気持ちを込めたら変わります
気持ちを込めて作ると変わるもので顕著なのは料理です。料理は食べる人の気持ちになって作られたら必ず美味しくなります。ただこの美味しさは世の中でしきりに言われている美味しいと言うのとは少し違うような気がします。高級食材はもちろん美味しいです、プロの特別な味付けももちろんですが、何か違う美味しさです。
私に中華料理のことを色々と教えて下さった広島の中華の名人は、よく満漢全席の話をしてくれて、調味料を使うのは素材を引き出すところまでと決めていました。塩と胡椒の他にはほとんど調味料というものは使いませんでした。調味料で味付けをしたら食べた瞬間は美味しいと感じても、お料理が続くと調味料の味になってしまってしまい飽きてしまうのだそうです。彼に言わせると食べた瞬間に美味しいと感じるような料理は偽物だそうです。
心を込めて作られたお料理は体に溶けてゆきます。必要以上の調味料で作られたものの味は後まで残ります。体に消える様な透明な味は一度知ってしまうとまた食べたくなる不思議な世界です。体に溶けて消えてゆく透明な味が本物だからです。
家庭料理というのはお腹をすかして待っている子どものことを考えてお母さんががむしゃらに作るので美味しいのです。料理人が作る味にはならないですが、美味しいのです。ただ食べている子どもたちは美味しいと思って食べてはいないと思います。それでいいのです。母の無償の行為なのですから。しかしそこでしっかりと家庭の味を覚えるだけでなく、成人してからの味覚の基準が確立されるのですから、お母さんが作る、がむしゃらかも知れませんが、心のこもった料理は一生の宝なのです。
音楽も気持ちを込めないと音が客席に届かないと思っていつも弾いています。これはもちろん数値で表されるものではありませんが、私の経験から言うと音に命がない音は単なる物理的な周波数です。また意識過剰に気持ちを込めるのも逆効果です。それは自己満足の世界になってしまい、聞き手から拒否されてしまいます。頃合がとても難しいです。客席に届いている音は案外さりげなく演奏されていたりするものかも知れません。
私が苦手にしているものにセラピーがあります。基本的には若い時の大病の経験から医療に少々不信感を抱いているところがあって、そこから来ているのかも知れません。治そうとする意識が私にはどうも邪魔な様なのです。料理も同じですが、思い込みを込めすぎたものは、私の体の中にどっしりと重く残ってしまうのです。セラピーの後かえってぐたっとしていたりします。もちろん優秀なセラピストの方もぞん仕上げておりますが、その方達はやはりさりげなく施術をされます。きっと技術ではなく、意識というのか心の力で施術されているからで、力みが全くないのです。
AIの発達した時代になると効率のいいことばかりが先行してしまう様な気がしなりません。心なんて無視されてしまうのかも知れません。料理などもレシピ通りにいつも同じものができてくるようになるのかも知れせん。均一の味、表面的にはよくできている料理は見た目だけの世界のことです。料理は食べてみないとわかりません。味のない食べ物がどんどん増えている様な気がしてなりません。そうなると物作りが大切になってきます。名工の手になる心のこもった作品は美しいだけでなく使いやすいそうです。よく仕立てられた服や着物は体にぴったりとくっつく様だと聞きます。技術はもちろんですが作っている時の意識のあり方が大きいと思います。長年の経験からの蓄積が大きくものをいうのです。熟練という言葉はAIの対局ある様な言葉です。
エネルギーという言い方で物に宿っている見えない力のことを神秘的に語るのが流行っています。エネルギーはたいてい測定できる物に置き換えられています。心や意識はそうした数値では表せない物だと思うのです。昔シュタイナーの本の中で、「これから物質主義的神秘主義が横行する様になる」というのを読んだことがあります。神秘主義的なことは神秘を敬わないとわからないことだという意味に解釈しています。松のことは松に習えという芭蕉の言葉は日本的な学問のあり方の姿勢なのかも知れません。






