誕生日

2016年5月13日

先日、誕生日の日にたくさんのお手紙や、メール、お電話をいただきました。皆さんが私のことを気にかけてくれたことはうれしい限りです。ありがとうございました。

しかし、誕生日だからその日が特別だという意識は薄く、内心はいつもと同じでした。

誕生日なんかどうでもいいとか、誕生日のことを全然気にもかけない人とか、誕生日を隠したりしていると、その人の方こそ周囲から変人扱いされてしまいます。今では誕生日を祝う人の方がはるかに多くすっかり定着してしまいました。しかしこれって昔から日本にあった習慣なのでしょうか。日本文化と誕生日とは食い合わせのような感じがしないでもないのです。公人たち、有名人たちの間では古くから祝う習慣があったようですが、私的な誕生パーティーのようなものは新しいのではないかと思うのですがどうでしょう。想像の範囲ですが、戦後急速に成長したものの一つに入るかもしれません。

大昔の中国を見ると、誕生日は今日の「お誕生日おめでとう」と言ってケーキの上のローソクを吹き消すのとは全く違っていました。極秘情報で、派手に祝うどころが外部に漏らしてはならないものだったのです。外部というのは戦争をしている相手方にです。当時の中国は幾つもの領主がしのぎを削る戦争が繰り返されていました。そんな中、戦争をしている相手方に指揮をとっている領主の誕生日が知られてしまうと、占いでその人の弱点が分かってしまいます。方位から見た暗剣殺、対中、本命とかです。誕生日がわかるとそこを突かれて負けてしまうため、領主の誕生日はひた隠しにされた極秘情報だったのです。今日多くの人が占いを見てもらって一喜一憂しているのとは次元の違う真剣勝負の話です。

ドイツの誕生日の風習はというと、誕生日の日、おじいちゃんもおばあちゃんも、大人も子どももみんなGeburtstagskindと呼ばれます。これをどう訳すのか、適当な訳語が見つかりませんが意味としては、kind 子どもという言葉が来るので、「誕生日を迎えた子ども」ということとも言えますが、ここでのkind はシンボル的な喩えです。その日一日だけ正々堂々と子どもに返っていいのです。大の大人でも童心に返って子どものように振舞うのです。あえてわがまま放題をする日であり、その日だけは許されるという日です。あなたは「この日の主人公なのです」ということです。ドイツでも誕生日を祝う習慣は新しいものだと思います。キリスト教、特にカソリックでは一年365日全ての日に一人づつ聖者が配置され祀られています。洗礼の時には誕生日の聖者の名前をいただくことになり、そのため姓名の名の方を英語ではクリスチャンネームと呼びます。宗教的に見れば本人のお誕生日ではなく、その日にあてがわれている聖者の日ということでお祝いをしていたのです。したがって個人の誕生日を祝うという考えは、宗教離れが生んだ現象だと言えそうです。宗教離れというよりも宗教から解放され、人間が一人の個人として尊重される時代のささやかな儀式なのかもしれません。

 

 

 

 

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