受け入れる難しさ

2025年7月2日

何事に関しても、受け入れるというのは難しいものです。今日は障害児と健常児をどのように一つにまとめられるのかを少しですが考えてみたいと思っています。

例えば自分の意見と合わない人を受け入れるときなどには、受け入れる側に相当の技量がないと現実化しないものです。寛容という使い古された言葉ですが、それでも寛容がなければ実現しないことがあるのです。

私が携わっていた障がい児に向けての教育の現場では、問題を抱えていない健常児とさまざまな問題を抱えて生きている障がい児とをどのように一つ屋根の下に置くか、一つの教室に座らせるのかということは何度も議論されたものです。理想論的には両者が助け合いながらという言葉で収束してしまいますが、どこか机上の空論です。

現場からすればこうした言葉っじりによる綺麗事では何も解決していないのですが、教育を理論的に説明する人たちからすると、これ以上のことは考えられないようなのです。実践と理論とはいつも相容れないものですが、ここには現実に子どもたちがいるので、なんとしても具体的な解決策が必要なのです。

この問題を話し合うときに使われる二つの言葉があります。よく似ていて微妙に違うニュアンスを持っているものです。integrateとincludeという言い方が、障がい児を健常児と一緒に学校で生活を共にすることを提唱する人たちによってよく用いられます。

これは教育用語として使われるのですが、内容を正しく理解すると、教育的にという視点からだけでは解決しない、生きるということに深く関わっているものなのです。哲学的な意味合いを含んだもので、この二つの言葉は世界観が全く違うと言ってもいいほどなのです。簡単に言うと、あるものを開け入れるときに自分達がすでに持っている組織や枠の中にそれを当てはめるか、受け入れようとしているものの立場に立って、それを尊重しながらそのものと融合しながら一つになることで新しい組織形態とか枠を形成すると言うことでする。

大雑把な言い方をしますが、障がい児たちを訓練して、健常児と同じように社会に送り出すと言うのがintegrate的な意味で一つにするで、障がい児を障がい児として受け入れ、包み込むように受け入れたことで新たな枠を作ろうと努力すると言うのがincludeとい言えるかと思います。

英語の辞書を引いてもなかなか私たちが知りたい説明は期待できません。integrateでは統合する、合体させる、集約する、完全にするという意味が最初に出てきます。そして障がいと言う差別を撤廃すると言うふうになってしまいます。しかし現実にある障がいと言う事実はどこに置かれるのでしょうか。「障がい、などいうものはないのだ」と極論する人もいますが、現実味はありません。男と女の違いなどないのだ、人間というものがあるだけなのだというのによく似ています。あると考えるからあるだけだというのです。理想的には何か素晴らしいことを言っているようなのですが、机上の空論です。includeの方は障がいと言う現実を直視しながら、それと共存できる道を探そうとしています。障がいと言うのは確かに生きる上で不便なことがたくさんありますが、それが人間としての不自由と考えるのではなく、人間というのは一人ひとりの限界の中で生きてゆく存在なのだと考えるわけです。しかしこれを実現するには教育的方法論の範囲内では無理で、社会構造そのもの、あるいは人間観が根底から変わらないと無理があります。

私としては、障がい児たちを私たちの社会システムの中にはめ込んで、勉強させたり、職業訓練のようなことをして手に職を持たせるよりは、障がいの世界と健常の世界とがお互いを認め合える方に進むのがいいと考えています。障がいを持ったお子さんたちは、常識では測りきれない繊細な感覚を持っていますが、彼らはそれに気づくことはないので、実際には健常者たちからの歩み寄りが基本になります。これはマイナスのように見えて、実際には豊かさに通じるもので、優劣の問題としてではなく、寛容という世界の話です。今の世の中で一番忘れられてしまったものかもしれません。

私たちはとにかく合理的に社会を作ってきたので、それに見合わないものは邪魔扱いをしてお荷物として置いてきぼりにしてきたのです。人間は存在していることに意味があるのではないかと考えます。どのように社会的に機能しているのかということだけで判断すべきものではないように思うのです。もちろん初めは試行錯誤ですから小さな所からしか始められません。その上こうした理想的な行動というのは往々にして人権擁護といった政治運動に利用され人々を強制する道具に使われることがあります。この点は気をつけないと、本末転倒ということになりかねません。

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