男のヒステリー

2016年1月26日

ヒステリーは古代ギリシャ語では想像妊娠のことでした。

女性が男性と交わることなく自分の思い込みで妊娠してしまうという神がかったものでした。実際には妊娠していないのに妊娠していると思い込んでいる状態です。しかも思い込みは思い込みで止まらず肉体にまで影響してしまうのです。

お腹の中に赤ちゃんはいないのですが、妊娠した女性のようにお腹が大きくなってゆくのですから尋常ではありません。しかも妄想からの思い込みが肉体という物質世界にまで影響してしまうというのですから驚かされます。

一体どういう女性がこの想像妊娠を経験したのか知りたくなります。

このヒステリー状態は長く続くことはなく、実はお腹には子供がいないのだとわかった時点でまた元の体に戻ります。

すでに古代エジプトの時代に知られていたようです。

ヒステリーと言うと、つい最近まで女性特有のものと思われていました。しかし私は男性にも同様のヒステリー現象があると思っています。男性の妊娠は頭脳の中で起こります。しかも、その時の架空の子供は思想的に何かを宿します。民主主義政治と呼んでいるものです。

私は民主主義政治は男性ヒステリーから生まれたものだと思っています。ところが男性の場合にも同様にヒステリーから子供は生まれません。この民主主義政治、実は妄想にすぎないものなのですが、困ったことに現実社会に影響してしまうのです。

政治は政、まつりごと、であった時には、神の意志を伝える役目を持っていました。しかし神からの意志が聞こえなくなった時点で、まつりごととしての政治は消え去り世の中に混乱が起こりました。世の中はそこで、妄想からの民主主義政治にとって代わられるのです。想像妊娠は子供を出産しませんが、お腹はそれでもどんどん大きくなって行くように、民主主義政治も頭の中でどんどん肥大して、現実社会で見えるものになって行きます。

ギリシャで生まれた哲学はとんでもない役を仰せつかったと言えるかもしれません。そもそも自己正当化の道を歩み始めていた哲学は、この民主主義政治という形態を正当化して現実として認めるようにしてしまったのです。この民主主義政治という子供は初めは妄想の産物で仮性子供 ? です。ところがこの実態のないはずのところに権力が忍び込んで絡まって、そして次第に権力は正当化された妄想の中に居場所を見つけるようになり、果ては武力まで手に入れてしまいます。

武力に訴える正当化された民主主義政治、これが今日見られる戦争を引き起こしているのではないのでしようか。

正当化する道を歩まなかった場合どうなるかというと、戦争は未だ神の意志としての聖戦という形をとることになります。

 

戦争の発端はヒステリーという妄想からの実態のないものです。それがただ正当化されたことによって実態があるように見えるのです。それが本来は妄想だとわかれば、女性の想像妊娠のように世の中はいつの日かまたもとに戻るに違いないのです。一日も早くそんな日が来ることを願っています。

アルベルト・シュヴァイツァーの「子どものころと少年のころの思い出」

2016年1月18日

アルベルト・シュヴァイツァーが生まれてから少年時代を過ごすあたりを綴った文章を読んでいます。

かつて読んだ自伝とは違って、シュヴァイツァーの素直な一面に出会ったので、そのことを書きます。

今回読んだものも自伝ですから、彼が1875年にフランスのアルザスという地方で生まれたとか、父親が牧師だったとか、どこの学校へ行ったとかいうことが書かれているのですが(この部分は手を加えて変更できないものですから、今回読んだ方のものにも前に読んだ自伝と同じように記述されています)、ところが読んでいるとそこにシュヴァイツァーが感じられるのです。私はワクワクしながら読み、そのことが不思議でなりませんでした。

シュヴァイツァーはアフリカ医療とか、バッハのオルガン奏者・研究者として有名になり、さらにノーベル平和賞をもらってからは人類の優等生の様なボジションに置かれてしまいました。そんなスタンスから書かれたものは、確かに優れた立派なものなので、学ぶべきところがたくさんあるのですが、彼の人間性、個人的な雰囲気を感じるものではありませんでした。

特にシュヴァイツァーについて書かれたものは、彼を崇め立てすぎているものが多く、読んで楽しいものではありませんでした。

今回手にした幼児期と少年期の思い出を綴った小冊子は全く違っていました。彼の情感から迸り出たようなみずみずしさがあり、一つ一つの思い出のその時に、その現場に読者である私を引き連れて行くのです。私は初めてシュヴァイツァーという人を、人となりを感じたのです。それ以上にシュヴァイツァーという人と一緒にいる感じが嬉しかったのです。一人の個人として生きているシュヴァイツァーでした。彼の心の体験の機微がきめ細かに描かれるのです。思い出を丁寧に一つ一つ言葉にして行く彼の優しさに触れ、とても暖かいものに包まれた思いでした。彼がそれを懐かしがっているというより、楽しんでいるようにすら感じるのでとても親しみを覚えます。文章も言葉の選び方もとても丁寧です。

 

かつて読んだ自伝を引っ張り出して読み比べてみました。そちらの方は、文体が全く違っていて、ただただ事実を的確に書いているだけでした。あの時あそこでこういうことがあったという、年表に少し色をつけたようなものなので、一般化されたシュヴァイツァーでした。ところが今読んでいる自伝の文章からは、彼と共に居るという感触があり、とに書く読んでいてワクワクするのですから、同じ著者のものかと疑ってしまうほどです。

 

私たちが感情、情感と言っているものは、ややもすると思考や知性的なものの下に置かれてしまいます。情に流されてしまうというような言い方がされています。よく考えてから行動しろとか言います。インテリジェンスこそが現代の花形です。

しかし今回の二つの自伝から受け取った印象の違いから、私は感情の豊かさが知性的に優秀であることに勝るのではないのか、そんなことを考え始めたのです。

思考する能力の大切さはもちろんですが、思考とはただ整理するにしか過ぎないこともあります。都心の複雑な道路が信号などできちんと整理されているのは思考する能力があってのことです。ありがたいことだと思っています。意味とか目標とかいうことも思考から編み出されるものでしょう。

それに比べると感情というのは低俗なもののように見えます。みんなが感情的に自動車で道路を走ったら混乱が生じて、事故が多発し、渋滞してしまいます。それでは交通は成立しないのは目に見えています。だから思考が、知性が大切ということになるのでしようが、感情には知性ではできないことをする能力があるという確信を今回のシュヴァイツァーの文章から得たのです。それは、感情というのは思い出を再び生きる能力だということでした。思考や知性は思い出として浮かび上がってくるものを正確に描写します、しかしその時を再び生きる能力は備えていないのです。これは個人の記憶というものとして考えるだけでなく、他人とどう関わるかということにまで波及するもので、思考や知性は他人を正確に、的確に整理されたものとして描写することは得意かもしれませんが、他人の気持ちを一緒に生きるということは苦手ですからしません。それができるのは感情があってのことなのです。

ただ、感情とは言っても単に衝動的でエモーショナルなものではなく(それは確かに迷惑なものであることが多いですが)、もしかすると思考・知性によって浄化された感情というものがあるのかもしれないのです。何れにしても感情には一つになるという能力が備わっていて、浄化された感情にも脈々と生きています。今日のように人間が、一人一人バラバラになってしまった、思考的な知性に支配された整理された社会で生きるには、感情が必要なものとして再評価される必要があるのではないか、そんなことを感じるのです。

感情というのは定義しにくいですが、ハートのことです。ハートで考える、それが浄化された感情ということなのかもしれません。 

言葉の正確より繊細さ、イメージする力を

2016年1月12日

英語で long というとまずは「長い」と言う形容詞が思い浮かびます。副詞的に使えば「長く」です。

long long ago, long timeとかa long bridgeとか言う風に使われる訳ですが、long は形容詞だけでなく、名詞として使われ、動詞としても使われることは辞書を調べるとでてきます。辞書で単語を調べるとき、意味だけでなく役割もしつかり把握することが上達の秘訣です。

名詞として使うと、I don’t have long to live. これは「私はもう先が長くない」と言う不思議な意味を持ちます。take という動詞と結びついて、熟語的に「時間が長くかかる」と使われることが多いです。

動詞として使えば、I long to see you. となって、「あなたになんとしても会いたい」という熱い思いの表現になります。

ただし動詞の long は辞書によっては別の言葉として扱われたりしています。

 

言葉を覚えて行く子どもたちにはしばしば驚かされます。そんな子どもたちの立場で、彼らが言葉とどうか関わっているのか書いてみます。

みんな long ですから、辞書もなく、文法のことなど知らないで聞いている子どもにとってはただ一つの long があるだけなのです。大人にとっての l0ng にはと色々な解釈が付いてきますが子どもにとってはただ一つの long だと言うことです。ここをしっかり押さえておいてください。

まず子どもは long と言う音を正確に発音できるように努力していると思います。と同時に子どもは情況の中での使い分けを察知するようになります。いつ誰がどんな風に使ったのか、どんな風に強調されているか、アクセントはどこにつけられるのかということをです。もちろん文法的にではなく、フィーリングで学びます。しかし正確に状況を把握する中で、どのように使われるのかをきめ細かに観察しながら察知して、しばらくするとそれをちゃんと使い分けられるようになるのです。子どもが察知している区分けは、言語学者たちが知恵を絞って作り上げた辞書が説明する何倍も正確なニュワンスを把握しているものです。

以前にブログで、昼寝から覚めてお母さんが買い物に行ってしまっていないことに気がついて、お守りをしていたおばあちゃんに向かって二歳半の女の子が「私も一緒に生きたかった の に」と言う絶妙な表現を披露したことを書きましたが、二歳半ですでにそのくらいのニュワンスを使い分ける能力は子どもの中に熟しているのです。

さて英語の long に戻りましょう。

大人になって再び忘れていた英語を学ぶとなると long の意味は三つあると言うことから学ぶわけです。ですから long が出てくるたびに辞書をひいて調べてどの意味かを探り始めます。弓を射るようなものですからなかなか的に当たりません。

 

ここで一つ提唱したいのは大人にとっても long は一つの意味で理解することが望ましいと言うことです。

long は長いと言う形容詞でした。これは時間の時も空間の時も使えます。ある一点から別一点までの距離がある時に使います。three meter long だと「3メートルの長さ」です。この時3メートルというのは単に数字的な記号ではなく、3メートルの隔たりは初めから終わりまでずっとつながっているのです。これをしっかりイメージしなければなりません。巻尺で測る時のイメージです。long long agoも同じです。ただの大昔ではなく、今の今までその時からずっとつながっている昔なのです。ですから long はただ長いと言うだけではなく、繋がった長さを意味しているので、時間をかければもっといい訳語が見つかるかもしれません。

このつながっていると言うところが、動詞の「思いこがれる、切望する」につながるのです。形容詞の long の時に、すでに二点の間にある緊張感が感じられていれば、その緊張感が動詞になっているのですから、この言葉は一つだと感じられるわけです。少しだけですが子どもに近づいているわけです。

etymology 語源学と言う学問があります。一つの単語の生い立ちを説明しているものです。これをうまく使うと、現在は別々の言葉と理解されている単語が元々は一つのものだと言うことに気づかせてくれます。こういうところに時間をかけると、言葉の全体像が見えてくるので、初めは面倒臭いですがおすすめです。

クドクドと説明すると長くなってしまいますが、これを子どもというのはなんの苦もなく理解してしまうのです。

初めて色々な long を聞いた子どもはきっと混乱しているはずです。長いと切望するが同じ言葉なんですから。しかしだんだんわかってきて、首を長くして待つとこじつけたりしながら理解が深まって行きます。そしてしばらくすると情況を通じて把握した使い分けができるようになってゆくのです。素晴らしい能力です。これは言語能力というより、イメージ力だと思います。子どもは理屈で整理しているわけではなく、混沌と入り乱れている言葉の海の中を、また雑然とした日常生活の中をイメージ力で泳げるようになって行きます。羨ましい限りです。成人して言葉を学んでいるとこんな時代に戻りたいとつい思ってしまいます。

 

私はできるような気がしています。もちろん子どもそのものにはなれないですが、一つの単語を、意味的な正確さというレベルを超えて行ければなんとかなるようにかんじています。つまり、分岐した幾つかの意味をイメージで統合することで、子どものと時のようなイメージにあふれた言語体験ができると思っています。

一つの単語を知性で限りなく分化することで、その単語を正確に使えるようになると考えがちですが、これは言語の学び方としては未来形ではありません。この分化するというところがいかにも科学的であり知的な感じがするのですが、サイエンスという言葉の意味を知ると、なるほどと納得できます。サイエンスという言葉の意味は「分化すること」と意味を含んでいるのです。

分化することから統合することへ、ここにイメージ力が関わってくるのです。

言葉をイメージする力をつけてゆくと、対人関係でもとてもふくらみのある付き合い方ができるようになるものです。