玉葱と猿、自我のことについて

2021年10月28日

自分だと思っているものが幻想だとしたら皆さんはどうなさいますか。
思い込みの産物だとしたら。
ぼんやりしている時、小春日和ののんびりした午後のひと時に「自分ってなんだろう」なんて考えていたら、幻想の中に消えてしまうかもしれないのです。

もう二十年くらい前になります。講演会のテーマに「自分探し」が頻繁に持ち出されてきて困ったことがあります。自分って探して見つかるものなのだろうかと思っていたし、そもそも自分というものなんて探して見つかるものではないと思っていたので、このテーマでやるのなら講演会はお断りしますと丁重にお返事しました。

お猿さんに玉葱をあげたらお猿さんはきっと怒るだろうからあげてはいけないと親に言われていました。
お猿さんは玉葱を剥くだけ剥いて最後に何も残らないので怒るのだと言うのが説明でした。
実際にやったことがないまま今日まで来てしまいましたが、今でもやってみたい悪戯の一つです。ただ動物園側は「餌をあげないでください」と言うわけで、この実験は今のところお預けになっています。
人間が猿から進化したものだと言うのは、ただそう言われているだけのような気がするのですが、この玉葱のことを考えると、人間も結構同じことをしているので、遠いい親戚ぐらいの関係はあるのかもしれません。人間の場合は「私と言う人番は・・」という層を何枚も剥がしたり、「自分」とか「自我」とかいう抽象的な概念を持ち出してきます。そこが知性で勝る人間の人間である証なのかもしれませんが、私が見る限り基本的には同じことをやっているように思えてならないのです。自分と言う皮をいくら剥いて行っても何も残らないと言うことです。
ただその時、自分と期待していたものが何もでこないことで腹を立てるか、そういうものなのだと納得するかの二派があると思います。皆さんはどちらですか。

「我思う故に我あり」をシュタイナーは手厳しく批判して、思っているとき、想念の妄想の中に現実の自分を置くことは意味がないと言います。考えた自分と現実の自分の間には超えられない溝があるからです。頭で考えた自分は、固まっているもので、過去を整理しただけのものだからでしょう。それに引き換え現実の自分は未だ実現していないものに向かっているものなので、搗き立てのお餅みたいなもので、如何様にも形が作れるものです。

人間はこの二つの間を行き来して、自分とはと言っているのでしょう。

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