非認知能力と馬鹿について

2022年3月31日

最近よく耳にするのは非認識能力という言葉です。認識能力はよく耳にしますが、これは新種です。

認知能力は知的能力、簡単に言うとお利口さんのことと見て言い訳ですから、非認識能力というのは非知的能力ということになり、知的でないことです。とは言っても、正直焦点を合わせかねます。とりあえずは馬鹿であること、馬鹿でいい、馬鹿を認めようということなのでしょうか。

ところがよくよく見ると、最終的には非認知能力を認めることで認識能力、知的能力を伸ばそうという流れになっているようなので、やっぱりお利口さんを作るための隠し味になりそうで、私が期待したのとは少々違うようです。馬鹿の存在感が全く感じられないのです。

 

知的能力を開発することが教育の主眼となった時代が長く続きました。実は私たちはそれしか知らないというのが現実です。その間に起こったことを振り返ると、ゆとりのない窮屈な社会の出現だったのではないのでしょうか。夏目漱石ではないですが、「智に働けば角がたち」ということのようです。知的なものは角張っていて、しかも反感に基礎があるので、冷たいもので、物事を理解するにしても距離を置いて他人事のようなコメントですから、空しさがあります。傍観者だからです。

非認知能力は合目的でないこと、無駄を認めること、そして一見意味のないことも認めようとしている訳ですから、今までにないスタンスです。これから社会的にどのように評価され、浸透してゆくのでしょうか、楽しみです。

 

馬鹿と利口のバランスが取れている人が理想的だと考えるのですが、そういう人は少ないものです。経験から言うと、話をしていてとても楽な人たちです。なぜだろうと考えるとその人たちは精神的に呼吸をしているからです。話し相手として前に立っている私がその人の中に組み込まれていると感じるのです。

利口な人は違います。息を止めて相手を睨みつけるので、こちらも息苦しくなってしまいます。私ははっきり排斥されているのです。

もちろん馬鹿な人と話をするのも疲れます。話が散漫になってしまい、纏まらないので気が抜けてイライラします。話は堂々巡りになるし、相手のどこにも私の居場所がないのです。

バランスが取れていることの素晴らしと、不思議さをつくづく感じます。

 

呼吸というのは本能的にバランスをとっているのに、馬鹿と利口のバランスは本能で処理されていないので至難の業です。このバランス感覚はどのように磨くことができるのでしょうか。

このバランス感覚は精神生活のためにはなくてはならないものですから、これからの社会を考えるならば今すぐにでも見つけなければならないと思うのです。そのためには知的能力に傾いたところをほぐす必要があると考えるのが普通ですが、知的能力に直接働きかけて功を奏することはないし、ましてや知的能力を否定する動きになってしまうのである意味危険を伴うので、そこに登場したのが先ほどから言っている非認証能力と考えたらいいのかもしれません。

 

これからも観察してゆきたいと思っています。と同時に私は私で、馬鹿というものを斜にではなく真正面から見つめてみたいとも思っています。

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