過ぎたるは及ばざるが如し
今の時代の特徴を一言で言えば、過剰生産の他には思いつきません。むやにものを作ればいずれはこうなると経済学者たちは予想できなかったのでしょうか。経済学という学問がその程度のものならば経済学という名を返上すべきだと思います。思いつきで語ってはいけないこともあのです。
ものを作り過ぎるというのは人類史の中でもつい最近のことのようです。具体的にいつどこで始まったのかと考えると、当然のごとくに産業革命が思い当たります。それまでは手作りだったものを機械で生産するのです。初めは多くの人に物が行き渡るのを幸せにみていたのでしょうが、状況はいつの間にか逆転して、今では色々なものが溢れんばかりになってしまいました。ものを機械で生産し続ければいずれは過剰生産の時代が来ることは普通の常識でわかるものです。機会をコントロールできなくなってしまった人類には悲しい末路が待っているのでしょう。
合理的にということを考える知能明晰な人たちがこんなミスを犯すなんて信じ難いことです。でも実際に起きてしまいました。知能明晰はあまり役に立たないもののようです。もっと前に誰も止めることができなかったのが何よりも不思議です。まるでグリム童話の中の「甘いお粥」の話そのものというところも滑稽極まりないところです。
車のエンジンを自力で作れない国が、プラモデルのような電気自動車ならできると、むきになって作ってみて面白いように売れたのでさらに拍車がかかった挙句、今では作りすぎという悲劇の渦中にいます。火を見るより明らかだったのではないかと想像するのですが、そこで歯止めが効かないのが現代の利益が優先する物欲に振り回された社会の悲劇のようです。武器を余るほど作って仕舞えば、それを消費するために戦争が必要になるわけです。この先もこの利益をもたらす過剰生産は続くのでしようか。先日洞窟探検家の人が「水さえ飲んでいれば十日くらい食べなくても生きてゆけますよ」と、洞窟の中での実際の体験を語っているのを聞くのは衝撃的でした。遭難した人が板チョコで数日生きていられたので救われたという話も思い出しました。
武器が際限なく作られ世界中に溢れれば戦争が必要になってきます。至る所で戦争が準備されるのです。そうすると人類はどんどん貧しくなってゆきます。足を知るというのは人類がみんな難民になってしまわないとわからないことなのでしょうか。それではあまりに愚かとしかいえないような気がします。