シューベルトという不思議な風。その三(アフォリズム的に)

2020年3月20日

シューベルトの音楽は文法を度外視しても使える日本語にそっくりです。(いやそっちの方が本来は日本語らしいと思っています)。

文章の構造的約束である文法より、生きた状況を読んでそれにふさわしい言葉を選択することが日本語の自然な流れなのです。外国の人が勉強させられている日本語を聞いていると実に不自然な日本語で、聞いていると背筋がゾッとします。

では日本語に文法はないのかというと、あるにはあります。何かを説明しているのでしょうが、ヨーロッパの言葉が文法という論理的思想に支えられているのと比べると、日本語の文法は単語の接続の辻褄を合わせるものです。

それだけでなく、ヨーロッパの言葉がロジック、理屈のためのものであるのに比べて日本語は理屈をこねるための言葉とは言えません。またヨーロッパの言葉は自己正当化のためにもとても優れた言葉ですが、日本語は「言挙げせず」という神道的な考えと同じで、屁理屈はこねないし、言い訳もしてはいけないのです。

 

 

シューベルトの音楽は形式がない、とは言えないのですが、シューベルトの音楽は、ソナタ形式に沿ったものを聞いても、形式のために音楽を書いたという形跡を感じません。ここがヨーロッパの感覚からすると本道から外れ、ひ弱なという印象に繋がるようなのですが、それはヨーロッパの言葉が文法を外してしまうと意味が伝わらないのによく似ています。ヨーロッパ文化というのは、とにかく意味を追求します。論理的な意味に出会うとするヨーロッパの精神にしろ言葉は、実は限界を持っているのではないか、そんな気がするのです。よく考えてみると文法というのがあって言葉があるわけではなく、文法というのは本来はなくてもちっとも構わないもので、却って文法に頼らなければならない言葉の方が言葉としても力がないのです。普通はこうは言いませんが、ここはとても大事なところです。同じことは句読点にしてもしかりで、例えば紫式部の源氏物語は句読点などなく綴られています。

 

 

即興曲というのがありますが、この手の、形式に囚われないものがシューベルトには多くみられます。即興曲で私の好きなのはD935-4で、8曲ある即興曲の一番最後を飾るものです。私の個人的な印象は、砂利道を散歩している時、石っころを蹴飛ばしながら歩いている。そんなような始まりで、しばらくは砂利道を歩いているのですが、ふと立ち止まってしまいます。しばらくすると今まで気になっていた石っころから内面の方に意識が向います。心の中にじっと耳を傾けると、遠くの方から何かを叩くような音が聞こえてきて、そのリズムと一つになりながらいると、その音はだんだん自分を超えたところを叩いているようなのです。今の自分を超えた未来の自分のようなものに向かって夢中に叩いているのです。

 

 

 

小我と大我、客観と主観という言い方があります。精神修行にではよく見かけるものです。それで生きている自分を説明しようと試みても、うまく行かない事が多く、二つに分かれた自分が統合失調症のようになってしまいます。

私たちがこの地上で生きるためには小我と大我、客観と主観が混ざり合って初めて可能なので、小我と大我の混ざり合った中我が欲しくなります。また主観と客観の中間の主・客観とでも言ったものが必要になります。

芸術というのはいつも小我と大我のどちらかに偏っているものです。客観と主観、古典的とロマン的というのでしょうか。

シューベルトはどちらにも与(くみ)することなく、古典的でありロマン派でもありといつも中道で、そのため中途半端という見方に甘んじることになるのですが、本当は一番人間臭いもので、実はこちらが芸術的には本道なのではないか、そんな気がします。つまり中庸ということです。

 

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