日常生活という神秘 その二

2013年4月1日

偉そうに日常生活の中に神秘があるとかそこにまだ意識が行っていないから日常生活の本当のことが解らないのだと書いてしまいましたが、日常生活ということを霊的な事として捉えるのは難しいものですから、自分でどこまで底を書けるかと心配です。

でも、そういう挑戦の様なことをしないと人生は前に進まないものですから、このテーマですこし書くことを自分に課したというところです。

 

日常生活のことを霊的な観点からとは少し違うかもしれないですが、大きなテーマとして考えていたのは映画監督の小津安二郎です。彼は「日常生活が映画にならなければいけない」という観点で映画を撮り続けた人です。

彼の映画を評価しない人はつまらない家庭生活を映画にしているだけと見ているのでしょうが、それは違うでしょう。

何の変哲もない様に見える日常生活をしっかり哲学していると見るべではないか、そんな風におもいます。

 

日常生活という言葉には女性的な世界を感じさせるものがあります。

では男性的なというのはどう言う世界のことを言うのかと言うと、イヴェント的な世界です。特別なことをするということです。何か形を整えることが大事です。

女性は形が無くても生きて行くでしょう。

形が無いのではなく、形になる前の段階だと言うべきです。

男性的なのは形です。形のないものにも形にしなければにっちもとっちも行かないのです。形式、組織は全て男性の得意とするところです。

 

日常生活はまさに形のないものです。形になる前のものです。

形というのは定義によく似ています。なぜそうするのか、どうしてそうなったのかということを男性はつきとめようとしますが、なぜそうするのかが解らないことだってあります。人生の中ではその方が多いのではないか、そう感じています。

 

女性はよく恋をします。恋が得意です。不思議なのはある男性をどうして好きになったのか、たいていは知らないのです。本人にも解っていないのです。男性にはここがよく解らないのです。

男と恋とは無縁でしょう。男性は、もしかしたらほとんどの男性がそんな無駄な時間過ごせるか、というでしょう。私にもそういう時期がありました。

恋というのは理由がない世界で起こるからです。「何故」も「どうして」もない世界です。全く無意味の様なものの中に、とても大切なものを持っている、それが恋というものかもしれません。

女性の恋の様なのが、私が言う日常生活の何は随分あります。もしかしたら恋そのものが日常生活かもしれません。何故とどうしての法則では動いていないものです。

 

何が日常生活を動かしているのかと言うと、盲目です。

男が盲目になったら、何も見えないのです。本当に見えなのです。言葉座折りに見えないのです。

女性は盲目でも見えているのです。

この違いはとても偉大です。

 

日常生活に目覚めるというのは、この盲目の中でも見える様になるということです。

未来が見えないということも盲目の様なものです。

未来を想定するというのは男性がします。

女性は未来をつくりだすという、恐るべき力を持っているのです。

 

日常生活の中に私たちは子どもを未来に向かって育てる大きな力を見つけ出さなければならないのです。

教育というのは、本当はそれを助けるものでしかないのかもしれません。

 

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