教養というのはなんでしょう
教養特集、教養番組、という具合に、昔はなんでも教養というのが被さっていたような気がします。今の状況からすると有機、Bio、無添加というのに似ています。かつての浅草六区で名を成したミスヤバーというお店で発案されたカクテルは電気ブランという奇妙な名前のものでした。ブランデーをベースにしたカクテルというだけなのですが、当時の流行はなんでも電気がついたので、カクテルにも電気がつけられて、電気ブランとなったのでした。
思い起こすと教養小説と呼ばれたジャンルもあったようです。内容はお説教臭さは否めないものだったように記憶しています。文化というのは教養から生まれるということを信じていたのでしょう。教養は一つのステータスでした。学識人たちの知識です。とはいえ知的な側面の強いもので創造的な要素は含まれていないので、教養に支配された社会はお利口さんばかりが排出されることになるのですが、それで社会が豊かになるかというと、私は疑問に感じます。例えば、みんながお巡りさんになっても、社会がよくならないようなものです。ドイツがまだ二つに分かれていた時、共産主義というのか社会主義というのか東ドイツと呼ばれた国がありました。そこには秘密警察機構が張り巡らされていたのです。東ドイツが良しと考えた社会制度を維持するためには役に立ったのでしょうが、制度、組織のためのもので文化的には全く力のないものでしたから東ドイツは崩壊してしまいました。そういうものでは文化を基盤とした社会というのは健全に維持されないものだという良い経験になったものです。一人ひとりが文化的に目覚めないと社会は維持できないものだと思います。
それに関していうと主観が大事たということでず。ところが物事を客観的にみなければならないとはよく言われることです。しかしその客観的というのも注意してかからないと危ないところがあります。一般的なというふうにたなびいてしまうと、集団意識のようなものになってしまい、全体主義に加担してしまいかねません。大事なのはやはり主観です。一人ひとりがどう感じ、考えているのかということが、社会とか集団とかの中に生きていても守らないとならないものなのです。みんな一匹狼、みんなアウトサイダーという感じが健全を保つためには必要なことのような気がします。
とは言っても主観的な考えを一人ひとりが主張しているだけだと、社会はギクシャクしたものになってしまいます。大事なのは一人ひとりがお互いに尊敬の念を持つことです。リスペクトとするということです。これを欠いてしまうと、主張と主張とがぶつかり合うだけで、まとまりがなくなってしまいます。お互いに尊敬の念を持ちながら共同生活が営めたら、それが一番です。
民主主義というような美しい言葉は、なんだか危なっかしく、いくらかごまかしがあるような気がしてならないのです。人民が主役だということなのでしょうが、そんなことは今までに一度も実現したことがないことなのです。もしそんなようなものができたとしても、ほんの一瞬の短い陽炎に似た命のような気がします。私たちは民主主義だと信じ込まされているだけなのかもしれないのです。教育のおかげでしっかり洗脳されているのです。
最近のネット社会、SNSなどを見るとコメントが氾濫しています。なんにでもコメントするという風潮が蔓延しています。なぜだろうかと考えたのですが、自分を優位に置きたいという本能からのような気がします。何にでも一言申したいのです。それは尊敬の念、リスペクトとは水と油のようなものです。相手を敬うのではなく、自分で自分を敬っているのですから始末が悪いとしか言いようがないような気がします。相手を敬うというのは上等な精神で、自分が謙るということが必要なことが多々あるのです。自分を卑下するのではありません。卑下と謙譲とは違うものです。相手もを少し持ち上げるが、自分を少し引くかの違いはありますが、どちらも社会を健全にする力であることには変わりないと思っています。
教養の話からとんでもないところに来てしまいました。教養という知的な社会のおしゃれのようなものがない社会に生きてみたいです。みんながお利口さんになった今の社会が決して私たちが望んでいるものではないので、教養は案外邪魔なものなのかもしれません。教養が満ち溢れてもよくなることはあまりないような気がします。かえって悪知恵が横行して、醜い社会になってしまいかねません。教養の源は知性でしょう。この知性というのは使い方を間違えると詐欺師のようなところがあって悪賢いものなので要注意です。
みんながお利口さんになるのではなく、尊敬しあえるような社会が欲しいものです。ところで一体尊敬の念のようなものはどのようにしたら培われるのでしょうか、教育の中で、教育というシステムの中で教えられるものなのでしょうか。それとも先天的なもので。持っている人は持っていて、持っていない人はどんなに教えられてもいつまで経っても持てないものなのでしょうか。