父性と母性

2013年4月3日

生きていることが神秘に見える様になるのに随分時間がかかります。若い頃には全く縁がないと言うか、考えることではないことのようです。

 

生きているというのは、いろいろな角度から見られるものです。そしてよく見ると随分いろいろな層があるんですね。こんなことは年齢を重ねて初めて言えるのかもしれません。

合理的に整理できるものもあれば、そうでない不理尽なものも人生の中にはあります。不理尽は特に角度を変えただけでは見えないことがあり、層の違いを認めて見なければならないものかもしれません。

 

日常生活が女性的だとは前にも書きましたが、女性性の中でも母性というものが日常生活を支えている大きな力ではないかという気がします。

母性的な曖昧さ、いい加減さという言い方にしてしまえば、いかにもよくないことの様に見えるものですが、なんでも受け入れるという母性性を偉大さと見てはどうでしょうか。偉大なる母というわけです。

母というのはただ子どもを宿し、生むだけの存在ではなく、子どもを育てることは勿論ですが、何かを育てる力を持っているものです。

現代はイヴェント的な男性的なあり方が優先しています。これはとても外から見て解りやすいものですが、それが社会を育てているかと言うと、すぐに結論が出ることではないと思います。形は整理されてはいるのでしょうが、心の部分は見過ごされているのかもしれない、そんな気がします。

心理学がとんなに発達しても、もしかしたら人間の心がそれに応じて育つのかというのは、今までの様子を見ていると疑問です。

 

母の偉大さに目覚める時期が来ているのかもしれません。

今までの読書の中で、母性が大切なことを随分読みました。でも教育を考える人たちにはそうした声は届いていないようです。教育も教育学では整理できないものがあり筈です。教育にも母が、母性が必要なのかもしれません。

 

父性性は外のことを整理します。それは大事なことです。でも 母性性の善くも悪くも受け入れてしまうという懐の深さも、人を育てる、社会を育てる時には大事なことだと思います。

 

知的に整理された世界、それはある意味では物質的な考え方が支配しているのかもしれません。

精神的なものというのはもう一つ枠が大きいのではないかという気がするのです。層が深いのかもしれません。母というのは案外精神的なものを多く持っている存在なのかもしれません。

日常生活の中に母性的なものがもっと入り込んで来てくれることを祈っています。

自分の中の母性性に目覚めると、自分自身をも受け入れる力になるのではないか、そんなことも考えています。

駄目な自分をただ批判するのではなく、受け入れ許す力になる様な気がするのです。

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