感情のありがたさ
知性が高く評価される時代を私たちは生きています。AI、人工知能というのが大いにもてはやされて、多くの人が便利さを謳歌しています。聞けばなんでも答えてくれる。問題があって相談するとすぐに答えてくれる。こんな声は毎日のように聞かれています。
その影には私たちもいつの日か人工知能のようになりたいものだという願望でもあるかのようです。
いま突然人工頭脳が機能しなくなったら大きな混乱が起こるのでしょうか。私の日常生活がAIに依存していないからでしょうが、もしかするとなければないで済むものもあるのではないかと思います。危ないのは便利さに振り回されてしまうことです。
知的な人間が評価されます。色々な資格をもち社会的な地位も得られます。高級取りでもあり生活が保障されています。知的というのが社会生活を保障するわけです。そのために人間は猛勉強します。知至上主義という社会構造ができてしまいます。ところが知性に頼りすぎると世の中は逆に混乱の渦に巻き込まれることになります。夏目漱石ではないですが、知に働けば角が立ち、なのです。知は悪知恵となったとき利己主義が牙を剥き出しにしてむしろ欲を増長するものでもあります。知の自惚が諸悪の根源です。
私たちの時代にかけているのは感情と、意志です。答えがなくても構わないのだという世界です。
特に意志の欠如は人間が芯を作るときに決定的です。意志はコツコツとした努力で培わされるものです。知のように短時間の猛勉強で習得できるものではなく、長い時間を掛けでコツコツと積み重ねた結果なのです。大して意味がないようなことを毎日コツコツと繰り替えすなんて馬鹿げて見えるのです。そうなっては意志を培うチャンスが無くなってしまいます。知と違って成長が見えないというのは結果が見えないのですから、点数の付けようがなく教育者たちが一番苦労するところです。
そうした地味な繰り返しの中から感情というのが芽生えるのだと思っています。意志の欠如が気になるのですが、同じくらい感情の手薄さが気になります。私はよく現代人は感情的に判断しているのではなく、どちらかといえば条件反射的に生きているのではないかと繰り返し言っていますが、感情というのはすぐに判断して、即答ができないものなのです。感情はすぐに判断するというのかできないのです。そもそも判断というのはすぐにするものではないのですが、知の時代はすぐに判断することがいいことだと教えられています。そこでじっくり判断に至るのではなく、条件反射的に反応してしまうのです。その連続では人生は熟すことはないのです。いつまでも青二才ということです。
知の時代は理解し、判断することが中心になりますが、意志の時代、感情の時代は即答ではなくゆっくり醸し出す時間が生活の意識に投じ要します。知の人間は自分を囲ってしまいますが、意志や感情が働くと人間は自分を解放します。解放して、向き合っているものや人と交流が可能になります。感情があることで対象との間を行き来します。感情は採点を下すのではなく、相手を感じ取ることに努めますから点数外の世界です。感じる中で畏敬の念が生まれれば最高点がつけられることになりますが、なかなかそこまでは行かないものです。
意志に至ってはそもそも周囲と一つになろうとする傾向の強いものですから、意志の働きが強なればなるほど周囲と一つになって採点はつけられなくなるのです。もう採点などどうでもいい世界に入ってゆきます。
さて人工知能AIのことに戻りますが、人工知能は知の部分を補うものとしてはとても優れた道具だと思います。知の代用品としては相当真に迫ったもののようですが、意志や感情の部分は人間に任せるしかないのではないかという気がします。人工感情、人工意志はせいぜいそれらしい感じがする程度が限界のような気がします。問題はどんなものにも正確な回答、解答がないからで、無理に答えを押し付けてしまえば実に後味の悪いものになってしまいます。本物の味がしないのです。






