顔の向こう
顔のことを「おもて」とも言います。時代劇で奉行所のおシラスでのお裁きの時に「表をあげ」など言っています。表の反対は裏です。実は心のことを「うら」とも言うのです。浦という字を思い出してみてください。深く入り江になって外からの波が直接入ってこない波の静かなところです。ドイツ語で心のことを「小さな湖(Seele)」というのを思い起こさせます。ちなみに「うらない(占い)」は心を星の動きと比べる、合わせる、読むことを意味しています。
人間同士は顔を合わせて生きています。顔で外の世界と繋がっていますが、自分の顔は鏡に向かった時以外には見ることのないものなので、外でどのような顔をして生きているのかは本人が一番知らないのです。大半の時間を自分がどんな顔をしているのかを知らずにいるということです。鏡に向かって見ている自分の顔なんていうのは例外的な顔なので、私たちは自分がどのような顔で毎日を送っているのかはほとんど知らずにいるのです。
ある人が買い物をする時、特にお店に入る時ののことを話していて「お店の人はいつも私に冷たく接する」と言っていました。本人はどのような顔で、あるいは表情でお店に入って行くのか知らないのです。私からするとたいてい嬉しそうではない顔なのです。「今日もどうせ欲しいものは見つからない」と心の奥で決めてかかってお店に入っているようなのです。その顔でお店に入っていけば、お店の人もうれしくはないですから、同じく不機嫌そうに対応してしまいます。「顔には顔を」ということです。そのことをいうと、「私はいつも普通にお店に入って行っている」というのですが、本人はどんな顔が普通なのかは自覚していないようでした。
周りの人は、私を判断する時、顔を見て判断していることがほとんどです。体の動きを詳しく知っている人たちは私の歩く姿を見て私を知るのでしょうが、たいていは顔が主役です。顔にはさまざまなものが集まっています。目があります。ただ眼球があるのではなく、目つきであったり、眼差しであったりします。目は心の窓なのですから、顔全体を見ているようで目元だけを見ているのかもしれません。口元が微笑んで緩んでいるか、こわばってひんまがっているかで相当違います。人相を本格的に見る人は、そのように内面と並行して四六時中動いている部分より、その時々の状況に影響を受けない、動かないところを見るのだそうです。額だとか、鼻の作りだとか、耳だとか、頬の作り、顎の作り、髪の毛などです。
サングラスをかけてマスクをしている人と初めて会った時はどういう人か想像がつきません。マスクは口元だけでなく頬、顎までも隠してしまいます。夏が過ぎてサングラスを外す時期が来てその人に再会した時にこんな人だったのかと発見することがあります。一つはこんなきつい目をしていたのか、と睨みつけるような目付きを背けてしまうもので、もう一つはこんなに優しい眼差しをしていたのかと、かえって一歩その人の方に近づくくらい嬉しいことです。
さて翻って自分自身はどんな顔をして生きているのだろうと考えたり想像したりするのですが、わからないのです。「鏡よ鏡よ」と聞いても、鏡の中の顔なんかは普段の顔とは違うものです。人が集まっている時にとられたスナップ写真を見たりすることがありますが、それなどは一番近いのではないかと想像しますが、写真は写真です。最近は昔のように構えて「写真を撮ります」ではなく、スマフォで簡単にスナップ写真が撮れますから、いつもの顔に近いものがそこにはあるのかもしれませんが、やはり違うようで納得できません。
肖像画というのは写真が普及してからは衰退してしまったものだと聞いています。確かにドイツで中世のお城などにかけられているあまり上手でない肖像画などは長く見ていられないものですが、肖像写真などが全く及ばないほどの肖像画というものもあります。ウィーンで開かれたレンブラントの肖像画展での体験は、今思い出してもとても新鮮な思いてです。肖像画が壁にかかつていて、その前にたくさんの人が立って絵と向かい合っていました。その中に混じって私は時に絵の方を見、しばらくするとその前に立っている人のかを見ていたのです。絵を見ている人たちの顔は生きている人間の正真正銘の顔なのですが、レンブラントによって書かれた顔の方がどう見ても私に迫ってくるのです。
今までに何度か肖像画の凄さに打ちのめされたことがあります。その絵から声が聞こえてきそうでした。その時ふと私の葬儀には写真ではなく絵にしてもらいたいと思ったのでした。






