褒めるとは
誰でも一度くらいは褒めたことがあるはずです。何を褒めるのかはここでは大した問題ではないので、ものでも人間でもいいのですが、駆け引きなしに素直に褒めるということをです。もしそのような経験がない方がいれば、「それは悲しいことです」と申し上げたいと思います。
褒めると言うのは難しいことだと思っています。安易に褒めるとかえって礼を逸した仕草と受け止められることもあります。相手もを不愉快にすることもあります。褒めるという所作が難しいと思うのは、基本的には敬いの気持ちにつながるからです。そのためかどうかはわかりませんが、褒めることについては意外と語られていないものです。もちろんむやみに「素晴らしい・感動した」といった言葉を連呼してもそれは誉めたことになっていないだけでなく、相手を不愉快にしていたりもします。
褒めるとは本当はとても難しいことなのです。誉めている言葉の奥に畏敬の念、敬意といったものを感じないと嫌味に聞こえねこともあります。軽々しく褒めている人を見ていると、嘘っぽく聞こえ品位を感じないだけでなく、褒めているつもりでも、おべっかいのようないやらしいものに映ります。打算の混じった褒め言葉ほど偽善的なものはないかもしれません。
褒めると言うのは評価とは違うものということを心しておかないと、両者を混同してしまいます。評価は知性から生まれるもので、色々と比較した上で下されていることが大半です。ですから評価している人は知的であることが評価されます。しかしの感情の部分は顧みられないものです。それは褒めるという行為が感情とは別のものだと知っているからだと思います。評価で大事なのは客観的であること、つまり評価の基準のようなものです。しかし客観とは言っても主観的な基準がもとになっていることもありますから、主観か客観化の境は曖昧なものと言えます。そして時に評価というのは抽象的なものになりかねません。
褒めるというのは主観からのものです。知的であろうとしている現代の人はなんでも対象を評価しています。評価の数値、点数が飛び交っていて、それがものの価値を決めてしまっていることもあります。そこで怖いのは評価が一人歩きしてしまうことです。評価とは言っても実は相対的なものだということは心しておく余裕が欲しいものです。
小学校の時に音楽の時間に一人ひとりが教室の前に出て先生の伴奏に合わせて歌わされたことがありました。それは評価されて後日点数となって渡されました。もちろん他の人にはわからないように個人にだけ渡されたように記憶しています。とは言うものの一生懸命歌ったのに評価が低かった級友はとてもガッカリしていました。音楽教師になるための養成を受けた先生の下す評価ですから、ある程度は客観的に判断されてのことと思うのですが、低い評価しかもらえなかったクラスメイトたちは納得がいかないようでした。そもそも歌うことは評価できるようなものではないと思うのですが、残酷にも点数がついてしまったのです。今にして思うと、下手とか上手を別にして良かったところを指摘して簡単な褒め言葉を渡してあげればよかったのではなかったのかと思ってしまいます。「私は、僕は歌が下手だ」と思っている同級生もいましたが、もし彼らが先生からサプライズな褒め方をされていたら、彼らの人生が変わったかもしれないと今にして思います。子どもが歌う歌に点数をつけるなんて、なんてセンスのない、残酷なことをやっていたものだとつくづく思うのは、芸術的なものは点数評価から外れているところに価値があると思っているからです。なぜそんなことが起こったのか、教育の至らなさのようなものを痛切に感じます。子どもが一週懸命歌ったことそのものが、それだけで価値のあることで、それだけでもう十分素晴らしいことなのに、そこに評価のような残酷なことがなされれるなんて、本当にセンスのないことだとただただガッカリしてしまいます。
私たちの生活の周りを見ると、評価ばかりが氾濫しています。料理の世界でも評価が見られます。大変もてはやされているようです。音楽の世界でも盛んにコンクールが催されます。絵画の世界もそうです。知的な欲望に侵されているのかもしれません。そろそろそうした評価から解放されて、一人ひとりが素晴らしいと思うものを、一人静かに褒めるような感性が育って欲しいものだと願うのです。そのことを通して人間は自律性、自立性を高めているのです。評価は、大衆を洗脳し、先導する力にもなりかねないものなのではないのでしょうか。心の底から素直に誉められる人が増えてくれることを願います。