詩の言葉と散文
日本の言葉は韻文が根幹にあるようです。それはひいては思考にまで影響していて、詩的思考に傾いているように感じます。
日本では、新聞などで素人の人が詠んだ俳句や和歌が選者によってスラバレ掲載されています。ドイツではそのようなことは全くと言っていいくらい見られないことです。日本ではまだ俳句や和歌の文化が生き続けているのですが、ドイツなどでは詩的表現は一般文化の中から消えてしまったかのようです。なんでも直接的にいうことがいいことで、歪曲されたような、悪くいうともったいつけたような回りくどい言い回しは好まれません。詩的表現はほとんど見られなくなっていて、言葉といえば全て直接意味がわかる散文のことになってしまいます。
散文はものを直接的に説明するのに便利な言葉です。しかも現代人が言葉に期待しているのがそのような歯に衣着せないような直接的説明ですから、散文はそのためにうってつけということになり、詩の言葉は忘れ去られることになってしまったということです。詩の言葉は散文と違って、読み手の感性に働きかけようとします。散文が知性に訴えかけようとするのに対して、詩は幅広く感じる心を相手に期待しています。含みのある理解だとも言えます。
詩の言葉は知的正確さではなく、感性の繊細さ、豊かさ、多様性と言ったところから生み出されます。表現したいものをどのような道筋で運んで行こうとしているのか、そのために研ぎ澄まされた感性、感覚、感情が言葉を探しているので全く別の言語感覚がそこにはあります。
知性は物事を一般化、平均化してしまいます。知性が中心になると意味ばかりが強調され、個性は重要なものではなくなってしまいます。幅の狭い理解とも言えます。個性は個人個人によって違うものですし、違うことを「良し」とするものですから、平均化よりも違いを謳歌します。
私たちが感情と呼んでいるものは、知性の合理性とは違って幅があり曖昧なものとして理解されていますが、一人ひとり違う存在なのだということを認めることができれば、そこにある幅は楽しいものなのです。ただ現代は幅の狭い理解を求める知的社会ですから、感情的に起因する主観的な個性のあり方が許せないのかも知れません。
そうした心の状態が如実に見てとれるのが、詩的言葉が失われてしまったところです。詩的言語の退行現象です。詩的に表現するなんて、曖昧な上に意味がないことと言われてしまうのです。
感情的というのは主観的で、知的な客観性からすると幼稚なもののように見られがちですが、それは違うと思います。合理的なものが主流の現代だからそう見えるだけで、主観的、感情的なものが持つ幅はもっと評価されていいものだと言いたいのです。
知性というのは前提があるところで有効ですが揮発性があって、前提が崩れてしまうと意外とあっさりと消えてなくなってしまうものでもあります。主観的、感情的なものはそう簡単には消えてなくならない根っこを持ったものなのです。