教育を超えた教育
何人かいるドイツの友人の中に、先生をやっているのでもやっていたのでもないのに、他人を教育することが体に染み付いている人がいて、うまく付き合ってゆくにはどうしたらいいのか思い巡らしています。生まれつきの教育者ということなのでしょうが、人というのは教育することで良くなるというか改善されてゆくと考えているようなところがあり、浅はかだと感じているのです。
ある時少し揶揄うように、教育に詳しいかと聞いたことがあります。その中でどんな教育をいいと考えているかとも聞きました。返事はもらえませんでした。彼自身教育についてそれほど考えたことはないようで、教育に関したものも読んだことはないようで、基本的には教育には興味がないのだそうです。それなのに日常生活の中では常に目につくものに対して一言言わないと気が済まないよろしくない性格の持ち主なのです。「放っておけばいいのに」というと「言ってやらないとわからないから」というのがいつもの口癖でした。
実際に毎日現場で教師として仕事をしている人と教育について話すと、共通した返事が返ってきます。教育は教育しようという気持ちが一度壁にでもぶつかって打ち砕かれたところから始まるものだというのです。教育しないで教育するというのが教育の奥義なのかもしれないとその話を聞いて感じるのです。
私はよく「過ぎたるは及ばざるが如し」という基本姿勢についてこのブログでも扱っています。楽器を演奏する音楽家たちの時には、「弾き過ぎない」ということですし、歌を歌う人たちは「歌い過ぎない」ということです。やり過ぎると聞いている人たちが疲れてしまいます。
実際にコンサートの後で、「今日は力が入らないまま終わっちゃった」なんて思っていると「今日のは音楽がやってくる遠くが聞こえたようでした」なんて百八十度真反対のようなことが言われて、驚いたことがあります。演奏者が今日はうまくいったと思ったものが必ずしも聞き手にそのまま伝わっているものではないのだということは経験からだんだん学んでゆきました。
新しく作品を練習している時は上手に弾けるようになりたいと頑張っていますが、もしその段階で舞台にでも上がってしまえば、聴衆は迷惑を被ることになります。やはり舞台に乗せられるようなものというのは、暑い日に扇子や団扇で軽く風を撫でるように送れるようになってからということのようです。
昔よく通った著名な歌手によるマイスターコースで、指導するかつての歌い手の方が、若い歌い手に「少なくとも百回は歌ってきたでしようね」とやんわりと釘を際していたのを思い出します。体から溢れるように湧いてきて初めて聞き手を納得させることができるようです。上手に弾こうなんて欲が丸出しの時には聞いてもらえるものにはなっていないようです。
生まれながらの教育者の友人もそうですが、この頃のYouTubeを見ていても、人間というのは人を教育してやろうという下心を捨てきれないものなのだと感じて、なんとなくと避けてしまいます。そんな中で思うのはリスペクト、敬うという気持ちです。畏敬の念です。人間同士リスペクトし合えるようなのが教育で培えることができれば、教育がひとランク上に登ったと言っていいのかもしれません。
私も気をつけて楽しいブログを書いてゆきたいと願っています。






