なぜ人は物語が好きなのだろうか

2020年12月15日

お話しは聞いていて楽しいものです。日常会話では起こったことを話しているので作り話はご法度ですが、映画館や寄席に多くの人が行くのは、本当では無いと分かっている話をワクワクして見たり聞いたりするためです。

小説家、童話作家、映画のシナリオ作家、落語や講談などの作者は作り話をでっち上げて上手に物語にしているのですが、誰もそれに腹を立てないのはなぜでしょう。嘘、でたらめ、でっち上げと分かっていても、聞いているとまるで本当のように聞こえてくるのはなんとも不思議です。物語るという手段、つまり嘘のことですが、それがなかったら人生の半分以上が干からびているかも知れません。以前にレンブラントの自画像展を見に行った時、美術館に見に来ている人の顔よりもレンブラントの絵の顔の方が真に迫っていて本物に見えたことがあったのですが、その時の狐に摘まれたようなのも似ているかも知れません。

 

前回のブログで音楽の演奏のことを書きましたが、演奏が楽譜通りであれば、音楽は無味乾燥で、干からんでしまうことに触れました。同じ作品も演奏者によって違うのは、そこに物語を作り出すという作業が加わっているからだとも言えます。解釈という上品な言い方もありますが、いずれにしろそうした味付けがないと薄っぺらな演奏なのです。そこのところを私のブログではイメージという言葉で説明しましたが、物語ると言ってもいいわけです。一つの音楽作品が物語になるかどうかは演奏家の力量次第です。この力量、なかなか眉唾なものかも知れません。

音楽もそうですが、一般に話し上手の人の話は聞き惚れてしまいます。あっというに時間が経っているのに驚かされることがしばしばあります。内容的には同じことを言っていても話し下手が話すのとは大違いです。どうしてこの違いがあるのか考えてみると、物語る力の有無にあるようです。私の独断ですが、話下手には堅物で、正直者で、嘘がつけないタイプなのではないかと思うことがあります。物語は結局は作り事ですから嘘と言ってもいいわけです。話し上手は嘘がうまく法螺吹きで、話し下手は嘘がつけない正直者なのかも知れません。

 

 

ところで嘘はどこからやって来たのか、気になります。未だ決定的なことを言い切った人はいないようです。ユヴァル・ノア・ハラリのホモサピエンス全史でも嘘の起源は保留していたように記憶します。

私は嘘は副産物ではないかと思っています。なんの副産物かというと、思考力のです。人間が考える能力を発展させる時に生まれたものと考えてはどうでしょうか。思考力は二つの側面を持っているのです。

今日世の中に蔓延している嘘の中で社会的に影響のある嘘はほとんどが、いわゆる知識階級、ホワイトカラーに属する人たちのものです。高学歴で、知的な人たちで、頭がいい人、思考力のある人たちです。そのため非常に狡猾で、よく考え抜かれている嘘が多いです。そこに騙されないためにはその裏を見抜く必要があります。よく言えば知的遊戯ですが、思考力がそこで鍛えられているとも考えられます。

もう一つは権力欲です。権力そのものは社会に存在する動かせないものでしょうが、それを欲する欲望が嘘を編み出すように思うのです。ファンタジーという言葉には二つの意味があります。一つはいい意味での想像力です。もう一つはよくない意味で、黒魔術に近いものです。欲望が働くと本来はいいものが豹変します。もう一つの嘘の出所は欲望と言っていいのではないのでしょうか。欲望がらみの嘘は悪意に満ちています。その嘘は思考力を鍛えるどころか、欲に眩んだ人類は我が身を滅ぼしてしまいかねません。

 

嘘は克服できるものなのでしょうか。

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