きな課題だ。すぐにペコペコして尻尾を振って後を付いてゆく。これも傍で見ているとと恥ずかしくなる程幼稚な現象だ。そんなことをしないで日本の中に隠れている天才を見つけて、ちやほやしてやったら、この国はきっと違う方向に向かって発展する、と私は思っている。

 

韓国に行ってきました。そこでソウルにあるエデュケイシュンセンターに招かれたからです。そこの代表をされている李貞姫さんとお話しをしていると、韓国人を変えないとこれからの韓国はない、とはっきりおっしゃるのです。いずこも同じと内心安心したのものの、一体どうしたらいいのかということになると案外途方に暮れてしまう。お互いにため息をついてしまった。

かの女はそれで教育を変えなければと頑張っているわけです。

 

人間の一番苦手は自分を変えることだといった人がいる。確かに自分を見てもそうで、きっと多くの人が今のままでいいと思っているに違いない。

ただお金もうけというのは人を動かす力がある。確実にある。理由は聞かなくても解っている。みんなお金がほしいからだ。韓国ももうけ話には人が乗って来るのだそうだ。子どもにいい教育がありますよといっても多くの人が振り向くわけではない。子どもの成績が上がりますよというと、様子は違う。一斉にそっちの方を向く。これはお金儲けと程同じレベルの話しで、教育を変えようという力にはならない。

 

教育はどうしたら変えられるのだろう。

教育を変えたいと思ったら、制度ではなくて先生を変えればいい。先生の質、先生が何を考えているのかによって教育は決まるもので、教育改革の原動力を活性化したいのなら先生を変えて行くことに専念すればいい。そうすればなんもたたないうちに教育は変わるはず。

今の日本の教育を続けていると、きっと日本は委縮してしまうだろう。相当確実なことだと思う。なぜかというと、その教育を受けた人は考えなくなってしまうからといっておく。考えるというのはおぼえるとは違って、人間を生き生きさせる。シュタイナーは人間はかつて持っていた壮大なスケールの記憶力を失うことで思考力が生まれたというが、私はそれを信じている。

現代人は覚えるだけでは元気にならない。考えなければ駄目だ。この点から見てもいまの教育は生き残りでしかない記憶にいまだに働きかけている姿が浮き彫りになる。それでは人間が育たない。

考えられないというのはとても不自由なもので、自分が思い通りにならなくなってしまう。自分を動かしているそもそもの力が働いていないのだから、人間は腐ってしまう。思考しない人間のなれの果ては腐ることだから、死んでしまう。

考えてください。しみじみと。その前に感じてください、そこから考えることが始まります。考える人が多くなれば、社会が変わります。そしてそれを見て子どもたちも変わって行きます。教育ってそう言うところにあるものの様な気がするのです。

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