アルベルト・シュヴァイツァーの「子どものころと少年のころの思い出」

2016年1月18日

アルベルト・シュヴァイツァーが生まれてから少年時代を過ごすあたりを綴った文章を読んでいます。

かつて読んだ自伝とは違って、シュヴァイツァーの素直な一面に出会ったので、そのことを書きます。

今回読んだものも自伝ですから、彼が1875年にフランスのアルザスという地方で生まれたとか、父親が牧師だったとか、どこの学校へ行ったとかいうことが書かれているのですが(この部分は手を加えて変更できないものですから、今回読んだ方のものにも前に読んだ自伝と同じように記述されています)、ところが読んでいるとそこにシュヴァイツァーが感じられるのです。私はワクワクしながら読み、そのことが不思議でなりませんでした。

シュヴァイツァーはアフリカ医療とか、バッハのオルガン奏者・研究者として有名になり、さらにノーベル平和賞をもらってからは人類の優等生の様なボジションに置かれてしまいました。そんなスタンスから書かれたものは、確かに優れた立派なものなので、学ぶべきところがたくさんあるのですが、彼の人間性、個人的な雰囲気を感じるものではありませんでした。

特にシュヴァイツァーについて書かれたものは、彼を崇め立てすぎているものが多く、読んで楽しいものではありませんでした。

今回手にした幼児期と少年期の思い出を綴った小冊子は全く違っていました。彼の情感から迸り出たようなみずみずしさがあり、一つ一つの思い出のその時に、その現場に読者である私を引き連れて行くのです。私は初めてシュヴァイツァーという人を、人となりを感じたのです。それ以上にシュヴァイツァーという人と一緒にいる感じが嬉しかったのです。一人の個人として生きているシュヴァイツァーでした。彼の心の体験の機微がきめ細かに描かれるのです。思い出を丁寧に一つ一つ言葉にして行く彼の優しさに触れ、とても暖かいものに包まれた思いでした。彼がそれを懐かしがっているというより、楽しんでいるようにすら感じるのでとても親しみを覚えます。文章も言葉の選び方もとても丁寧です。

 

かつて読んだ自伝を引っ張り出して読み比べてみました。そちらの方は、文体が全く違っていて、ただただ事実を的確に書いているだけでした。あの時あそこでこういうことがあったという、年表に少し色をつけたようなものなので、一般化されたシュヴァイツァーでした。ところが今読んでいる自伝の文章からは、彼と共に居るという感触があり、とに書く読んでいてワクワクするのですから、同じ著者のものかと疑ってしまうほどです。

 

私たちが感情、情感と言っているものは、ややもすると思考や知性的なものの下に置かれてしまいます。情に流されてしまうというような言い方がされています。よく考えてから行動しろとか言います。インテリジェンスこそが現代の花形です。

しかし今回の二つの自伝から受け取った印象の違いから、私は感情の豊かさが知性的に優秀であることに勝るのではないのか、そんなことを考え始めたのです。

思考する能力の大切さはもちろんですが、思考とはただ整理するにしか過ぎないこともあります。都心の複雑な道路が信号などできちんと整理されているのは思考する能力があってのことです。ありがたいことだと思っています。意味とか目標とかいうことも思考から編み出されるものでしょう。

それに比べると感情というのは低俗なもののように見えます。みんなが感情的に自動車で道路を走ったら混乱が生じて、事故が多発し、渋滞してしまいます。それでは交通は成立しないのは目に見えています。だから思考が、知性が大切ということになるのでしようが、感情には知性ではできないことをする能力があるという確信を今回のシュヴァイツァーの文章から得たのです。それは、感情というのは思い出を再び生きる能力だということでした。思考や知性は思い出として浮かび上がってくるものを正確に描写します、しかしその時を再び生きる能力は備えていないのです。これは個人の記憶というものとして考えるだけでなく、他人とどう関わるかということにまで波及するもので、思考や知性は他人を正確に、的確に整理されたものとして描写することは得意かもしれませんが、他人の気持ちを一緒に生きるということは苦手ですからしません。それができるのは感情があってのことなのです。

ただ、感情とは言っても単に衝動的でエモーショナルなものではなく(それは確かに迷惑なものであることが多いですが)、もしかすると思考・知性によって浄化された感情というものがあるのかもしれないのです。何れにしても感情には一つになるという能力が備わっていて、浄化された感情にも脈々と生きています。今日のように人間が、一人一人バラバラになってしまった、思考的な知性に支配された整理された社会で生きるには、感情が必要なものとして再評価される必要があるのではないか、そんなことを感じるのです。

感情というのは定義しにくいですが、ハートのことです。ハートで考える、それが浄化された感情ということなのかもしれません。 

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