日常生活という神秘 その一

2013年3月31日

神秘的という言葉は、人によって随分違う捉え方がされるものだと思いますが、私の場合は、日常生活が一番神秘です。

一番神秘と遠いい様に見える日常生活ですが、本当は日常生活と私たちが呼び捨てているものの中に、一番高級な神秘が秘められている、隠されていると考えています。

 

どんな人も日常生活を持っています。

こう言っていいのではないかと思います。

特殊な才能、能力があるから日常生活があるということではないです。どんな人にも日常生活というものはあるのです。

お金持ちにも、貧乏人にも、お城に住んでいる人にも、ホームレスで橋の下で生活している人にもです。

みんなに平等に与えられている、このことだけでも、相当不思議なものだと言えるはずです。しかも誰もが自分の日常生活を生きられのですから、ますます凄いものがあると感動します。

 

私が日常生活を一等神秘だというのはこれだけでなくまだあります。

日常生活に私たちはまだ盲目状態ですから、日常生活の中で起こっている盛り沢山のことに全然気がついていないので、日常生活ほど平凡でつまらないものはないと考えるわけです。そのためにいろいろなイヴェントを考えるのです。イヴェントをすると言うパターンが今日は流行しています。

実は、日常生活の対極がイヴェント的生き方なのです。

イヴェント思考は刺激的ですから、目につき易いため商業的にはとても有益なものですが、本当は日常生活の持っているダイナミズムに目が開かれていないことから生じる、怠惰だと私は考えています。

私たちの意識が、日常生活の隅々までもっと繊細に感じ、そこから生きていることの不思議を見つけられれば、イヴェント的な物事の捉え方は逆にあまりに刺激過ぎて、それに振り回されものと見えて来ると思うのです。そして疲れてしまうはずなのです。

 

私たちはまだ鈍感だということです。

ただ鈍感であることに全く気がついていない程鈍感なので、誰も鈍感だとは思っていないと言うだけのことです。

 

日常生活の持っているダイナミズムのことは今までも講演会で随分繰り返してきたことで、わたしの話しを聞かれた方には「またか」と言われてしまうかもしれませんが、初めての方もブログの読者の中にはいるのでここに書いてみます。

講演会で日常生活のことについて言う時、家庭料理のことをお話ししました。

家庭料理の中に隠れている日常性の偉大さです。

今日はグルメ的な食事の仕方が流行していますが、グルメ的な食事はイヴェント的食事ですから、家庭料理の対極にあると見ていいと思います。

偉大なるかな家庭料理というわけです。何が偉大かと言うと、家庭料理の中から子どもたちは味覚を学び、食卓出毎日食べるということから、生活の規律を感じとり、素材からものが生まれると言うのを見ながら物事の豊かさを知るからです。家庭料理の偉大さに気付くと、逆にグルメ料理がただ刺激的なだけで、もともとは退屈なものなのだという風に見えて来ます。味覚が鈍感になっているから刺激的な味が好まれるのです。食事をすることの楽しさが解らなくなっているから、イヴェント的な刺激に頼ってしまうのです。

毎日グルメ的な食事、刺激的ななことで育っているのではなく、平凡な繰り返しの中で育つものだからです。

 

フィトネスにも言えると思います。

日常生活の中に本当はいくらでも動きを、動くことを見つけられるはずです。昔の人はフィトネスを知りません。でも運動不足なんてことはなかったものです。日常に運動を見つけていたからです。もちろん現代社会が、自動車が普及し、仕事といえば事務的なことでコンピューターの前に一日座っているという社会になったこともフィトネスの普及につながっているのでしょうが、それだけではないと思います。日常生活をないがしろにしているということが一番の原因です。

 

 

 

 

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