言葉の種類
言葉の種類と聞くと、大抵は外国語のことが思い浮かびます。
先日かつて一緒に勉強した人が66歳の誕生日をするからと誘われ行ってきました。ドイツの中でもフランスやルクセンブルクに近いところに位置しているモーゼルワインで有名なところでした。
そこでルクセンブルクのことが話題になり、お嬢さんがルクセンブルクの銀行で働いているという人と話がはずんで色々と新しいことを耳にしました。ルクセンブルクは人口70万人にも満たない小さな国なのに180の銀行があるということでした。世界の泡銭が流れ込んでいるという意味では、小さなスイスのようなものだというのです。ちなみにお嬢さんは五カ国語を話すことができると言っていました。いろいろな国とのコンタクトが命ですから、銀行員は大抵そんな感じで幾つもの言葉を話せなければならないのだそうです。そして33歳のお嬢さんのお給料はというと月150万は下らないということでした。それにボーナスがつき手当がつくのだそうです。五か国語という特技がものをいうのでしょうが、なんだかバランスの悪いものを感じました。
そんな話を支援学校の先生をしていらっしゃる方に話したら、私は学校で三つの言葉でやっていると言ってくるのです。ダウンちゃん語と自閉さん語と同僚と話すときの先生語というのか職員室語を使い分けて毎日やっていますということでした。なるほどと思いながら聞いていました。確かに全く違う対し方が求められるわけで、当然言葉遣いも変わってこなければならないわけですから複数言語文化ともいえそうです。子どもたちは純粋で可愛いので苦にならないけど、職員室で先生達と話すのが一番大変だと言っていました。先生同士で話すと通じているのか通じていないのかよくわからないことばかりだと笑いながら言っていました。三カ国語ではないですが、三通りの言葉遣いをすると、三カ国語に近いものがあるのかもしれません。
むかしあるお母さんが話してくれたのですが、子育ての時は言葉遣いが子どもの成長段階によって変わるので面白いと言っていました。長男は中学二年、長女は小学三年、次男が五才、そして末っ子がまだ一才という家族構成で、思春期に入った長男と喧嘩腰で話して、その後すぐに一才の子の所に行くと天使のように優しくなって、全然違う自分が話しているような気がするのだそうです。さらに小学生が帰って来たり幼稚園の子が泣き出したりすると、違う世界の言葉を一人ひとりの子どもと話しているみたいになるそうです。そこに旦那さんが帰ってきたりすると、一人で何役をこなしているのだろうと我ながら感心してしまうというのです。
ドイツに来たばかりの人たちがよくいうのは、ドイツ語を話している自分と日本語を話している自分は違うということです。もちろん母国語と外国語とは全く次元の違う別物ですから、当然といえば当然なのですが、ドイツ語というのがとても理屈っほい言葉なので、話をある意味で論理的に組み立てないと相手に伝わらないというところは、日本語とは大分違います。そこに流暢な母国語とつっかえつっかえの外国語の違いが加わってくるのですから、分裂した自分を感じるのかもしれません。私のようにもうそろそろ50年もドイツにいると、言葉の切り替えはまるでカメレオンが環境で色を変えるように相手によってコロコロと変わってしまいます。
言葉と人間というのは不思議な関係です。言葉によって鍛えられるものがあるようです。母国語だけで生きている人と沢山言葉を使い分けている人がいます。沢山言葉を話す人を見ていると、この人たちの人格形成は大丈夫なのだろうかと心配してしまうこともあります。お父さんの仕事の関係で世界七カ国で生活したという人と一緒に仕事をしたことがあります。もちろんそれだけの言葉ができるので便利と言えば便利なのですが、それは世界旅行をしている時位で、その人が言うには、どの言葉も深くきわめていないから、言葉を通して文化に入り込めないというのです。それはとても歯がゆいものだと言っていました。その話を聞いて、言葉というのは沢山喋れるというより、深く一つの言葉を身につける方が、その人の人格形成には大切なことなのかもしれないと感じていました。
今日もまた取り止めのない話になってしまいました。