断章、シューベルトという不思議な風。 その一

2020年3月13日

シューベルトはヨーロッパの音楽の歴史の中に忍び込む隙間風ではないかと思っています。根拠づけは曖昧で、音楽好きの仲間たちと話をしている時に感じる独特の印象からです。

実はシューベルトについて語れる仲間はそう沢山いないというのが私のささやかな経験で、私にとっては、イマジネーション、インスピレーション、イントゥイション(直感ないしは直覚と訳されます)の源泉でしたから、そこはかえって不思議でした。

ここに気がついてからシューベルトは私の中で輝き始めていました。シューベルトの音楽の特異性が私の中で膨らんで行ったのです。そして、そうか、シューベルトという音楽家は理解されにくい何かがあるのかという発見でもあったのです。私が若かった頃、1970年代は、ようやく表立った演奏会などでシューベルトが演奏され始めた頃ではないかと思います。もちろん録音も少なく、レコード店ではマイナーな音楽家でした。冬の旅、未完成交響曲、ピアノ五重奏曲のますと言ったところでした。

 

 

バッハが好き、ベートーヴェンが好き、ブラームスが好き、ショパンが好きというのと、シューベルトが好きと言うのは大文違うものです。モーツァルトはやや近いかもしれません。でもやはり違います。ハイドンには近いものを感じますし、同様にヘンデルも近いと思うのですが、シューベルトの音楽の無意味性からは少し距離があります。この距離感、説明しにくいとても不思議なものです。しかしこの距離感は健全なパースペクティーフを西洋音楽の世界の全体像を捉えようとする時輝き始めます。この一人の特殊な位置にいる音楽家を通してしか見えてこないものがあるからです。

シューベルトの音楽は西洋音楽というしっかりした建物の中にどこからともなく吹き込んでくる隙間風なのです。そうです、正統派ではなくむしろ異端児的存在です。

 

シューベルトの音楽、シンフォニーでもピアノ曲でも基本的には、言いたいことが正統派の音楽とは違うような気がするのです。さっき言った無意味性がポイントです。歌曲に至っては突出した異端児のようなものです。歌曲の王などと渾名されている割には、後にも先にも彼のような歌を書いた人がいないのです。ところがこの異端児は、歌曲と言うジャンルが音楽の世界からほとんど放置され忘れ去られたような現代でもお客さんを呼べる唯一の歌曲だと言うことになると、この異端児は単なる異端児ではなく天才の異名かもしれないと思いたくなります。他の正統派の音楽によって生み出された歌曲たちは今どこを彷徨っているのでしょう。そしてそもそも何を歌っていたのかと首を傾げたくなります。

 

 

繰り返しますが、シューベルトの音楽は何も言っていないのです。私はそのことを確信しています。思想的、宗教的観点から、哲学的、心理学的に至るまで、何も発言していないのです。ここがシューベルトが長いこと評価されることなく、悪く言えば二流の音楽家扱いされた理由です。若い頃シューベルトが好きだと言うと「ちゃんとした音楽を聞かなくちゃダメだよ」なんて言われたものです。

シューベルトへのこの確信が心の中をよぎって以来その時のことがしばしば思い出されるのです。とても新鮮な発見だったわけです。生きる力をもらったようなものです。それ以降は胸を張って「シューベルトが好きだ」と言っています。

 

ところが、何も言っていない音楽などあるか、と私の確信を音楽仲間に口にすると手厳しく反論されてきました。しかしどう考えてもシューベルトの音楽は何も言っていないのです。私はこれを無意味性と呼んでいます。そんなシューベルトの音楽に無理して何かを見つけ出さなければ気のすまない音楽の専門家たちは、色々と解釈して意味を押し付けてきています。が、私にはシューベルトが迷惑そうな顔をしているようにしか思えないのです。

 

 

そんな思いをいつか形のあるものにまとめてみたいという気がしてきて、今こうして書くことを始めたわけです。

繰り返しますが、シューベルトは何も言っていないのです。このことから始めたいと思います。

 

賀正

2020年1月2日

明けましておめでとうございます

今年の干支は子ですから、干支としては振り出しに戻ったわけで、新たな始まりと言えるのでしょうか。予想もつかない新しいことが起こるような予感がします。

一ヶ月以上ブログを休んでしまいました。

体力的に文章をまとめる力が無かったので、書き始めたものばかりが下書きにのこってしまいました。

新年を迎えその書きがけに手を加えるのではなく、気持ちを新たにブログに向かいたいと思います。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

仲正雄

 

イジメとは

2019年11月17日

イジメはもうずいぶん長くジメジメと社会に巣食っている現象です。特に学校社会でのことなのですが、未だ手だての方法が見つかっていないようです。ニュースではいつも事件発生後の、ほとんどが被害者の自殺、学校側の謝罪の場面が報道されます。

イジメの精神というのがあると思います。これは精神で、実はとても深く人間に根ざしていることを認識しなければ手だての方法は見つからないものです。どのくらい深いかというと愛と同じくらい深いものですが、愛の方が少しだけ深いので、手だてとして考えられるのは愛しかないかもしれません。

いや、愛だけでしょう。

 

さっき駅で「痴漢は犯罪です」というポスターを見ました。混んだ電車の中の痴漢行為、よく話題になるお酒を飲んだ乗客が飛行機の中でアテンダントのお尻を触るという行為すら犯罪視するのに、イジメは見て見ない振りをして野放図です。イジメだって同じく犯罪だと思うのですが社会はイジメに対していたって「おおらか」と言いたくなるくらい野放図です。学校は勉強しに来るところなので、イジメ対策は先生への義務でないかのようです。

ただ、痴漢を犯罪視しているにも関わらず痴漢行為はいまだに根絶していないところを見ると、イジメを犯罪視しもそれは決定的な手だてではないのかもしれません。

 

教育者こそそこに気付いていち早くイジメに対応して欲しいのですが現実は教育者の集まりの場でイジメが増殖しています。それでも野放図なのです。知らん顔している学校なのですから、学校を教育の場と考えることが間違っているのでしょうか。

もっと激しく言います。今日の学校教育の根底を支えているのは子供の成績だということです。その現実を見る限り学校は教育以前のレベルのもので、教育の名に価していない、と。

 

 

現代社会はお金中心に回っています。お金は大事なもので、人々の暮らしを幸せにするものですからいつの時代にも大切に扱われたものです。ところが今の時代ほどお金が人々の幸せと切り離されたことはないのです。

お金は空回りして、人々の生活、特に幸せとすっかり離れたところにいます。お金があっても幸せになれないどころか、お金があるから幸せになれないという事態すら生じています。お金のない国の子供達からは幸せという言葉が聞かれても、お金のある国の子供にとって幸せは蒸発してわからないものになってしまったのです。

 

幸せを知らない子供たちとはなんなのかというと、満ち足りていない存在です。満ち足りていないわけで、欲に振り回されて、もっともっとの世界をさまよっているのです。地獄のようなものです。成績もお金も、もっともっとの世界の写し絵です。本来成長というのは、欲とは無縁のもので、決して欲の反映したものではありません。成長というのはもっともっとではなく、今を満たしなが進んでいるもので、お金の世界で使われる「成長経済」という時の成長は、欲に裏打ちされた詐欺的に仕組まれた錯覚で、成長とは関係のない巧みに仕組まれたもっともっとなのです。

 

本当の成長のことを知れば・・、イジメから少し遠ざかれるような気がします