人間らしい人間

2025年9月10日

今日は少し悪戯っぽく書いてみます。

私は時々、今一緒にいた人が人間だったのか、あるいはそうではなく人間らしく見えるが本当は上手に人間らしく振る舞っていただけの人工生命体だったのではないかと思ったりすることがあります。もちろんそんな極端なことは滅多にあるわけではありませんが、情を感じない人間味がないような人が多くなっているのことだけは事実のようです。今後将来的には人工生命体とか人造人間というものががますます優秀になってゆくことは十分考えられるわけで、そうなると人間らしい人工生命体 (アンドロイド、Android) と人間そのものとの違いはますます狭くなって行くことは必定間ないことで、しまいには違いがわからなくなってしまうような気がします。

もし一人の人間を能力とか機能するという側面からだけから見たら、それはもうすでに物的世界からものを見ていることになります。状況の中で立派に機能しているかどうかから人間を見ることになるのですから、一人の人間の人間像から離れ、人間が人間離れして、逆に人工生命体が人間らしくなるのかもしれません。Androidが人間化してくるのです。一方人間がどんどん機能的になり、物化、Android化してゆくのです。今は将来大きな流れに成長する始まりにすぎません。そのため違いはまだ明瞭ですが、これから接近どんどん進むわけですから、その時人間としてどのような立ち位置から振る舞ったらいいのか、今の時点ではまだ想像すらできないというのが正直なところだと思います。

人間は能力、記憶力、さらに機能的な側面からだけではなく、利点はなんと言ってもメンタルなサイドで、しばらくはそこを強みとして人間性という感触を持つことができるとは思いますが、心理分析、精神科学による人間分析が進み人間のメンタルが整理されデジタル化できるようになれば、人間そっくりな感情を持ったAndroidか登場することは間違いありません。優しく、思いやりもあり、言葉遣いも丁寧で、知的な分野だけでなく、心を通してしかできない領域でも人工生命体は大活躍すること請け合いです。衝動的になるようなことはなく、依怙贔屓のようなものもなく、精神異常による極度に感情に訴えるようなこともなく、賄賂のようなものは不正も知的に制御されていいるはずですから公平な住みやすい社会が生まれることと思います。穏やかな社会を作るのに貢献しているのはAndroid人間の方で、感情的な問題を起こして社会を乱しているのが人間という構図が未来像なのかもしれません。人間とは愚かなものだとAndroidから批判される時代が来るのかもしれません。

Androidも恋をするのかどうかする生殖行為を通して子孫につなげて行くことはできるのだろうか辺りが、今後のAndroidの課題かもしれません。好き嫌いという理性の枠外のことは一見初歩的なものとみなされがちですが、初歩的であればあるほど未分化の状態ですから逆に整理不能の難しい問題が潜んでいるように思います。理性的なものは思考的に整理できるものですからAndroid的ですが、心の中の好き嫌いという現象は理性から遠く離れているものであり、まだ理性がと届いていない幼稚な所と見られていますが、実は好き嫌いというエモーショナルなものは整理された心理状態とは比べ物にならないほど分かっていないものなのです。初歩的と言えるがゆえにかえって難しい面が多々あります。言語の習得のようなものです。言語を初心者に教える時が一番難しく、上級者はもう教えなくても自力でどんどん進んで行けるのですが、初心者は手取り足取りをしながら教えないとわからないので、熟知したサポートで支えてあげなければならないと言うことになり、教える側からすると非常に高度な言語能力と人間学が必要になります。

さて今日はここまでです。尻切れとんぼのような終わり方をしますが、結論めいたことを言うのは今の時点ではまだ未知数のことが多すぎます。これからの成り行きを見守るしかないようです。

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