直感を磨く
直感を大切にしていますなんていうと、知性派の人たちからは、「ろくすっぽ考えないで物事を決めるなんて子ども騙しだ」と笑われてしまいます。直感を信じていない人にとって直感なんてなんの根拠もないもののように見えるでしょう。根拠をしっかり持って証明するよう習慣づけられている現代的思考からすると、直感はうわついた思いつきのようで危なっかしいものに見えるのかも知れません。
芸術という世界に目を向けるとそこは証明一辺倒な世界とは別の世界があります。直感がイキイキと息づいていて、説明的で、しかも理屈で固められたものとは別の混沌とした世界がそこにはあるのです。芸術とはそもそも個人の直感的な確信に発しているものです。しかも不安定で未完のもので、そうした性質を無視して理屈で型に嵌めようとすると芸術は悲鳴をあげます。それはもう芸術ではなく理路整然とした説明の世界になってしまうからです。芸術は説明しきれないところが最大の魅力と言っていいものなのです。直感はそういう場所でしか鍛えられないものと言えるのです。
芸術を学問的に研究する一つに芸術史があります。芸術史を学ぶと芸術の推移や、芸術の骨格といったものが見えてくるものです。芸術が時代から影響を受けていることは事実ですから芸術史は魅力のある学問なのですが、芸術の心臓部はそれで説明しきれないものです。よく似ているのは音楽家の伝記です。ある作曲家の伝記を読めばその人の作った音楽にたどり着けるのでしょうか。私の経験からいうとそれは難しいようです。そもそも音楽に感動するには音楽を聴くしかないのです。
音楽的直感を持たないとそんな混沌とした世界は不安になってしまい、溺れる者藁をも掴むになってしまうのでしょう。言葉は藁のようなものです。どんなに言葉を尽くしても語りきれないものがあるというのが芸術の魅力だと思っています。そんな不確かな空間から芸術というものは生まれているのです。それは古代から現代まで変わらない芸術の姿です。そしてこれからもづっと続くものなのです。
楽器を演奏していると、直感が頼りで、いつも直感で弾いていることが分かります。演奏する作品の練習は大事なことです。しかし練習ばかりしても上達しないことも演奏家はよく知っています。本番という場数を踏むと練習以上の収穫があるものです。それは本番で音作りをしているときは直感が練習の時以上に働いているからです。練習した時の記憶に頼って演奏していると、音楽が固くなってしまいます。音楽のしなやかさは演奏が直感の連続の中にある時に生まれるもので、練習の成果だけではこちこちの感動をもたらすことのない音楽になってしまうのです。演奏の大家からよく耳にするのは「練習が嫌いだ」というのはこういうことなのです。
直感と芸術は鶏と卵のようなものです。芸術を支えている直感にとって大切なのはぼんやりする時間です。ぼんやりしている時が直感がイキイキする時なのです。頭で考えている時はしっかりと焦点を合わせてしまいます。それは結論ありきで考えていることが多いので辻褄合わせにしか過ぎないのです。考えるというのは白いキャバスに向かう時のように道に向かっているるものなのでしょうかす。無限の可能性の中を泳いでいるので、考えるといのも実は芸術的な側面も持っているものなのです。ジグゾウパズルのようにいつか終わるものではないのです。
とは言ってもジグゾウパズルにも別の側面があります。天才的なお子さんが五百ピースのものを二時間くらいで完成させたのを目の当たりにしたことがあります。そのお子さんのジグゾウパズルは直感的に私には写りました。そのお子さんは、普通は枠の所から始めるのに、全く違って一つのピースを取り出してそれを机の上に乗せ、そして残りのピースの中からその隣に来るピースを探すのです。残りの四百四十九のピースの中から一つを見つけ出すのは普通人には容易なことではありません。鋭く厳密に形を見抜く力がないとできない技です。興味深いのはそのお子さんにとってパズルが完成するというのはどうでもいいことなのです、隣に来る形を見つけていることがそのお子さんにとってのジグゾウパズルなのです。直感に近いもののように見えますが、そのようにパズルを早いスピードで完成させることができたのは、そのお子さんの持つ鋭く研ぎ澄まされた形認識能力だったようです。そのお子さんは重度の自閉症と病気を持ったお子さんでした。
話がずれてしまいましたが、直感というのは大抵の場合ぼんやりする時間に宿ります。大切なのは体のリラックスです。それと結論を急がないことです。直感は自力というより他力の部分がかなりあります。がむしゃらになるのではなく、自分が空っぽの器になることでそこに降りてくるものを直感と言っているのです。直感は心の中に降りてきたものを指していうのです。心の中が水晶のように透明になれたら直感が冴えてくることでしょう。






