ヘミングウェイの移動祝祭日、散文による俳句

2016年5月4日

俳句が世界的に広がっていることはすでにこのブログでも書きましたが、先日俳句を作る人と意見を交換していて、思うところがあり、俳句についてもう一度書きたくなりました。

結論だけ言うと、日本語以外の俳句は別物だと言うことです。そこを踏まえれば、外国語の俳句はだからおもしろいのだと言えそうです。

実は、外国語で作られた俳句を日本人が読んでも、少なくとも私の英語力では、わからないことが多く、十七文字、季語と俳句の規則を周到しながら詠んでいるのでしょうが、凝縮され、シンボル化され、その言葉独特の省略が生かされていて、外国語として読んだ時、十分な満足感を得られないことが多いのです。興味のある方は、Harold G.Henderson Haikuと検索してみてください。そこで英語の俳句に接することができます。

散文文化の言語は、散文で俳句を作る?ことのほうが自然ではないのだろうか、そんなことを以前にヘミングウェイの移動祝祭日と言う本を読んでいた時に思いました。その時、彼の文章は散文的俳句だと感心したのです。この本は、ヘミングウェイが二十代を過ごしたバリのことを自伝的に、エッセイ風にまとめた小説で、そもそも簡素化されているのが彼の文章ですが、さらに簡素化されています。ギリギリまで表現は節約されていて、白黒写真で当時のパリを見ているようなところがあります。ああいう英語を私たち日本人が書けるかと言うと、無理です。彼の本の中で、日本語で読むのが一番不自然に感じられたので、頑張って英語で読んだのですが、ひやひやするほどスリル感のある文章でした。これ以上簡素化されてしまったら、残された道は箇条書きしかないとさえ思ったほどです。

 

俳句は日本語以外からは生まれなかったものです。和歌と、お能と、連歌の伝統を踏まえて初めて生まれた日本的抽象のシンボルです。そしてそれがなんと今世界から双手を挙げて迎い入れられているのです。これ以上そぎ落とせないほど小さくなった詩が、種となって世界に植えられているのです。その俳句を他の言葉で作ろうとしている人が何十万といるのです。とんでもない無理を侵さないと作れないものです。と言うことは俳句を作っている人たちは、その言語に真っ向から対立するようなことをしながら、その言葉に新たな命を吹き込もうとしていると言えそうです。まるで明治の日本の文化人たちが、西洋の精神世界を翻訳を通して消化していったようなことが、俳句を通して今世界の言語の中に起ころうとしているのかもしれません。歓迎すべき現象です。言語は異文化を受け入れながら変化してゆくのですから。

Henderson氏はHaiku in Englishと言う彼の書いた英語の本の序文で、「英語で俳句が読まれることで、日本の俳句は豊かになった」と言ういい方をしていますが、これは西洋人のよくやる奢りと言う勇み足です。ここには英語の俳句がいつか日本の俳句を凌駕するだろうと言う意気込みを感じます。それは文化の摂取とは逆の方向を向いています。私は、英語で作られた俳句が英語に影響し、英語を変えるほどのクオリティーをいつの日かもち、俳句を通して英語がかわったと言われる日が来ることを願っているのです。

 

 

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