つい他人を貶めてしまう癖
プロの音楽会でも弾き間違いは避けられないものと言ってもいいくら間違えるものです。有名なピアニストが、「演奏会の後には自分が今日の演奏会で弾けなかった音符の音がたくさん散らばっているんだ」、と言っていますが、ピアノの大家ですらそのような状況ですから、普通の人は間違って当たり前と思っていいと思います。
ところが新聞評となると辛口の批評家が手ぐすねを引いて待っていますから、全体的には素晴らしい出来だったと言えるのに、ちょっとしたところで間違うとそこをやたらと誇張してさぞ演奏が良くなかったかのような批評文を書いたりします。私はそこのところがどうしても納得できないのです。粗探しなんてだいの大人がするものではないと思っていますから、重箱の隅っこを突っつくような粗探しはすべきてはないとその様な記事を読むたびに思います。人のケチをつけるってそんなに楽しいことなんでしょうか。性善説を信じたいのですが、そういうものに遭遇すると性悪説の傾いてしまいます。
先日のブログで褒めるるいうのは難しいということに触れましたが、今日はけなすというのはいとも簡単にできてしまうということに注目したいと思います。
極論をすれば、他人を貶めるということです。それによって自分が優位に立てるということでしょうか。人間というのはいつも上下関係を意識して生きているものの様です。いつも上位にいたいのです。韓国に呼ばれて行っていた時に、誕生日が1日でも早いと目上ということになると聞いてポカンとしてしまいました。年上の人に対しては敬語を使わなければならないということでした。そんなに細かくこだわる必要なんかないではないかと反論しましたが、受け入れてもらえませんでした。他の国ではカーストという制度もありますし、西洋社会の中では人種差別は遠いい昔の話ではなく、今でも露骨に見られるものです。みんな自分が優位に立ちたいのです。
自分を特別のものと感じたい人たちは、お役人さんの中には五万と居るみたいです。というのかそういうことを知って官僚になるのが本音の様です。役人、官僚、議員、代議士と本当は国民のために働く人たちが、一番偉そうな顔をしてフンズリ返っているのは、本末転倒です。それでは社会に支障がきたされ、社会そのものが機能しないのです。私がハンブルクの小さな障がい者施設で働いている時、何のきっかけか理事に選出されて短い期間でしたが理事を勤めていたことがありました。その時に先輩の理事に、「理事というのは偉いということではなく、施設で働いている人や施設に子どもを預けている親御さんのために、仕事を代行をしているであって、そこを履き違えると施設の運営に支障をきたすことになる」とはっきりと言われたものでした。
それなのに今の議員、代議士たちは目の前にちらついているもの、特にお金とか女とか天下りの地位に釣られてとんでもないことをしている様に見えるのです。自分達はますます偉くなったと勘違いしている様なのですが、恥を晒しているだけです。お米はたくさん実ると穂が自ずとしたの方を向くものです。「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という諺にもなっている例えですが、偉くなった人はみんな選ぶっている様では、社会は支障をきたしてしまうのです。それは今だれる目にも明らかになっているのではないかと思います。
しかしこれは人間の業というのか、一朝一夕でよくなるものではないと思うのですが、言葉にしてみました。