新しい出発 その二

2020年12月4日

ライアーの音は声のようであって欲しい、私はそんなふうに考えています。ライアーを声に近づけることでライアーの本質が表現されるのではないかということです。

声も音として捉えられるものですが、声は単なる音以上のものです。その特殊性は他でもない声は生命の証だからです。単なる発声器官の産物ではないということです。もう一度言いますが、声には生命が宿っているのです。私たちを生かしめている生命、生命力がそのまま響きになっているものです。元気な時の声には張りがありますが、病んでいる時の声は違います。この違いは一目瞭然で、誰にもすぐに分かるものです。声を聞いただけで「元気ですね」とか「元気がありませんね」と言えるのはそのためです。ここはとても大事なことなのですが、あまりに当たり前すぎて見過ごしてしまっています。そのため声をよくするためということで発声法が普及しますが、病気の人にいい発声法を伝授しても張りのあるいい声にはならないのです。まず元気を取り戻さなければダメだということです。

最近はコンピューターが言葉を操ります(言葉を喋るとは言えないと思います)。コンピューターの朗読もあります、文字を音声に転換してくれます。さらに私たちの言葉を認証し文字に変えることも当たり前になっています。そうした技術の進歩には目を見張りますが、その声に生命を感じることはありません。人間の声は多様なもので、心地よい声がある一方で、聞きたくない声、イライラする声というのもありますが、それでもそこにその声の持ち主の生命を感じるのですが、コンピューターの声は言葉を操作している音なので、将来どんなに進化しても人間の声のように生命は感じ取れないのです。

言葉がどんどん記号化していることにも注意したいと思います。ただ意味を伝える道具としか見られなくなっているようで、そうでな点に目を向けたいのです。記号かしたところにコンピュータと言葉の接点がある訳ですが、肉声によって伝えられる言葉にこそ、文字で書かれた言葉からでは読み取れないものが生きています。そこで言葉は用を足す以外の、意味以上の、言葉を喋る人間の「存在」「生き様」を伝えているからです。

幼児が言葉を学ぶ時の様子を見ていると、言葉が子どもたちの存在そのものと関わっていることを感じます。幼児の存在は成長そのものです。知的な作業によって言葉を覚えてゆくのではなく、心と体全体を使って言葉が話せるようになるのです。このプロセスはどんな言葉でも共通しています。

私は治療教育家として、しばらく情緒障害と呼ばれた子どもたちと過ごしていました。その子どもたちの多くが多重言語による問題を抱えていました。言葉がいくつもできるというのは、一見便利そうですが、危険な面もあるのです。子どもの中には、いくつもの言葉が日常生活の場で使われることを負担に感じている子どもがいるのです。その負担がどのように現れるのかは子どもによって異なります。肉体的な疾患を伴う場合もありますが、私のお世話した子どもたちのように、心の安定を欠いた子どものこともあります。いずれにしても、言葉は子どもたちの成長と密接に結びついていることがわかります。11世紀に一人のドイツの王様が、子どもに言葉を教えなかったらどうなるか知りたくて、孤児を集めて育てた時に、乳母たちに言葉がけを禁じました。子どもたちはほとんどが3歳に満たないうちに死んでしまったのです。栄養の問題ではなく、言葉がなかったから成長しなかったということのようです。言葉は成長のための栄養なんです。子どもの成長というのは他でもない生命力そのものです。よく言えば言葉によって生命力が鍛えられている訳ですが、私が世話した子どものように混乱した言語生活が生命力にとって負担になり、心が混乱してしまう場合もあるのです。

さて声ですが、声は言葉の習得とともに育ちます。言葉が育てた生命力が、実は声の素だったのです。声に生命力が宿るのは声が言葉を喋るからで、声は言葉から豊かさを授かるのです。

ライアーは言葉を喋れません。そこにどうしたら生命力を宿らせることができるのかという問題に直面します。初めに書きましたが「ライアーの音を声のようにしたい」と言うのは、発声法の対象となっている声のことではなく、生命の証としての声のことです。しかし声とライアーの音を分っている言葉というハードルがあります。声は言葉を歌ったり、喋ったりしますが、指と弦が触れ合ってできるライアーの音は言葉を喋れません。どんなに妙なる音でも声とは次元の違うとところに属しているのです。しかしライアーの音を存在からの音にすることができたら、声に幾らかでも近づけるような気がするのです。

この問題はライアーの音、ライアーの演奏に限ったことではなく、音楽をする人全部に言えることでもあります。音楽が私たちに与えられているというのは、私たちが音楽をする時、楽器を演奏する時、音に存在の息吹を吹き込めということなのかもしれません。そうして生み出された音は生命力となって聞き手を元気にしてくれます。音楽をすることで私たちは生命力のレベルのコミュニケーションをとっているのです。音楽的表現という技巧に走ると、音楽は生命力という音の根源から遠ざかってしまいます。

 

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