二つの教育のちがい
最近の日本の情勢を見ると、日本をリードしようとしている大臣級の人たち、高級官僚の人たちのスケール小ささに失望します。頭はいいのでしょうが、人格が育っていないのが見え見えです。そのような諸大臣に日本という国を預けて大丈夫なのかと心配ばかりしてしまいます。
大臣、官僚のほとんどが高学歴です。成績優秀で一流大学に進んで、難しい勉強を収めた人たちです。例外は田中角栄という高等小学校しか出ていなかった総理大臣です。彼以外は優秀な成績で、素晴らしい学歴をお持ちの方がほとんどです。それなのにだらしないとしか言いようのない政治をします。利権などの誘惑にまんまと乗ってしまっていて、日本という国のための政治をするという覚悟はほとんど感じられない人たちの集まりです。
そうした大臣級の人たちを江戸から明治に移行するときに活躍した人物と比較してみると、大変なコントラストが浮かび上がってきます。確かに理屈を捏ねるのはうまいし、それに伴って嘘も蔓延していて、今の政治家たちは辻褄合わせの人たちばかりが浮き上がって、芯のある人格を感じることがないのです。
江戸から明治に移りゆく中で実に多くの魅力ある人材が輩出しています。その状況は今の状況とは真逆のような気がします。明治へと移行させた彼らは江戸時代を象徴する寺子屋で学んだ人たちだったと想像します。今日的なエリートという存在ではなく、家柄によって選ばれた人たちだったのでしょう。
寺子屋では読み書き算盤というのが基本でしたから、今日のような知識、情報などはほとんどなく、中には難しい漢文を読める人たちもいましたが、それでも国際情勢を教える機関なとは皆無でした。知識の量からすれば実に貧しい学びだったということになります。
一方で魂の力が寺子屋では育っていたのではないのでしょうか。それによって開国と同時に世界と渡り合う状況下でさまざまな発想が生まれ、西洋の列強と張り合えたのでした。芯のある気骨のある人たちだったからできたのです。教養や知識ではなく人格がしっかりと形成されていたということです。彼らは教養という観点からの知的教育を受けていなかったのです。実生活を中心としたものから学んでいたともいえます。そこで想像力、創造力が培われたのでしよう。書道で字を書いたり、同時に文字を覚え、ある程度の本が読めたのでした。それを音読し、暗記しというのが学びでした。人間の機能力の育成ではなく、中身の育成だったのでしょう。ちなみに江戸時代の日本人の文盲の数は西欧の文明国と比べても極めて少なかったことが報告されています。
なぜその程度の知識で、開国の後の世界情勢と向き合うことができたのかと考えるのは無駄なことではないと思っています。私たちの時代のように溢れる知識と情報に振り回されているのとは逆で、ごくわずかな教材を繰り返し暗唱するまでじっくり時間をかけて学んだのでした。彼らは知識を学んだのではないということです。そうではなく寺子屋では意志を育てたのでした。意志が育ったことにより感情的にも安定した筋のある人間に育ったのです。私たちの時代のように知性に働きかける教育は、社会の役に立つ機能人間は育てられても、芯のある個性というのか意志の力は育てられないようです。意志が育っていた江戸から明治を生きた人たちは、判断力にも優れていたと思います。今は知識に頼って、あるいは知識だけで判断してしています。それは判断ではなく統計なのではないかと思います。極端な例はAIです。みんな機械が答えてくれるので、人間も機械になってしまったと言えるのです。
知性ではなく、意志を育てられた江戸から明治にかけての人物たちは、自分に自信があったようです。面構えが違います。しかも鋭い判断力を持って、直感によって当時の複雑な社会を引率出来たのでしよう。もちろん美談ばかりでなく、さまざまな外部からの圧力があったことはよく知られていますが、彼らは意志を育てられたことで、しっかりとした個性を培っていたという側面はしっかり強調していいと思います。
知性に振り回されると意志は弱ってしまいます。辻褄合わせに走るばかりで、想像力が失せてしまいます。現代社会は意志薄弱症候群とでもいいたいような、判断力を持たない人間たちの集まりになってしまったのではないのでしょうか。かつてテレビが普及し始めた時に、大谷壮一という人物が「一億総白痴化」という言葉を編み出しました。それによく似ています。個性を感じられないような人ばかりになって、教育界は大慌てで「個性を育てましょう」などと躍起になっていますが、意志を育てておけば個性も判断力も並行して培わされて行くはずです。
エリート教育で育った今の政治家たちは個性も判断力も育てられず、一般論的な意見ばかりを羅列して満足しています。国会中継などで目にする質問に対する大臣や官僚からの答弁は聞くに堪えないようなものがほとんどです。こんなに貧しい人たちが政治家として働いているのかと思うと、情けなくなります。しかしこれが確実に戦後教育の紛れもない成果なのです。教育とはこれほどまでに人間を腐敗することもできるものなのだと改めて思い知ります。新しい意味での教育を求めたくなってしまいます。