俳句入門、俳句は日本語にとっての砥石です。

2016年5月14日

俳句は日本語にとっての砥石だと思いました。俳句に接することで言葉へのセンスが磨かれるということです。

俳句と川柳とは形式的にはほとんど差はないのですが、川柳の方は季語がないという他に意味の面白さが前面に出てきます。一方俳句の方は言葉の遊びの占める比重が大きくて、私は勝手に「禅問答の独り言版」と決めています。また川柳が日常の中の面白さを掘り起こすのに対して、感性的にも、言語的にも、そして現実的にも矛盾した表現への間口が広いのも俳句の特徴だと言えそうです。

すなわち遊びの極致だということです。

こんな俳句を見つけました。

 

こはこれはとばかり花の吉野山 安原貞室(1610-73)

 

咲くからに見るからに花の散るからに 上島鬼貫(1660-1738)

 

読んですぐ日常から切り離されてどこか知らないところに連れて行かれます。安原貞室の句はまるで吉野の山に咲く桜の花の精に出会ったようですし、上島鬼貫の方は言葉で遊ぶ哲学、いやものしかしたら答えの出ない数学かもしれません。

 

俳句の醍醐味はなにかというと、バラバラに散らばっている現実、そしてそこの時間と空間を一つにまとめ一瞬の出来事として表現できる力を思う存分利用することです。言語の中に今も内在している、太古の人間たちが持っていた言葉の魔力、魔術のなせる技です。

言葉で遊ぶ前に感性の遊びがまずあって、その後に言葉の遊びが来るので、言葉だけ上手に並べても気の抜けた俳句になってしまいますから、まずは感性を鍛えなければなりません。それは個々がバラバラの現実生活を注意深く観察することからしか生まれないものです。また言葉で遊べるというのは言葉の裏表を自由自在に使えるということですから、言葉の意味だけでなく、言葉の無意味も味わい尽くさなければならないということになります。日常生活で繊細に言葉を使い分けて、時にはトンチンカンなことを大真面目に言えるように訓練しなければなりません。

私の知り合いの料理の名人と言えるほどの人から聞いたのですが、彼が自分の家で食べる時は、とんでもないものを作って食べるらしく、家族からは気持ち悪がられたりするそうです。なぜそんなことをするのかと聞いたら、とんでもないものからしか発見がないからという答えが返ってきました。話を聞いていたら食欲がなくなるようなものまで大真面目に食べているのです。

言葉に長けているということは、単語の数を増やすということではなく、簡単な言葉のもつ有効範囲をしっかりと把握することです。というか、既成の有効範囲を広げるくらいの意気込みがないと面白い俳句は作れないかもしれません。

飛躍した例かもしれませんが、外国語で3000語の単語の意味を表面的に知っているより、1000語を広く深く理解している方が確かな武器を手にしていることになって、読解力はその方が上なのです。

 

言葉の面白さというのはそうしたとんでもないところから生まれるもので、辞書に載っている意味だけでなく、まだ無数にあるはずの通常の意味を超えた有効範囲を感じ取る力を常日頃から意識的に訓練する必要があるのです。

だから砥石のような、と言ってみたのです。

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