歌の喪失と歌の復活
歌には詩があります。歌詞と言われるものですが、その詩の言葉は歌いながら口ずさまないと思い出せないものです。この事実にはいつも不思議を感じています。これは日本語だからというのではなく、ドイツの歌の歌詞を言うときも口ずさ間ないと思い出せないものなのです。
詩は独立したものですから必ずしも歌とならなくてもいいのです。歌になりやすい詞と歌にできないような詩とがあります。どちらが良い詩なのかと言うことは言えません。ただ今までの経緯からすると難しい堅苦しい詩の言葉はメロディーになりにくいもののようです。よく文学の専門家たちはシューベルトが曲をつけた詩を「文学的には大して価値のあるものではない」など言いますが、言葉のイメージが歌になりやいすものが選ばれたので、シューベルトの歌から文学批評をしてもなんの意味もないと思います。文豪ゲーテがモーツァルトのオペラ「魔笛」を聞いて感動して、「続魔笛」と言うものを書いたのですが、文豪らしい作品で難しすぎて誰も音楽をつけようとはしなかったと言われています。「魔笛」の台詞は至って単純なものだったのでオペラになれたのです。いわゆる学問的な専門用語などは絶対に歌として歌えない言葉です。もし仮に誰かが哲学の専門書に歌をつけたとしても、とてもじゃないですが歌えるものではないはずです。もちろん聞くに耐えるものでもないと思います。
料理などもよく似ていて、素材を生かしたものが本当に美味しいものです。たくさん講釈をつけて、難しい料理を出されても、私などは喜んでいただく気にはなれません。シンブルと言う言い方は誤解を招きやすい言葉ですが、単純なと言うより、素材に沿ったと言う意味のシンプルもあると考えています。そう言う料理はまた食べたくなります。歌も同じで、歌詞とメロディーがマッチしていると長く歌い続けられるものです。
言葉の生い立ちを見ると、そもそもは歌われたものだと言うことがわかってきます。オーストリアのアポリジニは言葉は祈るためと歌うためにあると考えています。歌抜きには言葉は考えられないといってもいいのです。言葉が歌離れをしたのは、言葉に散文が居場所を獲得したときからです。言葉が理屈と説明と結びついた時からです。論理的になったときです。説明することで納得が得られるようになってからです。証明が価値を持つようになってからです。
或る詞の一節が、例えば「青い空の向こうに」といったとしたら、「空の向こうとはなんなのか」と科学者は嘲笑するでしょう。科学的に証明しなければならないからです。しかも「空とはどこからどこまでで、その向こうとか彼方とはどこを指しているのか」と厳しく質問してきます。私が、「その言葉で詩心が駆り立てられるのです」といっても、お互いに平行線です。
歌の喪失というのは、言葉から魂が抜けて、意味を伝える道具になったことを意味すると思っています。今日は合唱、つまりコーラスが盛んです。私の住んでいるシュツットガルトには二重や三重のコーラスグループが存在します。このコーラスの起源は古代ギリシャで、詩を歌いながらの輪踊り、輪舞だったのです。詩は今日のように散文詩ではなく韻文という形を持ったものであり、そこにはっきりとしたリズムがあったのです。そのリズムに合わせて踊ったのです。古代ギリシャの劇の中でその輪踊りは形を変え、劇の進行を歌で説明する係になります。日本の能楽の謡と同じです。その後グレゴリオ聖歌の中では聖書の言葉を歌いながら朗誦するようになります。そこまではユニゾンと言って、一つの声部しかなく、近世に入ってパレストリーナ以降今日のコーラスの多声部形になります。
コーラスは説明と言う知的作業を音楽を使ってやっていると見ていいのかも知れません。ヨーロッパでは楽器によるの音楽が盛んになり、その音楽からの影響からいくつもの声部に分かれて歌うようになってからは歌が立体的になり、建築的な要素が増してきます。楽器での音楽作りと合唱は並行しています。言葉よりも音楽的要素が中心になったといっていいと思います。個人的には、合唱は歌と呼んていいのか迷ってしまいます。声が主体となっている音楽づくりだから歌だというのは単純過ぎる解釈です。本来の歌からはずいぶんはなれてしまったような気がします。
私たちはまた歌を取り戻すことができるのだろうかということはよく考えます。人間が歌を必要としているのは明らかです。クラシック音楽の中では歌曲の音楽会は閑古鳥が鳴くような状態ですが、ロックやポップの音楽ジャンルでは、何万人という集客が可能なのです。武道館、野球場といった規模の会場がたくさんの人で埋まるのです。多くの人が歌を求めていると見ていいのではなのでしょうか。クラシック音楽が歌を失ってしまったのとは逆に、クラシック以外の分野では歌は衰えることなく歌い続けられていると言う事実はないがしろにできない事実だと考えます。






