東洋と西洋の関係の変化

2025年8月2日

日本人としてドイツに生きていると、この問題、東洋と西洋は政治的、文化的という以上に日常レベルのもので、犬も歩けば棒に当たるようなものですから四六時中形を変え見え隠れしています。極論すれは二人の人間の間にいつも問題があるようなものです。歩み寄りによる解決があるだけで、綺麗に割り切れるような整理された解決というのはなく、ある意味永遠に謎として君臨している課題だといえます。

歩み寄りといえば聞こえはいいですが、簡単なことではないので、多くの場合綺麗事で終わってしまうことの方が多いかもしれません。お互いに敬う姿勢、信頼感情がないところでは、弱者と強者という関係が生まれ、それが権力となって力任せが横行してしまうものです。戦争というものが未だに絶えることがないのはそういうことと関係しているのかもしれません。

この点に関しては、理解を過信してしまうところが一番の問題です。相手を理解したというのは、実は過信で相手を自分の範囲の中で解釈したわけで、コメントに過ぎないのですから、歩み寄りとは似ても似つかないものです。歩み寄るには相手を敬い信頼しないと始まりません。敬うというといささか大袈裟になってしまうので、相手を好きになるか、相手を羨むとかいう信頼感情が大切になってきます。理解するというのは、ある意味整理するということですから突き詰めると知的な作業で、そこには相手との距離が生まれてしまい、その距離感が障害になってしまうのです。その障害を取り除かなければならないのです。取り除くためには感情的な力が働かないと難しいようです。今の時代は人間があまりに知性を過信していますし、知的に整理する能力が発達してしまったが故に、相手との距離を縮めることができなくなってしまったのではないのでしょうか。

17世紀、18世紀に西洋に起こった主知主義と呼ばれる、知的であることが最上であるという考えが未だに尾を引いているのではないかとも思います。そこから抜け出せないだけでなく、さらに追い討ちをかけるように、現代はコンピューター、AIという道具まで発見して、主知主義を徹底させようとしているようにしか見えないのです。

ただ私にはこうした現象が主知主義の末期症状として映るのです。知性というのは現時点である種の飽和状態になっていて、もうしばらくすると解体してしまうのではないかとすら思ってしまうのです。人間が個性尊重とか、個人主義とか、自我とか、自己主張と言って自己中心になってしまい、人間同士お互いに距離を置くようになり、孤立してしまい、最後は孤独になり鬱病にかかってしまったように、知性は最後は価値の崩壊を招くことで物事が判断できなくなって混沌とした社会を作ってしまうのではないか、そんな気がするのです。もしかすると今すでに混沌の前兆が見えているのかもしれません。世界情勢を見ると何をどう判断したらいいのか、誰にもわからなくなってきています。これは政治的テクニックで解決できるものではなく、人間の根本に関わる問題で、知性中心から敬いと信頼を持った感性へという流れが生まれないと解決できないものだと思っています。

東洋と西洋は、知性が活躍した時代は分かり合えないという言い方がされましたが、将来感性が台頭してくることで、今までとは違う関係が作られることを祈っています。

ゴッホというオランダの画家が日本の浮世を初めて見たときのことを思うと、ただ感動したとか、影響を受けたという次元の話ではなく、浮世絵と一つになってしまったと言えるほどの感銘を受けた姿が彷彿としてきます。浮世絵を理解したのではないのです。それは学者、評論家の仕事です。彼は「俺を北斎と呼べ」というくらい、浮世絵と一つになってしまったのです。幼い子どもが周囲の世界と一つになることで初めて世界を学べるようなものです。それは模倣と言われていますが、模倣の根底にあるものは信頼です。今目の前にある世界への信頼です。今目の前にある世界と一つになりたいという意志が働いているのです。その意志と信頼感情とは切り離せないものなのかもしれません。

 

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