続・文章の書き出し
文章の書き出しには有名なくだりのものが多く、古典では源氏物語、平家物語、方丈記など、近年では夏目漱石の「草枕」の冒頭の名調子が思い出されます。中でも平家物語は、琵琶法師によって語られるものですが、「諸行無常の鐘の音」に始まる冒頭の部分は琵琶法師が生涯で三回しか人前で語ることが許されていないものだと伺ったことがあります。
古代ギリシャのホメロスの叙事詩「イリアス」は詩神ムーサ(ミューズの神)への祈りから始まります。三千年ほど前の世界では神の国、イデアの世界を近くに感じていたのでしょうか、まずは神様にご挨拶を申し上げずにはことが始まらなかったのだと思います。
少し話がそれますが、私が障がい者施設でセラピストとして働いていた時に、私のところに来る子どもとの最初の時間はとても大切でした。私も緊張していましたが、当の子どもの方は私の何倍も緊張していたはずです。付き添いできていた第三者的なお母さんは、「自分の子どもがどんな人のところにお世話になるのか」を母親として感じ取っていらっしゃったようで、「今回はうまくいきそうだとか、難しそうだ」というのが直感的わかるのだと伺ったことがあります。その最初の時間がうまく行くと、その子どもとはすぐに馴染んだ関係が生まれるもので、そうなるとセラピーでは何をやってもうまく良くものでなのです。人間関係という言葉で括ってしまえばそういうことなのですが、人間の間に流れているものはとても神聖なもので、そこが踏み躙られてしまうとどんな高尚なセラピーも宝の持ち腐れになってしまいます。
詩人や作家が必ずしも第一行から書き始めているのではないことはずいぶん昔に耳にしていたのですが、書き出しがどのくらいの比重を持ったものかは今の方がヒシヒシと感じています。シュバイツァーがほとんど書き上げて、最初の出だしの文章だけがまだ書けていないと編集者を待たせたわけですが、正しくは「最初の言葉が降りてこなかったから」ということかもしれません。他力という言葉が宗教の世界にありますが、彼の本でいうと本文は自力で書いたのでしょうが、冒頭だけは他力にすがらないと書けなかったと理解したらどうでしようか。






