シューベルトという不思議な風 その二

2020年3月18日

シューベルトの未完成交響曲は謎に満ちた音楽です。未来への橋渡しの音楽だと考えています。なぜそう思うのかを書いてみます。

未完成交響曲は個人的にいくつもの楽しい思い出があります。その一つは高校生で構成されたオーケストラで聞いたときのことです。温もりのある音がしみじみと伝わって来て涙に潤んでしまいました。

音楽というのは音だけからなる抽象的なものです。鳴り終われば消えてなくなります。しかし音の中に様々な思いが込められていて、それは消えないのです。音楽の音はただの音ではなく、音はイメージに生まれ変わります。そのイメージの奥行きは無限です。イメージの中でありとあらゆるものに変容することができるのです。

実はその少し前にベルリンフィルハーモニーの演奏でこの曲を聴いたばかりでした。ベルリンフィルの指揮はバーレンボイムでした。少し早めのテンポだったので始めは少し戸惑いましたが、一流のオーケストラならではの安定した、非の打ちどころのない演奏でした。

ところが、私にも意外だったのですが高校性の演奏の方にずっと心がうごかされるのです。心が動かされるというのは、感動しているとか、感心しているとか、というより演奏に共感していると言ったものでした。技術的なことを言えばそれは高校生のレベルで、荒っ削りなものでした。しかし未完成交響曲になろうとしている何かが生きているのです。その何かはうまく言えませんが意志と言ったらいいのか、澄んだ衝動と言ったらいいのか、とにかく脈々と伝わって来るのです。聞いている間ずっと演奏を共有できて、今日はいいものを聞いたと幸せでした。

 

 

シューベルトのピアノ音楽の特徴は名演奏が通用しないということです。シューベルト弾きの巨匠などいうのは考えられないどころか、おかしくて吹き出してしまいそうです。緻密に計算されたもの、構成力を駆使したり、技巧を衒った演奏は悉くシューベルトの世界からはずれてしまうのです。固まった、杓子定規な演奏ではシューベルトのしなやかさが聞こえてこないのです。

 

シューベルトは主観的に弾かなければ味が出ません。誰かの真似や、先生が言った通りとかいう人任せの姿勢からではなく、自分が弾きたいように溌剌と弾くのです。それは自己主張、自己正当化という類の西洋の癖からはっきり距離のあるものです。勿論、主観に味が出るようになるために、自分をしなやかにする努力は必要です。そのためのエキササイズはあってないようなものです。

シューベルトの音楽は柔らかくて、いつ聞いてもしなやかで、こういう音楽を他で見つけようとしてもなかなか見つかりません。私が若い頃はシューベルトは知的でないと言われたものです。曖昧でいい加減なところがあるというのが多くの人の感じているシューベルトだったのです。

シューベルト観の変化はここ40年の間に変化しました。音楽以外に目を向けると、やはりここ40年の変化は特徴的で、それはシューベルトの音楽へと人々の関心を向かわせるものであったのかもしれまん。知的なものから脱皮です。特徴的なのは「答えはない」という姿勢です。知的な人たちにとっては答えというのは必ず用意されているものなのです。答えがないなんて考えられなのです。しかしここ40年の変化は「答えはない」ということを認める流れなのです。

リヒテルが聞かせてくれたシューベルトの世界はシューベルトが何を以ってシューベルトなのかを教えてくれたものでした。彼のドキュメンタリーフィルムのタイトルは「エニグマ(enigma)、謎」でした。まさにリヒテルにふさわしいタイトルでした。シューベルトの謎と、時代から生まれた謎、人間リヒテルの謎が、偶然か、運命的にか一つになって生まれた味のあるピアノ演奏でした。

実は未完成交響曲にも未来の謎がイメージとなって響いています。答えのある演奏ではうまく響いてくれない未来志向の音楽だったのです。

 

 

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