老いることの美しさ、やまさと保育園での講演録

2020年3月21日

今日は手前味噌なことを書かせていただきます。

 

今、「老いることの美しさ」、と題された、2003年に名古屋のやまさと保育園で行った講演をテープ起こしした小冊子を、再販のために読み直しています。改めて読み直しながら、この講演会の主催者でいらっしゃった今は亡き後藤淳子先生とのいろいろなことが思い出され、しばらくしみじみと懐かしさに浸ってしまいました。

再版の機会に、内容に少し手を加えて、と当初は思いながら取り掛かった仕事なのですが、それは途中で止めることにしました。手を入れ新しくなった物を読んだ時点で、ふと頭をよぎったことがあったからです。「講演録はあまり手を入れない方がいいですよ」という大昔にいただいた助言を思い出したのです。とりあえず編集の方には送らずに、二、三日放っておいて様子を見ることにしました。

やはり助言は正しかったようで、手を入れたものを読んでいるうちに、余計なことをしたもんだと随所で感じたのです。同じタイトルで今講演すれば、当時よりもいい話しができるのかというと、それは保証できるものではありません。確かに情報的にも、状況的にも変化したものに対応できる物が増えたかもしれませんが、それがいい話につながるのかというとそんなことはありません。特に私の講演は情報の新しさを売りにしているわけでなく、みんながとっくに知っていることを私の言葉で確認するという趣旨のものです。そのため、再販のために読み直しながら、自分で言うのもおかしいですが、すでに17年も経っているにもかかわらず、話しが古くなっていないのです。

実はこの講演、ほとんど即興に近い形ででやったものだったのです。今でもこの講演の前に、今は亡き当時のやまさと保育園の園長、後藤淳子先生と先生のお部屋で打ち合わせをした時のことをよく覚えています。もちろん後藤淳子流の打ち合わせです。それがどんなものだったかをこれからお話しします。

 

この講演会は、やまさと保育園の後藤園長の片腕として、長く一緒にお仕事をされた田中幹子先生が、ドイツのシュトゥットガルトにある特老施設、モルゲンシュテルンで研修された報告とジョイントするという形で行われることになっていた講演会でした。ですからそれにふさわしい内容を考えていました。そこで話そうとしていたのは、ドイツの特老施設のことだったのですが、そんなことではつまらない、私に独自の話しをさせようと考えられた後藤園長から、その日先生に「天界から降りてきたテーマ?」をいただいたというわけです。

 

「なかちゃん(後藤先生は私をいつもこう呼んでいらっしゃいました)、また降りてきたよ」

「何がですか」

「今日の講演のテーマさ」

「もう決まっていますよ」

「そうだったかね。でも降りてきたからそっちで話してよ」

「で、なんというタイトルで話すんですか」

「老いることの美しさ。これでやってね」

「今になって言われても、なんの準備もしていないですよ」

「だからいいんだよ」

「無理です。即興でやるんですか」

「なかちゃんならできるよ」

「先生こっちの身にもなってくださいよ。ぶっつけ本番で二時間話すんですか」

「そんなこと言わないでよ。とにかく降りてきたんだから」

 

こうして話すことになった講演です。読み返しながら思い出したのは、準備が全くできていないという状況が、実は私には向いていたのではないか、と講演会の後、ホテルで1日を振り返りながら気づかしてもらったことでした。それ以降準備はできるだけしないで講演をする方向に向かってゆきました。

その講演会は幸い外部には講演のテーマがあらかじめ知らされていませんでしたから、迷惑がかかったのは私一人で済みました。

 

この本が出来上がるはしばらくかかるとは思いますが、今日の老人問題とは全くかけ離れた観点から「老いること」、そしてそれが本当は「美しいことなんだ」ということを淡々と話した講演会の記録です。「多くの人に読んでいただきたいなー」と思う小冊子です。

シューベルトという不思議な風。その三(アフォリズム的に)

2020年3月20日

シューベルトの音楽は文法を度外視しても使える日本語にそっくりです。(いやそっちの方が本来は日本語らしいと思っています)。

文章の構造的約束である文法より、生きた状況を読んでそれにふさわしい言葉を選択することが日本語の自然な流れなのです。外国の人が勉強させられている日本語を聞いていると実に不自然な日本語で、聞いていると背筋がゾッとします。

では日本語に文法はないのかというと、あるにはあります。何かを説明しているのでしょうが、ヨーロッパの言葉が文法という論理的思想に支えられているのと比べると、日本語の文法は単語の接続の辻褄を合わせるものです。

それだけでなく、ヨーロッパの言葉がロジック、理屈のためのものであるのに比べて日本語は理屈をこねるための言葉とは言えません。またヨーロッパの言葉は自己正当化のためにもとても優れた言葉ですが、日本語は「言挙げせず」という神道的な考えと同じで、屁理屈はこねないし、言い訳もしてはいけないのです。

 

 

シューベルトの音楽は形式がない、とは言えないのですが、シューベルトの音楽は、ソナタ形式に沿ったものを聞いても、形式のために音楽を書いたという形跡を感じません。ここがヨーロッパの感覚からすると本道から外れ、ひ弱なという印象に繋がるようなのですが、それはヨーロッパの言葉が文法を外してしまうと意味が伝わらないのによく似ています。ヨーロッパ文化というのは、とにかく意味を追求します。論理的な意味に出会うとするヨーロッパの精神にしろ言葉は、実は限界を持っているのではないか、そんな気がするのです。よく考えてみると文法というのがあって言葉があるわけではなく、文法というのは本来はなくてもちっとも構わないもので、却って文法に頼らなければならない言葉の方が言葉としても力がないのです。普通はこうは言いませんが、ここはとても大事なところです。同じことは句読点にしてもしかりで、例えば紫式部の源氏物語は句読点などなく綴られています。

 

 

即興曲というのがありますが、この手の、形式に囚われないものがシューベルトには多くみられます。即興曲で私の好きなのはD935-4で、8曲ある即興曲の一番最後を飾るものです。私の個人的な印象は、砂利道を散歩している時、石っころを蹴飛ばしながら歩いている。そんなような始まりで、しばらくは砂利道を歩いているのですが、ふと立ち止まってしまいます。しばらくすると今まで気になっていた石っころから内面の方に意識が向います。心の中にじっと耳を傾けると、遠くの方から何かを叩くような音が聞こえてきて、そのリズムと一つになりながらいると、その音はだんだん自分を超えたところを叩いているようなのです。今の自分を超えた未来の自分のようなものに向かって夢中に叩いているのです。

 

 

 

小我と大我、客観と主観という言い方があります。精神修行にではよく見かけるものです。それで生きている自分を説明しようと試みても、うまく行かない事が多く、二つに分かれた自分が統合失調症のようになってしまいます。

私たちがこの地上で生きるためには小我と大我、客観と主観が混ざり合って初めて可能なので、小我と大我の混ざり合った中我が欲しくなります。また主観と客観の中間の主・客観とでも言ったものが必要になります。

芸術というのはいつも小我と大我のどちらかに偏っているものです。客観と主観、古典的とロマン的というのでしょうか。

シューベルトはどちらにも与(くみ)することなく、古典的でありロマン派でもありといつも中道で、そのため中途半端という見方に甘んじることになるのですが、本当は一番人間臭いもので、実はこちらが芸術的には本道なのではないか、そんな気がします。つまり中庸ということです。

 

シューベルトという不思議な風 その二

2020年3月18日

シューベルトの未完成交響曲は謎に満ちた音楽です。未来への橋渡しの音楽だと考えています。なぜそう思うのかを書いてみます。

未完成交響曲は個人的にいくつもの楽しい思い出があります。その一つは高校生で構成されたオーケストラで聞いたときのことです。温もりのある音がしみじみと伝わって来て涙に潤んでしまいました。

音楽というのは音だけからなる抽象的なものです。鳴り終われば消えてなくなります。しかし音の中に様々な思いが込められていて、それは消えないのです。音楽の音はただの音ではなく、音はイメージに生まれ変わります。そのイメージの奥行きは無限です。イメージの中でありとあらゆるものに変容することができるのです。

実はその少し前にベルリンフィルハーモニーの演奏でこの曲を聴いたばかりでした。ベルリンフィルの指揮はバーレンボイムでした。少し早めのテンポだったので始めは少し戸惑いましたが、一流のオーケストラならではの安定した、非の打ちどころのない演奏でした。

ところが、私にも意外だったのですが高校性の演奏の方にずっと心がうごかされるのです。心が動かされるというのは、感動しているとか、感心しているとか、というより演奏に共感していると言ったものでした。技術的なことを言えばそれは高校生のレベルで、荒っ削りなものでした。しかし未完成交響曲になろうとしている何かが生きているのです。その何かはうまく言えませんが意志と言ったらいいのか、澄んだ衝動と言ったらいいのか、とにかく脈々と伝わって来るのです。聞いている間ずっと演奏を共有できて、今日はいいものを聞いたと幸せでした。

 

 

シューベルトのピアノ音楽の特徴は名演奏が通用しないということです。シューベルト弾きの巨匠などいうのは考えられないどころか、おかしくて吹き出してしまいそうです。緻密に計算されたもの、構成力を駆使したり、技巧を衒った演奏は悉くシューベルトの世界からはずれてしまうのです。固まった、杓子定規な演奏ではシューベルトのしなやかさが聞こえてこないのです。

 

シューベルトは主観的に弾かなければ味が出ません。誰かの真似や、先生が言った通りとかいう人任せの姿勢からではなく、自分が弾きたいように溌剌と弾くのです。それは自己主張、自己正当化という類の西洋の癖からはっきり距離のあるものです。勿論、主観に味が出るようになるために、自分をしなやかにする努力は必要です。そのためのエキササイズはあってないようなものです。

シューベルトの音楽は柔らかくて、いつ聞いてもしなやかで、こういう音楽を他で見つけようとしてもなかなか見つかりません。私が若い頃はシューベルトは知的でないと言われたものです。曖昧でいい加減なところがあるというのが多くの人の感じているシューベルトだったのです。

シューベルト観の変化はここ40年の間に変化しました。音楽以外に目を向けると、やはりここ40年の変化は特徴的で、それはシューベルトの音楽へと人々の関心を向かわせるものであったのかもしれまん。知的なものから脱皮です。特徴的なのは「答えはない」という姿勢です。知的な人たちにとっては答えというのは必ず用意されているものなのです。答えがないなんて考えられなのです。しかしここ40年の変化は「答えはない」ということを認める流れなのです。

リヒテルが聞かせてくれたシューベルトの世界はシューベルトが何を以ってシューベルトなのかを教えてくれたものでした。彼のドキュメンタリーフィルムのタイトルは「エニグマ(enigma)、謎」でした。まさにリヒテルにふさわしいタイトルでした。シューベルトの謎と、時代から生まれた謎、人間リヒテルの謎が、偶然か、運命的にか一つになって生まれた味のあるピアノ演奏でした。

実は未完成交響曲にも未来の謎がイメージとなって響いています。答えのある演奏ではうまく響いてくれない未来志向の音楽だったのです。