AIストーリー
最近YouTubeでは盛んにAIとストーリーが登場しています。AIのお手並み拝見という感じで付き合ってみたのですが、話の筋書きは三つも見れば大体がパターン化されている感じで限界を感じてしまいました。かつてヘタクソな小説を三文小説と読んだのですが、AIの書いたものはおおむねその範疇に入るようなものだと結論づけてみないことにしました。御涙頂戴の人情ものとても言ったらいいのでしょうか。
言葉がに工夫がないのはどれも共通しています。そこで気が付いたのですが、優れた小説はストリーで読ませているのではなく、言葉がまずあってそこから話が生まれてくるのだと言うことでした。ストーリーだけを強引に作り出しその後のストーリーをくっつけてゆくと言う感じです。辻褄は合っているし、間違ったところはないのですがまさに三文小説形の手法そのものです。そこにパターン化が加味してくるともう離れてしまいます。
テレビの世界には視聴率というキーワードがあって、特に民法はスポンサーからの身入りにつながるので高視聴率を狙うわけですが、現実にはそれが落とし穴で、視聴率の高ものをとそれに振り回されて番組を作ってゆくと視聴率に迎合することになり、いつの間にか製作者の自主性が感じられなくなり何をみても大体同じという流れが生まれるのです。これはテレビだけの事ではなくハリウッドの映画作りにも当てはまる事です。物事が商業化の勢いに飲み込まれると、そこで生まれることは大体同じ傾向を持っています。
AIの文章は意味は伝えられています。単語一つ一つを見れば別に間違っている描写ではないのです。しかし人間が書いた小説には小説家の持つ文体があります。そこには文体以前にまず癖があります。もしその癖だけで書いていたら、三文小説に成り下がってしまいます。そこで小説家たちは踏ん張って文体と言われるものを作ります。それも結局は癖なのですが、癖でなくなった癖というのか、上等な癖というのか、いろいろにいえますが、とにかく文体まで登り着こうと努力します。
私などは文体が面白ければ、ストーリーなんで気にならないという読み方をするものです。ストリーで読むのではなく文章で読んでいるからです。同じことは人の話を聞いている時、話の内容よりもその人の声に関心が向いていのです。ストーリーより文章が小説の場合は大切なのではないかと考えています。そのため今までにずいぶんの「文章読本むというものが文章家と呼ばれている人たちによって書かれています。「ストーリー読本」というのも探せばあるのでしょうが、文章からストーリーが生まれるという捉え方をすると、その方が意外性などに満ちていて面白いものが生まれる可能性が高いようです。






