耀盌との出会い
今回の日本滞在の最後の日、三月九日に出口王仁三郎製作の耀盌との出会いがありました。耀盌は抹茶をいただく時に使われる楽焼きのお茶碗に、世にも稀な色付けが施されたお茶碗です。その日の出会いはその耀盌を見るだけでなく、手に取りさらにそこに注がれたお水を飲ませていただけるという大変貴重な体験をすることができるものでした。以前から耀盌に一度触れてみたいと願っていただけにこの日に準備されていた出会いを思い出すたびに感謝の気持ちが湧いてきます。
今回はいつもより長くなりますが、複雑な思いを綴ってみたいと思います。
さて、その耀盌を間近にみた印象は色彩の不思議さにもかかわらず驚くほど静かな落ち着き払ったものでした。なんの主張も衒いもなく、ただそこにお茶碗があるだけと言っても過言でないほど透明なものだったのです。
お茶碗の表面に筆か刷毛で色付けされたところを見ていると、それは釉薬を丁寧に塗ったというものとは違い、究極の即興に見えたことでした。即興的とは言ってもただの気まぐれからの色付けとは違い、間違いなくそこに、その色が出口王仁三郎によって塗られたものなのですが即興性に満ちているのです。完璧な直感、色に変容した直感でした。
目の前の耀盌は、繰り返しますが色彩の派手さとは裏腹にとても落ち着いたものでした。意図を超えた輝きは純粋そのものです。手に取り、両手でひと回し、して、しばらく中を覗いて、静かに目の前に置いてゆっくり手放した後の耀盌は何かを語っている様な感じがしてなりませんでした。
注がれたお水をいただくと、そのお水は耀盌と同じく透明なもので、遠くが見透かして見えるようでした。「真実は真水の如し」という老子の言葉そのものの体験でした。その水はその後も私を、私の周りを取り巻いていました。次の日に飛行機でドイツに向かったのですが、機内ではずっとその水の余韻と一緒にいて、驚くほど疲れない飛行だったのです。
飛行機の中は若い集団旅行の学生たちでいつもよりうるさく、飛行の間音楽を聴いていたかったのですが、ヘッドホーンを忘れ飛行機に備え付けられたイヤホーンだったため音楽の繊細な部分が聞き取れないという悲惨な状況でした。何とか聞けるものを探しているときにヴィヴァルディのよく知られたピッコロ協奏曲の第二楽章のラルゴが見つかり、それだけは何とか聴けるものでそこに釘付けになってしまい何度も聞いていました。うるさい中でもピッコロの高い音だけは聞こえたからでした。
このピッコロという楽器はフルートの半分ほどの長さで、音域は一オクターブ高く、オーケストラの中で一番高い音を出すことができる楽器として煌びやかさを作り出すのに使われます。ピッコロだけを聞かされると大抵はその音の高さに耳を塞ぎたくなります。想像以上に甲高いのですが、私はピッコロの音には煌びやかさのほかにどこかにユーモラスなところがあると感じています。言うなればピエロのような道化的なところがあり、地上的でない不思議な音の世界を作り出します。
私のピッコロ体験は音楽会ではなく、スイスのバーゼルで二月に行われるお祭り「ファスナハト」でのことでした。このお祭りの由来はキリスト教のカーニヴァルです。キリストの復活を祝う復活祭の四週間前に行われる謝肉祭のことです。四週間の間、肉を食べない断肉が続きます。それが始まる前の日に、お肉を食べ放題食べるはめを外したお祭りのことです。バーゼルの「ファスナハト」も元々は同じカーニヴァルだったのですが、17世紀にヨーロッパを襲い三分の一の人が亡くなったペスト病のパンデミックの際に、ペストに罹った病人を治療したり、亡くなった方を弔ったりして回った人たちの集団行動が「ファスナハト」となったのです。そのことを強調するために通常のカーニバルとは違って一週間遅れに行われます。街をあげて一万人以上の人が、大きな個性豊かな仮面を被り、全身仮装をして中世の軍隊の行進のリズムを刻む太鼓のリズムに合わせバーゼルの街を歩きます。大きな太鼓が力強く鳴り響き、それに甲高いピッコロの音がかぶさってきます。昼間の行進よりも、陽が落ちて暗くなってから真夜中まで続く夜の行進が真骨頂です。この独特の雰囲気を演出しているのが太鼓の独特のリズムに乗って奏でられるピッコロの音なのです。ピッコロの耳をつん裂くほどの高い音から生まれるメロディーはとても単純なものなのですが、中世のメロデイーなのか現代人には覚えにくいメロディーです。ピッコロの音の高さは繰り返しますが尋常ではなく、夜空を突き抜けで異次元の世界にまで辿り着くのではないかと思わせるほどのものです。「ファスナハト」がペストに病み亡くなった人たちへの弔いでもあることを考えると、このピッコロの音が暗くなった夜空に不思議とマッチしてくるのです。太鼓とピッコロの楽団の後ろを何人もの人が付いて回っているので、そこに混じってバーゼルの街の中を歩いていると、ピッコロの高い音が暗闇の中を羽ばたいて別の世界に消えてゆく感じがするのです。ピッコロの音に身震いが感じられ、ペストで亡くなった方への弔いの想いが被ってきます。三十年ほど前の湾岸戦争の時に、世界中のカーニヴァルが「とんちゃん騒ぎ」ということで禁止された中、バーゼルの「ファスナハト」は、「死者の弔いの行進である」ということから唯一許されたのでした。
その時以来ピッコロの音を聞くとバーゼルの夜の闇の中に消えてゆく神秘的な響きが思い出されるのです。飛行機の中で見つけたヴィヴァルディのピッコロ協奏曲のメロディーを聴きながらバーゼルの暗い夜空を舞い上がり異次元へと消えてゆくピッコロの音を思い出していました。
耀盌の表面の空から舞い降りたような即興的、直感的色付けが 何故ピッコロの高音と結びつくのかは私にもわかりませんでした。一緒にされるべところなどどこにもない二つの異なる世界なので、ただ私の中だけでの合体です。あの妙なる高音は地上的な音ではないだけでなく、吹くときにも力で吹くのではなく、力を抜いた時に生まれている音ですから演奏は難しいのです。耀盌の色付けは一見サイケドリックな派手なものに見えます。淡い緑と濃い緑と黄色と青とピンク。この色をお茶碗に塗ることは常識では思いつかないものです。意図的にこれらの色を組み合わせることは不可能です。この奇抜性を可能にしているのは、誤解しないでほしいのですが、直感からの独特性、精神性に満ちた軽みではないのでしょうか。その軽みはユーモアのある道化の精神といっても良いのかもしれません。出口王仁三郎は芸術は全ての宗教の母であると言います。この絶妙なユーモアは芸術の源泉であり道化の源泉でもある様な気がします。
忘れてならないのは耀盌の表面に開けられている無数の小さな穴です。出口王仁三郎が「惟神霊幸倍座世(かんながらたまちはえませ)」と祈りながら刻み込んだ穴で、この穴から生まれる不思議な表面の影が耀盌の魅力を支えています。無数の穴から生まれる影が耀盌に深みを与えていました。
https://youtu.be/Mu0vwc_OoFM?si=wB1FhEvtwqPNBPaM






