心はリズムで

2013年7月20日

リズム感覚、リズム感は拍、とか拍子とかいわれている時間の中で数を数えるというもののことになっていますが、そうではなくてリズムは時間を泳ぐという風に理解したいのです。水の中を泳ぐ様なもので、拍、拍子と言うのは上手く泳げない人の助けになるものと考えたいのです。

 

現代人はリズム感覚がないのかもしれないのです。それはい以前にもシリーズで時間のことに触れた時にも繰り返し述べたものですが、時間への直接の関係が持ていないから時刻という便宜上のものに頼っているという風に言っておきました。拍、拍子は時刻と同じ働きをしています。刻むという字が示す様に時間を切断しながらということです。実際には切断することはできないですがそれに頼っています。

水の中は流れが命です。金槌の人は解らないかもしれませんが、泳げる人の動きは流れに乗っているのです。

競泳が盛んですから、ビートを鍛えながら早く前に進む様な練習をしますが、いつかはビートを意識しなくて済むくらいになって水の流れの中に、水そのものと一つになった時早く泳げます。ビート、拍、拍子が時間の中に消えてしまいます。水の中だけでなく、陸の上でも同じことが起こっています。百メートルを力づくで走っても早くならないです。しっかり大地をけってというのはビートの世界です。全体の流れを作らないと早く走れません。

リズムを理解するのはとても難しいのです。リズムは動きそのもののと言っていいくらいで、それを感じることは普通はできないものです。古代ギリシャではまだまだリズムが感じられたのです。人々はリズムの中で生きていたのです。

誤解されやすいので、指摘しておきますが、実は古代ギリシャの時代にリズムの崩壊は始まっているのです。

イリアス・オデッセイの盲目の詩人ホメロスは古代ギリシャ文化が始まるしょっぱなのところに位置しています。文化としては、古代エジプトからの遺産の中に居た人です。ヘクサメーターと呼ばれているリズムは、「長・短・短、長・短・短」と言う繰り返しの中で作られる流れです。これはその後のギリシャの詩の文化を作る礎と言われていますが、エジプトからの遺産を引きついていたものだったのです。

今の時代には拍、拍子、ビートとしてとらえられてしまいますが、そもそも言葉がリズム的躍動を持っていたことから、言葉を使って詩を書く時には、言葉の動きに従わなければならなかったということです。そもそも流れを感じながら生きていたのです。魚が泳いでいるのを見て何拍子で泳いているとは言わない様なものです。

この流れを感じる能力はギリシャ時代にだんだん希薄になって行きます。それでもギリシャ時代はまだリズムで語るということは充分できました。リズムを聞けば何を言いたいのかが解るというくらいの能力はまだ持っていたのです。ただし古代ギリシャ文化の前半までです。後半はリズムで語ることが、リズムで理解することが消えてしまいます。ヨーロッパに残っている詩の形は、そのギリシャ文明の時リズムの名残といえるかもしれないものです。

 

何故リズムが消えてしまったのかは言葉の使い方に変化が起こったからといえます。言葉の中にあったリズムよりも意味が重要になってきたということです。意味で物事が伝えられる様になったのです。思考の誕生です。

そこでは神話から歴史へ、詩の文化から散文へ、自然を感じながら哲学したのが今日私たちが哲学と言っている思考的な者の産物としての哲学へと変わって行きました。

 

知的な思考が優勢になって来ます。リズムの感じ方より文法が大事になって来ます。レトリックの様な言い回しの技術が整理されて行きます。

 

新約聖書は聖典として始めて散文で書かれたものです。それ以前は宗教的なものと言うのは全てリズムの中で感じとられる様に書かれていたのです。

 私たちにとって普通になっている散文はそうして文化の中で重要な表現手段になってきたのです。

散文は知的な思考的な表現手段です。知的というのはリズム離れしたものとも言えます。リズムとか時間とかの流れから離れてあるものです。流れではなく、形が重要です。意味と言うのは形のことなのではないかという気がします。現代人のリズム音痴は現代人が知的になり過ぎてしまったことによるのかもしれません。

 

四季にだって流れがあることを忘れているのです。

 

さて文化と言うのはいつも先へ先へと進んで行きます。

散文が誕生してもう二千年以上です。ではその後は何かというところに来ているのではないか、そんな気がします。

それはまさに時代精神の中から、必然的に生まれて来るものですから、私たちが頭でこうしたいああしたいとひねくりまわしても作られるものではありません。それは知的な時代の考え方なのです。

 

 

 

 

 

 

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